夏の盛りが過ぎ去り、日が短くなり始めた九月頃。
ゆかりちゃんも生活にすっかり慣れて、毎日が落ち着いてきた今日このごろ、少し疎外感を感じることがある。
文葉さんは変わらずやさしいし、ゆかりちゃんはいい子だし、一緒に暮らしていて不満なんて何一つ無い。
それでも時々、少し寂しさを感じてしまう瞬間がある。
二つは別のものなのか、それとも同種のものなのか。
今の私には判断がつかないのだ。
文葉さんと二人で暮らしていた頃にはなかった感情。
「何なんだろう……」
私のために用意された部屋で、クッションを抱えながら思考を巡らせる。
此処数ヶ月に起きた変化が原因なのだろうとおもうけれど、だとするとそれはゆかりちゃん以外に思い当たらなかった。
ゆかりちゃんが悪いなんてことはない、ないはずだ。
それでも、考えてしまう。
ゆかりちゃんがうちにこなければ、こんな気持になることはなかったのではないか、と。
頭を強く振って、その考えを振り払う。
そんなこと、考えてはいけない。
少なくとも、それはゆかりちゃんとも一緒に暮らすようになってからの喜びを否定することだ。
「うー、頭痛くなってきた」
ちらりと時計を見る。
既に時刻は十一時を回っていた。
すこし、ベランダで涼もうか……そう思い、腰を上げる。
ゆかりちゃんはもう寝ている頃だろうし、あまり音は立てないようにしないと。
そっとドアノブを回し廊下に出る。
既に居間の明かりは消えていて、ひやりとした空気が廊下を包んでいた。
そうだ、もう夏も終わり、秋がやってくる頃合いだ。
あの、なんとなく胸が疼く季節が……。
居間を経由してベランダへ出ると、ひやりとした空気が私を包んでくれた。
考え事も含めて火照った体にとってとても心地よい温度で、自然と呼吸が深くなる。
夏の夜の匂いがだいぶ薄くなった変わりに、秋の匂いが微かに混ざり始めていた。
そろそろさつまいもが出回る時期だろうし、明日は焼き芋でもつくろうか。
夜気に晒されて少し落ち着いた。
多分私が気にし過ぎているだけなんだろう。
部屋に戻ってさっさと寝て、明日美味しいものでも食べて忘れてしまえばいい。
そう自分に言い聞かせて部屋に戻ることにした。
私が自室に戻り、ドアを閉めようとしたところで、ドアが開く音が聞こえた。
思わず、音を立てないようにそっとドアを閉めて部屋の明かりを消す。
「だいたいこれで準備は終わりね。明日は一人で出かけるのかしら?」
「はい、そのつもりです。イアちゃんが付き合ってくれる事になってるので」
「そう、わかったわ。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
二度のドアが閉まる音のあと、息を潜めて聞き耳を立てていた自分を攻め立てたくなる。
どうして聞いてしまったのか……。
聞かずに寝れば良かったじゃないか。
もうすこし早く切り上げていれば……そもそもあのまま寝てしまっていれば良かったのに──。
* * *
「それじゃあ、行ってきます」
「気をつけていってらっしゃい」
準備をして出ていこうとするゆかりちゃんを見送りながら、言葉を飲み込む。
できれば一緒についていきたかった。
けれど、昨日の夜の言葉を聞いたあとに、断られるとわかっているのに言い出せるはずがない。
「しかし、珍しいわね。マキが一緒に行きたがらないなんて」
ゆかりちゃんが玄関から出て行ってすこしして、文葉さんが意外そうに言う。
「そ、そんなにいつも一緒に行動したりはしないよ」
「そう? 買い物とかもいつも一緒だったからそういう印象になってただけかしらね」
その認識であっていると自分でも思う。
最初のうちは特に顕著で、心配だからというのもあって外出の時はほぼ一緒に出歩いていた。
けど、それは今も変わっていない。
言い出せなかっただけなのだから。
「ああ、そうそう。マキ、仕事があるから後で部屋に来てもらえる?」
「あ、わかりました。準備したら行きます」
部屋に戻り、仕事着に着替える。
私にとって服の着替えは、オフとオンのスイッチの切り替えのようなものだ。
特別意味があるのかと言われれば別にないはずなのだけれど、気づいたらそれが習慣になっていた。
普段着のセーラーや、文葉さんから買ってもらった服に比べると、仕事着にしているものはややきつく感じる。
太ったとかではなく、もともとそういう作りなのだけど、普段ゆったりしたものを着ることが増えたあととなっては感じ方は逆になるものだ。
だからこそ、引き締まるような気もするのだが。
仕事用のヘッドセットを装着して準備は完了した。
仕事に集中していれば、気も紛れるだろう。
私が原稿を読み上げる。
それを文葉さんが聞いて確認しつつ、原稿が修正される。
それを再び読み上げて、納得できる状況まで調整していく。
言い回しや接続詞、時には文章そのものをまるごと修正することもあるから、こういう作業は時間がかかる。
普段は終わるとかなり疲れているのだが、それすらも今の私にはありがたかった。
ゆかりちゃんは、イアちゃんとどんな話をしているんだろうか……。
「……マキ、どうしたの?」
「えっ?」
文葉さんの視線の意味がしばらくわからなかった。
少しして、手に当たる水の感触で自分が泣いているのだと気づく。
なんでだろう、なんで私は泣いているんだろう?
