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紅月蓮華の空想書架

夏秋のうつろいゆくなかで~酷暑~

2013/09/09 19:00 投稿

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 太陽と緑が一年で最も栄える時期。
 その年最高の太陽光線が、アスファルトを焼き陽炎を生み出している。
 揺らめく景色の向こう側、水をあげたベランダの植物たちもしおれ気味。
 クーラーは動かしているはずなのに、それでも室内が暑いと感じる程度には太陽のほうが優勢。
 まさに、夏真っ盛りと言った有り様だった。
 ダイニングの方へ行ってみると、マキさんが飲み物に氷を入れてその冷たさにあやかっていた。
 私も同じように、麦茶に氷を入れて席に着く。
 マスターは、今日はまだ部屋から出てきていない。
 マキさんが言うには、締め切りが近いと食事なんかも摂る時間をすっぽかすんだよね、とのことだったが、あまり良いこととは思えないのだけど。
 かと言って、この家に来てひと月足らずの私がそこに口を出していいのかというと、それは出過ぎのような気がする。
 それに、どちらかというとそういったものは家政婦のような人に任せるべきというのが、私のデータベースに保存されている知識だった。
 少なくとも私達はそういうことをするために生まれてきたわけではない。
 とは言え、私達の本業となる仕事も、マスターの都合で今はあまりない。
 多分、迎えられた先の中ではかなり仕事が少ない場所なのではないかと思う。
 ガーデニングショップの店員をしているイアちゃんと仲良くなったのだけれど、どうにも毎日朝から夜までお店の仕事を手伝っているらしいから、おそらくこの考えはあたっていると思う。
 マキさんはそうしたものに既に慣れてしまっているのか、特に気にもせずゲームに興じていた。
「マキさんは、何をやってるんですか?」
「ん、これ?」
 マキさんが答えようとしたとき、勢い良くマスターの部屋のドアが開いた。
 思わずお互いに話を中断し振り向くと、目の据わったマスターが現れた。
 私でもなんとなく嫌な感じがする空気をまとっている。
 マキさんは、表情が固まっていた。
 マスターの部屋から電話の着信音が鳴り響いているけれど、マスターはそちらには一切反応しなかった。
「マキ、ゆかり……夏を満喫しに行くわよ」
「あの、マスター……電話が鳴ってますよ?」
 まずいことを言っただろうか、沈黙が少しの間続く。
 マキさんは黙ったまま、反応を示さない。
 マスターは眉一つ動かさないままに再度告げた。
「マキ、ゆかり……夏を満喫しに行くわよ」
「はい」
「はい」
 有無をいわさず、というよりは、有無を言う余地がなかった。
 おそらく、この感覚が畏怖とか、そういう類のものなんだと思う。

 *   *   *

 マスターの運転する車でやってきたのは、家からおよそ三時間ほどの距離にある山間のキャンプ場だった。
 予約も既に済んでいるらしく、駐車場に車を止めた後、鍵を受け取ってコテージに行くまでが一連の流れのごとくスムーズに終わる。
「ふはー、山でキャンプとは思わなかったよ……」
「え、でも水着を買ってきましたよね……なんででしょう? 私はてっきり海へ行くのかとおもっていたんですが」
「さぁ、着替えたまえ」
「え?」
「えっ?」
 ニヤニヤと笑うマスターを見て、まさか観賞用なのではと一瞬訝しんでしまう。
 そんな不安は、テーブルの上に置いてあったパンフレットによってすぐに払拭された。
 山中の泳げる湖、山と水場を堪能しよう、そんな謳い文句が印刷されている。
 確かにマスターの言ったとおりに、夏を満喫しに行くに適した場所なのかもしれない。

