こわさんのブロマガ

あたりまえの子供時代

2017/10/21 15:24 投稿

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 私は津久井やまゆり園に千羽鶴と鶴のストラップを届けるために訪問する予定だ。

 あの事件以来、利用している障がい者の方々のうち、約110人が横浜市港南区に仮住まいし、約30人がやまゆり園以外の施設に移り生活をしているそうだ。

 私はこの事件のことを思い出すたび、幼い頃のことを思い出す。

 私が津久井町(現相模原市)に引っ越してきたのは5歳のときだった。
前に住んでいた町田市には周りに子供がいなかったが、ここには近所にたくさんの子供たちがいた。

 引越してきたその日に7人くらいの子供たちが、片付いていない我が家に押しかけてきた。
その中に道端で摘んだ花をたくさん抱えた女の子がいた。その子は他の子と明らかに様子が違った。
見た目も話し方もちょっと違うその子は、私に持っていた花を
「これ、あげる。」
と言って差し出してきた。
戸惑う私に父が
「ありがたくもらいなさい。」
と言ったので
「ありがとう。」
と言い受け取った。
そして他の子たちが
「いっしょに遊ぼうよ。」
と言うので、花を母に渡して遊んだ。
 
 そして家に帰ってから、花を手渡した子は障がいのあることを父から聞いた。
その時父に
「お前や他の子よりも大変でつらい思いをしているのだから、大切にしてあげなさい。」
言われた。
私がその子が「ダウン症」という障がいだと理解するのは数年後のことだ。 

 とにもかくにも父に
「大切にしろ。」
と言われたことで、私は常にその子と幼稚園から帰ると、いつも一緒に遊んでいた。
 それから小学校に入学してからは義務教育の9年間のうち、6年間は同じクラスになった。
常に3クラスはあるのに一緒だったのは、学校側が意図的に組んでいたのだと思う。

 その子は学校でも帰ってからは必ず我が家に来て遊んでいた。そして最初にひらがなを教えたのは私と父だった。
せめてひらがなで名前くらい書けるようにしたいと決めた私は父にノートを買ってと頼んだ。
父は
「買ってあげる以上、どれだけ時間がかかっても責任もって教えるって約束するなら何冊でも買ってやるよ。始めたら途中で投げ出すなよ。」
 そして買ってもらったノートを使い、名前が書けるまで毎日宿題のかたわら私が教えて、父が仕事から帰ると父が教えていた。その子両親は自営業で店が19時に終わるのでそれまで預かっていて、いつもお母さんかおばあちゃんが店が終わると迎えにきていた。
初めて名前が書けるようになったとき、おおはしゃぎで
「できた、私の名前!」
と言って私の母に
「おばちゃん、できたよ!」
と言って
「お母さんに見せるから帰る。」
と急いで帰ったものだ。

 そして遠足や修学旅行もいつも一緒、時にはその子の財布を預かることもあった。

 私はそれが
「あたりまえのこと」
だと思っていた。
しかし、周囲の子供たちか見たら
「あたりまえではないこと」
だった。
 だからその
「あたりまえではない」
私はいじめの標的にされた。
靴に画鋲、テストは焼却炉に捨てられ、机にはチョークで落書き。

 中学時代は養護学級の担任にも嫌がらせされた。
 
それでいつも泣かされ、ときには学校を不登校になった。
それでもその子は毎日家に迎えに来ていた。 

 母はある日、
「あの子と一緒だからいじめられるんだから、一緒にいるな。」
と言い出した。
それを聞いた父が母に
「自分よりハンデのある子の面倒を見て何が悪い、恥でもないむしろ誇れることをするななどと二度と言うな。」
と激しく怒鳴ったこともあった。

あれから30年余り経つが、その子は会うと周囲の人に
「この人はユキちゃん、私の友達です。」
私の両親は
「ユキちゃんのお父さん、お母さん。私のおじちゃんおばちゃん。」
と紹介している。
昔も今もその子からしたら私たちは
「友達と友達のおじちゃんおばちゃん」
なのである。

 あの花をもらった日から、私には
「あたりまえの友達」
になり、それがきっかけで後に私は看護助手になり、今の私がある。

 私には今でも最高の友達であり、私の原点でもあるのだ。


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