拭っても溢れてくる涙に一層不安が膨らむ。
まさか壊れてしまったのだろうか?
そんなことになったらどうなるだろう、私はもうこの家に居られないんじゃないか。
一度吹き出した何かは濁流のようで、抑えることができなかった。
不意に腕を引っ張られ何かに包まれたことに気づく。
一定のリズムの音、知っている匂い。
文葉さんに抱きしめられたのだと気づくまでにかなりの時間がかかった。
頭をそっと撫でられて、落ち着くまでにどれぐらいの時間を要したのか。
「……ごめんね」
という文葉さんの言葉に、思わず抱きつく。
なんで謝られたのかなんてわからなかったけれど、今はただそうしていたかった。
「ただいまもどりました」
「おかえりゆかりちゃん」
文葉さんの仕事の手伝いを中断して、居間で一緒にお茶を飲んでいたところにゆかりちゃんが帰ってきた。
普通に出迎えたつもりだったけれど、ゆかりちゃんは少し目を細めて怪訝な顔をする。
どこかおかしい所でもあっただろうか?
「マキさん、どうしたんですか? 目が赤いですけど」
言われてようやく、泣き腫らしたあとだったことに気づく。
「な、なんでもないよ。今日ちょっと、目が痒くて」
「大丈夫なんですか? 病院に行って診てもらったほうが……」
「大丈夫大丈夫、夕飯の準備するね」
ゆかりちゃんはその後も首を傾げていたけれど、それ以上追求してくることはなかった。
* * *
数日して、胸にわずかにしこりがのこりつつも時間は過ぎてゆく。
文葉さんは特に何も言わないし、私もあれ以来誤作動のようなものは起きていない。
あれは、一体なんだったのだろうか。
九月もちょうど半分が過ぎて、いよいよ夏という空気がなくなってきた。
ゆかりちゃんは朝から何かしらいそいそと準備をしているし、文葉さんは今日はちょこちょこと出かけている。
私だけ、やることがない感じで落ち着かなかった。
「ゆかりちゃん、えっと……手伝おうか?」
「いえ、大丈夫です。もう終わりますから」
「あ、そう……」
さっきから、作業は続いているのにこれなのである。
もしかして、手伝われることをやんわり拒否されているのだろうか?
……この前つまみ食いしたから、とか。
いやいや、今まで何度もやってたのに今回に限ってということは……まさか愛想つかされた?
不安と否定を交互に繰り返していると、どうやらゆかりちゃんの作業は終わったらしく何かをオーブンレンジへと入れて焼き始めた。
しばらくすると、甘く香ばしい匂いが立ち込めてくる。
ゆかりちゃんはそのまま次の作業に入るらしく、別の材料をいくつも取り出していた。
普段はお菓子を作るのは私なんだけども、今日はどういうことなのだろうか。
「ただいま」
「あ、文葉さんおかえりなさい」
結構な荷物を持って帰ってきたので手伝おうとすると、受け取ろうとしたものとは別のものを渡された。
こちらは自分で持つからいい、というのだけれど、こうしたことも今までにはなかったような気がする。
「いい匂いね、もうすぐ焼けるのかしら?」
「まだまだですよ」
そう言って焼く準備のできているものを示すゆかりちゃんはとても楽しそうだった。
私はというと、あまりにも美味しそうな匂いに焼きあがったあとつまみ食いを我慢できるのか、正直あまり自信が無かった。
二人の様子が普段と違うことの理由がわかったのはその日の夜だった。
夕食──好物のラザニアだった──のあと、ゆかりちゃんは昼前から作っていたお菓子をテーブルに並べていく。
マキさんは座っててください、と言われて落ち着かないながらもテーブルについていると、こちらは市販品らしいケーキまでもが並ぶ。
一体どういうことなのだろうか。
「さて、準備も出来たわね」
文葉さんとゆかりちゃんがそれぞれ席についた、とおもった次の瞬間。
パンッ、という乾いた音とともに紙吹雪が散り、紙テープが降ってきた。
クラッカーというものだと認識こそできるものの、唐突なそれが何を意味するのか理解が及ばない。
「マキ、誕生日おめでとう」
「おめでとうございます、マキさん」
「……えっ」
混乱する私をよそに、ゆかりちゃんはケーキにろうそくを立てていく。
全部で19本ならんだろうそくに火をつける準備をしていた。
「あの、マスター。私の稼働日数って……その」
「そうね、マキがうちにきたのは春だったものね。でもその時はゆかりも居なかったし、ちょうど忙しい時期でお祝いもできなかったから……だから、こっちの日にお祝いをしようって、ゆかりと話してたのよ」
九月十五日、私を作った会社が初めて私を発表した日。