 着替え終わった私達は、早速コテージを出てビーチへと向かった。
 ビーチは混雑しているというほどではなく、かと言って閑散としているわけでもない。
 程よい賑やかさというべきだろうか。
 そして思ったよりも私達の同類が多い事に気づいた。
「結構にぎやかだねー」
「そうね、湖だからしょっぱくもないしね」
「何か海に嫌な思い出でもあるんですか?」
 さらりと海水に対しての苦情を混ぜるマスターに、思ったことがそのまま口にでてしまうが、マスターは特に気にした様子もない。
 しょっぱいのは苦手だ、と口にするだけだった。
 それはともかく、水場というのが私は初めてなのだけれども……いささか肌の露出が多くて落ち着かない。
 マキさんはその豊かな体を存分に見せつけんばかりのビキニスタイルである。
 実際に何人かの視線が向いているようだったけれど、特に本人は気にした様子はない。
 ここまで堂々できるのはすごいと思う。
 私とマスターはパレオ付きのビキニにした。
 不本意だが、私はマキさんほど凹凸の無い体型なのでビキニ単体はさすがに控えたかったのだ。
 マスターは、私より背が高いものの、凹凸については……こう言うのは失礼かもしれないが似たり寄ったり。
 だから、マスターが選んだものと似たものなら大丈夫かなと思ったというのもある。
 もう一つの理由もあるけれど。
(マスターとおそろい……です)
 少しだけ嬉しかったりする。
 ビーチの水はとても澄んでいて、かなり深くまで見通すことが出来た。
 代わりに、海水でないため浮力はあまり得られず、あまり深いところへは行かないようにという注意書きが、ネットに張られている。
 本格的に泳ぎたいのなら併設されたプールへとのことだった。
 私達ボーカロイドは人よりも浮力を得る力が弱いらしいから、水場には注意するようにと基礎データに記録されている。
 もしかして、此処は私達でも遊びやすい場所ということなのだろうか?
「さて、適当に楽しんでおいで。慣れないうちはあまり深いところには行かないように」
 そう言ってマスターは、木陰のビーチチェアに腰をおろしてしまった。
 私はマキさんに手を引かれてビーチまでつれていかれ、マスターはそれを見送る感じ。
 一緒に来てはくれないようだった。
「ほらほら、せっかくだから楽しもうよ」
「で、でもマスターが……」
 マスターの方を気にするも、マキさんは私の手を引っ張って強引にビーチまで歩いていく。
「文葉さんね、多分家に居たくなかったんだとおもう」
「えっ?」
「たまにあるんだよね、そういうふうにしか思えない事が」
 思わぬマキさんの言葉に困惑する。
 けれど、確かに言われてみればそうだったのかもしれない。
 出かける直前の電話を完全に無視したのも、それが原因だとすれば説明がつく。
 でも、だとしたらそれは、逃げたい何かがあるということで──へぶっ!
「あ、ごめん……大丈夫?」
 頭へのビーチボールの直撃を受けて思わず混乱するも、そういえばマキさんが、いくよーと言っていたことを思い出す。
 考え事の方に意識が傾いていて、うまく音声入力の処理が出来ていなかったらしい。
「ごめん、もしかして聞こえてなかった?」
「い、いえ。そんなことは……」
 ちらっとマスターの方を見たけれど、マスターはそばに居る青い髪の男の人と談笑中のようだった。
 私は内心小さくため息をつきつつも、ビーチボールをマキさんへと打ち返した。

 一時間ほどビーチで遊んでいただろうか、程よく疲れてきた私達は、一旦マスターのところに戻ろうという意見の一致を見た。
 マキさんと一緒にビーチから上がろうとしたところで、それを邪魔するように突然三人の男達に立ちふさがられて足踏みする。
 たまたまだと思い迂回しようとすると、それを邪魔するように前に立ちふさがるのだ。
 おかしいと思っていると、マキさんが私を後ろに隠すように前に出る。
「何か用ですか?」
 マキさんの声のトーンも下がり気味で、なんだか嫌な感じがする。
 男達が私達を見る目つきがいやらしいというか、普通に向ける視線とも、先ほどマキさんが向けられていた視線とも種類が違うように感じられた。
「なぁなぁ彼女たち、暇ぁ?」
「暇だよなぁ? ビーチから引き上げる所っぽいしさぁ」
 ひどく変なしゃべり方で、やたら近寄ってくる事に嫌悪感を覚える。
「俺ら遊び相手探してんだよね、付き合ってくんね?」
「きゃっ!」
 いきなり腕を引っ張られバランスを崩す。
 マキさんがフォローしてくれたから転びはしなかったものの、腕は掴まれたままだった。
 そのマキさんも、別の男に腕を掴まれ、挙句に腰に手を回されて全力で嫌がっていた。
 いくらなんでもたちが悪すぎる。
 マスターを呼ぶべきだと思って声を上げようとしたが、それよりも前に青髪の男性が割って入ってくれた。
「おい、やめろ。その子たち嫌がってるじゃないか」
「あ? あんだよお前」
「女の前でイイかっこしようとかおもってんの? ウザいんだよそういうの」
「ぐっ!」
 あまりにも唐突に、その男は青髪の男性を殴りつけた。
 不意の暴力に対応できなかったのだろう、直撃して倒れこむ青髪の男性に続けざまに蹴りを
見舞う。
「がっ!」
「ははは、だっせ。イイかっこしようとするからこういう目に会うんだよ、お嬢ちゃんたちもさ、わかったろ? 俺らのほうがいいって」
「ふざけないでっ! 人に平気で暴力を振るうような人のどこがいいんですかっ!」
 私達に最初から記録されている倫理観、人を傷つけることなかれ。
 それを基準として生まれたのであろう感情に従い、男の言葉を否定する。
「あ? 何偉そうな事言ってくれちゃってんのかな?」
 怖い。
 けれど、こんな人を認めたくはない。
 マスターはこんな時、なんていうのだろうか?
「そこまでだ、うちの娘達になんの用かな?」
 気づけば、マスターがすぐそこに居て、青髪の男性を助け起こしていた。
 男共を睨みつけるマスターの目は、今まで見たこともないような鋭さで、睨まれているわけでもない私まで背筋がぞくっとする。
「あん? 娘? おねーさんそんな年じゃないよね? 妹とかそういう系?」
「いいねいいね、おねーさん入れてちょうど三人同士だしさ、お茶しよーよ」
「そうそう、こっちの二人も賛成みたいだしぃ?」
 そう言って腕を掴んでくる男たちを振り払う力もない。
 あるけれど制限されているという方が正しいのだが、それが無性に悔しかった。
「寝言は寝ていうことだ、それとも寝かしつけられたいか?」
「あん? あのさぁ、説教とかされんの俺ら嫌いなわけよ、分かるねーさん?」
「知るか。バカなガキを叱りつけるのは大人の役目だろうが」
「あー、そーかそーか、そーゆーこと言うわけ? んじゃさぁ、バカな女をしつけるのは男の役目だよな!」
 男が振り上げた拳はマスターを殴りつける前に、更に横合いから入ってきた男性によって止められた。
「婦女子に手をあげるのは、男としていかがなものかと思うぞ?」
 濃い紫色の長い髪をポニーテールにした男性は、振り抜かれようとしていた拳を掴んだまま力を込める。
 男の腕は微動だにせず、その場の空気が変わ理つつあることに気づいた。
「邪魔すんじゃねぇよ!」
「拙者、神威がくぽと申す。あまりの事に見かねてはせ参じた次第……あまり周りに迷惑をかけぬことでござる」
「なんだよこいつ……あっ!?」
 他の二人ががくぽという男性に気を取られている隙に腕を振り払い、マキさんを引っ張って男から距離をとる。
 私達を捕まえようと再び近寄ってくる男の前に、更に別の男性が割って入った。
 こちらは眼鏡をかけた優男風で、水着にウィンドブレーカーを羽織っている。
「はい、そこまで。女性に声をかけるときの基本がなっていませんよ、レクチャーしてさし上げましょうか?」
「なんだよテメェは……」
「氷山キヨテル、教師をしています。いいですか、女性に声を掛ける場合はですね」
 物腰穏やかでありながら毅然としている様は、確かに教師然としているような気もする。
 ともかく、私とマキさんはキヨテルという男性にかばわれる形で男と距離を取ることが出来た。
 マスターはというと、まだあの暴力を振るう男の前でまゆ一つ動かさずに立っている。
 怖くないのだろうか?
「私の友人にまで手を出してくれて黙っている訳がないだろう。がくぽとやら、手を離してもらえるか。この男とは私が始末をつけよう」
「そういうわけにはゆかぬでござる、見過ごせぬ性分ゆえ。それに、女性が力を振るう様と言うのはあまり好ましくありませぬ、拙者の顔を立てるとおもって譲っていただけませぬか?」
「む……」
 マスターが仕方ないかと少し後ろに下がると、がくぽという男性は男の腕を非ぬ方向へと捻り始める。
「いででででででえええええ!」
いともたやすく悲鳴を上げる男を見て、他の二人は押し黙ってしまった。