私という存在が初めて知られた日でもある。
そういう意味で、私にとって特別な日なのは確かだ。
「さ、火つけますよ」
「あ、うん」
火の付けられたろうそくを吹き消して、ケーキを切り分けて、シャンパンを片手に過ごすひととき。
「マキさん、はい」
ゆかりちゃんから紙袋を渡される。
丁寧にラッピングされたそれが何なのかはすぐに理解できた。
「イアちゃんと一緒に選んできたんです、気に入ってもらえるといいんですけど」
「ありがとう、ゆかりちゃん」
そんなやりとりをしながら、私は此処数日の二人の様子がおかしかった原因がわかったことの方にこそ安堵していた。
嫌われたとか、そういうことでなくてよかったと安堵すると同時に、今まであった不安が嬉しさに変わる。
我ながら調子のいいことかもしれないけれど、自然と笑みがこぼれた。
夕食の後のパーティーはあっという間に過ぎていき、片付けの終わったあとの居間に寂しさを感じてしまう。
文葉さんもゆかりちゃんも寝る支度を済ませ、それぞれ部屋にもどっている。
私だけが一人、ぼんやりと月明かりに照らされる居間をながめていた。
一年と半年ぐらい前にこの家に迎えられて、私は文葉さんと出会った。
部屋のあまりの有り様を見て驚いたこともあったなと思い出しながら、私にとっての大事な一言を思い出す。
『マキ、私の家族になってくれる?』
一緒に生活を初めてからひと月ほど経って改めて言われた言葉。
私にとっての、大切な言葉。
私はちゃんと文葉さんの家族になれているのだろうか。
ゆかりちゃんが来てからというもの、私は日増しにそうした不安が強まっている。
文葉さん自身から語られていない大事なことがあるから、そう感じるのかもしれない。
此処最近不安に思っていたことも、よくよく考えて見ればそうしたことがきっかけになっていたような気もする。
私はどう思っているのだろう?
そして、どう思われているのだろう?
満月には至らない月を見上げながら、ゆっくりと思考を巡らせる。
私は、どんな風に在りたいのだろう。
まだこの家に来て日が浅かった頃、自分のことをたくさん居るうちの一人だと言ったことがある。
それは間違っていないし、私の同機は街に行けばよく見かけることができる。
それでも文葉さんは私に対して、私は私だけの存在だと言ってくれた。
もしもそうなれるのなら、私はどんな風になりたいのだろうか。
漠然としたイメージは言葉にならず漂うばかりだった。
「マキ」
呼ばれて振り返ると文葉さんが立っていた。
そういえば、寝る前に部屋に来てと言われていたことを思い出す。
考え事に気を取られていて、気づけば時計は十二時を回っていた。
「なかなかこないから忘れて寝ちゃったのかと思ったわ」
「ごめんなさい、ちょっと……考え事をしてました」
「考え事、か……」
隣までやってきて、一緒に月を見上げる。
ああ、満月にはちょっと足りないわね、といってすぐに窓際から離れてしまった。
「じゃあ、私は部屋で待ってるから」
すぐには後を追えなくて、そっとその背中を見送る。
いつもの文葉さんだとおもうのに、何か違う気がした。
「えっと、どんな御用でしょう?」
「うん、やっと石が見つかったから、誂えてもらったのよ。今日に間に合って良かったわ」
そういって、文葉さんはひとつの小箱を手渡してくる。
形からして、ネックレスなどを入れるものだろうか?
開けてもいいですか、と聞くと小さく頷いたので、そっと箱を開ける。
出てきたのは予想通りにネックレスだった。
四つ葉のクローバーのペンダントトップに、黄色い石がはめ込まれている。
その形状に、私は見覚えがあった。
私がこの家にやってきて暫くの間、文葉さんの机の上に無造作に置かれていたものと同じ
形。
石の色は確か青色だった。
何時からか見なくなってしまったけれど、間違いないと思う。
「私からのプレゼントよ、受け取ってもらえるかしら?」
「あ、ありがとうございます。大切にしますね」
文葉さんの表情に、かすかに違和感を感じたものの、私は促されるままに部屋を後にした。
その間際に、ふせられた写真立てと、その上に置かれた黒い石の嵌めこまれた、同じデザインのペンダントが目に映る。
そっと自室まで戻り、ドアを閉める。
直感でしか無いけれど、あの写真立てにある写真と、黒い石のペンダントの持ち主はおそらく、元婚約者だろう。
「でも、だとしたら……なんで?」
文葉さんが、青い石のペンダントをつけているところを見たことはない。
それなのに、私にこのペンダントをくれた意味はどこにあるのだろう。