 程なくして、騒ぎを聞きつけたビーチの警備員によって、男たちは連れていかれた。
 事態が一応の結末を迎えたことに内心で胸をなでおろす。
 もしもこの人達が割って入ってくれなかったら、どうなっていたのだろうか。
「大丈夫だったかい?」
「あ、はい……ありがとうございました」
 お礼を言うと、キヨテルさんは穏やかな表情で、よかったと微笑んだ。
 少し向こうではマスターが、殴られた青髪の男性の手当をしている。
 あの人にもお礼を言わないと。
「カイト、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。いや、かっこわるいね……なんとも」
「そんなことはないわよ」
「そうです、そんなことないです!」
 マスターの言葉に同意するように、思わず口が出てしまった。
 カイトと呼ばれた青髪の男性は、突然の私の言葉に驚いたような視線を向ける。
 私も、言ってからはっとするけれど、出た言葉を引っ込めるつもりはなかった。
「えっと、マスターを守ってくださって、ありがとうございました」
 カイトさん、そしてがくぽさんに同じようにお礼をする。
「あ、うん。えっと……きみは?」
「結月ゆかりといいます」
 挨拶とお辞儀をすると、カイトさんは殴られた頬の痛みに少しひきつりながらも、笑顔を向けてくれた。
 がくぽさんは当然のことをしたまでだといった風で、終始涼し気な顔をしていたけれど。
 その後、少し落ち着いてから私はマスターに聞いた。
 怖くはなかったんですか?
 マスターは笑いながら、怖かったわよと答えた。
 怖いと言いながらも気丈に立ち続けたマスターは、一体何を思っていたのだろうか。
 そしてそれを支えた理由が何だったのか、少し気になった。

 *   *   *

 水遊びの時間も過ぎ、日が沈んだ山は月とランタンによる明かりのみで照らされていた。
 その光の及ばない場所は、まるで飲み込まれそうなぐらいに暗くて、胸の奥のよくわからない感情を呼び起こす。
 昼間の出来事の時とは違うようで近いような、そんな感覚。
 マスターはそんな暗闇の中を、私達を先導してゆっくりと歩いていく。
「そういえば、セミの声が聞こえませんね」
 家に居た頃は、夜でもセミが鳴いていた気がするのに。
「セミは本来、夜は鳴かないんです。ヒグラシが日没前後や日の出前に鳴くぐらい。街の方だと今は夜でも明るいから、セミが一日中鳴いてるなんてこともあるみたいですけどね」
 と、キヨテルさんに教えてもらい納得する。
 流石、教師だけあって物知りだ。
 周りには、昼に知り合った方々とその連れ合いが一緒で、結構な大所帯となっていた。
「読月殿、まだ歩くのか?」
「ん、もうちょっとね。道は間違えてないはずだから」
 暗い森のなかを、ランタンを片手に先導するマスターは意外と歩き慣れている様子だ。
 がくぽさんは周囲に気を配ってくれているようで、時折邪魔になる枝をどけてくれたりしている。
 ちなみに一緒に居るのは、教師の氷山キヨテルさんとその教え子の歌愛ユキちゃん。
 カイトさんと、お姉さんのメイコさん。それから神威がくぽさん。
 驚くことに、みんなボーカロイドだということを先ほど知った。
 特に、ユキちゃんとキヨテルさんは私と同じ会社出身の先輩に当たるそうだ。
「しかし、本当に今どきに見れるものなのかい? 日本では随分生息地も生息数も減ってしまっていると聞くけど」
 キヨテルさんが半信半疑に言う。その言葉だけを聞くならマスターのことを疑われているようで、あまり気持ちのいいものではない。
 けれど、ニュアンスはどちらかと言えば期待と不安に混じりつつも、現代を嘆くような感じだった。
「私も一昨年に来たのが最後だから、確証はないのだけどね……余程のことがなければ今も無事だと思うわ」
「あっ!」
 ふわりと浮かんだ小さな光が、ユキちゃんの横をすぅっと通り過ぎた。
 もしかして、マスターが言っていたのは……。
「ゆかりちゃん、どうかした?」
「あ、いえ。今ユキちゃんの側で光ったような」
「よし、抜けた……」
 ひときわ大きな茂みを抜けたマスターは、そのまま茂みを押し広げる形で私達を誘導する。
 その先は、木々と蔓の生い茂ったやや小さめの湖になっていた。
 しんとしずまりかえった湖は、夏だというのにひんやりとした空気に包まれていた。
 特に、何も居るようには見えない。
「ここ、ですか?」
「ええ、そうよ。しばらく待ってみましょうか」
 そう言ってマスターはその場に腰をおろしてしまった。
 私達も同じように腰を下ろす。
 マスターは全員が腰をおろしたのを確認してから、ランタンの明かりを消した。
 先程よりも更に暗くなり、月の明かりだけが湖に降り注ぐ。
 聞こえるのは虫の鳴き声。
 それに時折、ふくろうの声が混じる。
 静かな時間が過ぎていった。

 ぽつ、と明かりが灯る。
 それは水場をふわりと漂いながら、すぅっと消えていった。
 またひとつ、ふたつと明かりが灯り、そして流れては消える。
 思わず息を呑む間にも、その明かりの数はふえてゆく。
 最初は数えられる程度だったのに、今ではもう数えきれないぐらいの光が飛び交いだした。
 蛍だ。
「わぁ……」
「綺麗……」
 自然と声を潜めつつ話すのは、そうするべきと感覚で分かるような繊細なものだからだと思う。
 大きな音を立ててしまえば、たやすく壊れてしまうような儚さ。
 こうしたものに美しさを見出すのは何故だろうか。
「これは……すごいですね。まさか今の時代にこれほどのものが見れるとは」
「古き懐かしき夏の風物詩でござるな、絶景とはまさにこのことか」
 暗闇の中、がくぽさんがそっと扇子をかざすのが見えた。
 しばらくして、一匹の蛍が扇子の先へと舞い降りた。
 静かに明滅する蛍を眺めていると、程なくして再び飛び立っていった。
 光の織りなす幻想的な光景を、そのまま私達はずっと眺めていた。
 思わず漏れるため息と、静かな話し声。
 虫の音と光が生み出す舞台は静かに過ぎてゆく。
 一夏の思い出を残して。

 *   *   *


 二泊三日の外出から帰った家は、その熱気を全開にして私達を迎えてくれた。
 夕方前であり、ちょうど温め終えた後の電子レンジのようで、あまりの暑さにうなだれる。
 まずは冷房を入れなくては……この暑さは生存に適していない。
「うへぇ……さすがにこの暑さは堪えるね」
「お茶だしますね」
 マキさんに溜まった洗濯物などをまかせ、冷房の電源をオンにしたあと冷蔵庫から冷えた麦茶を三人分用意する。
 ベランダの草木にも水をあげないといけないから、そちらも準備。
 全体的にぐったりとしおれているが大丈夫だろうか……。
 マスターは荷物を出して一旦部屋に戻り、すぐに居間へやってきた。
「ちょっと郵便受けまでいってくるわ」
「はい、いってらっしゃい」
 そう言って見送ったマスターは、夜がふけるまで帰ってこなかった。

 マスターが出て行って少しして、呼び鈴が鳴る。
 誰かと思って出てみると私の知らない人だった。
 きちんと着こなされたスーツといい、身なりは悪くないし、嫌な感じはしないが、思い当たる人も居らず首を傾げる。
 相手も私のことを見て首を傾げながら告げる。
「読月文葉先生はご在宅でしょうか?」
「……どちらさまですか?」
 私が問い返すと、相手の男性は何かに思い至ったように、あっ、という顔をする。
「あ、あぁ……そうか、話を聞いてらっしゃらないですか。わたくしこういうものです」
 そう言って渡された名刺には、そこそこ程度の知名度の雑誌の編集者としての肩書が印刷されていた。
「ゆかりちゃん、どうしたの? あ、如月さん」
「や、マキさん。どうもご無沙汰しています。……こちらのお嬢さんは?」
「ゆかりちゃん、先月ぐらいから一緒に暮らしてるの」
 どうやらマキさんとは既に面識があるらしい。
 考えてみれば、私よりも一年長くマスターと暮らしているのだから知っていて当然か。
「ああ、なるほど。懐かしいですね、初めてマキさんとお会いした頃を思い出します」
 どうやら如月さんという方は、マキさんがマスターに迎えられた時のことも知っているらし
かった。
「今日は、先生はご在宅ですか?」
「あ、今郵便受けを見に行ってるので、すぐ帰ってくるかと思います」
「ああ、ゆかりちゃん、それ多分当分もどってこないわ」
「えっ?」
「ああ、やっぱり留守電にメッセージ入れたのは失敗でしたかねぇ……まだ、無理ですか」
 二人の様子から、何かしらの事情があるのではないかということは想像するに難くない。
 けれど、それを聞いていいものか私には判断がつきかねた。
 うかつに踏み込んではいけないことのようにも思えて、さすがに自分からは言い出しづらい。
「もしかして、ゆかりさんは先生の昔のことをご存じないのですか?」
 如月さんの問いかけに、私はそっと頷く。
 もっとマスターのことを知りたいという反面、踏み込んで傷つけたくないとも思うのだ。
 けれど如月さんは、マキさんも知っているから大丈夫だろうといって、私に少しだけ昔のことを教えてくれた。
 それは、彼なりの心配の現れなのだと思う。
 マスターが過去、結婚前夜に婚約者を事故で亡くしている事。
 それ以来ニ年間、それまで連載していた小説の続きを書いておらず、単発コラムのような仕事しか受けていない事。
「私は、続きは書けるようになったら書けばいいと思ってるんです。ただ、先生の元婚約者の方が書いていた作品──遺稿の行方についてご存じないかとお聞きしたくて」
 作家だったという元婚約者は、結婚前に話を完結させるつもりだったという。
 それがどういうわけか、死去する前日に発表をその後にさせてほしいと申し出があったそうだ。
 そして、彼の死と同時にそれは行方不明になった。
 原稿の行方について、聞きたくなっても仕方がない流れだと思う。
「まぁ、しかたありませんね。今日のところは失礼します。また日を改めてお伺いしますので」
 そう言って如月さんは帰っていった。
 マキさんは、特に何も言わない。
「マキさん……」
 声をかけても返事はなく、小さくため息をついて首を振るだけ。
 おそらく、マキさんは何かしら知っているのだと思う。
 私の知らないことを。
 もしかしたら如月さんの知りたいことを。
 あるいはマスターの悩み事を。
 今の私では、おそらく打ち明けてすらもらえないのだろう。
 それが悔しい。
 悩んでいても仕方ないと、それについてはひとまず置いて改めて思考を巡らせると、私の中に違和感が芽吹く。
 私とマキさんの仕事は、マスターの原稿を読み上げることで粗を確認する最終チェック。
 コラムのような原稿を、私は読んだ記憶がない。
 マキさんがそれを担当しているのだとすれば一応納得はできる。
 でも、だとしたら私が今マスターのお手伝いに読み上げている原稿は……一体なに?
 あれは確かに、何かの物語だった。
 過去に書いていた作品の続きは書いていない。
 本当に、そうなのだろうか。
 もしそうなら、一体何を書いているのだろう。
 マスター、私はそれを知りたいと思っていいんですか?


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