コトマの心理学日記、時々趣味

「問題行動」について ①マクロ視点から

2015/10/07 00:11 投稿

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 前回の書き込みでは、どのように「問題行動」が発生し、「問題行動」が消えていくのか、ということ部分で終わりましたので、その続きから書きます。参考図書は希望のコメントがあれば追記します。

 今回は、個別・個人の「問題行動」の紹介の前文として、社会や時代というややマクロな視点から「問題行動」を見てみたいと思います。

<「問題行動」とは?>
 まず「問題行動」はそもそも恣意的なもので、何をもって「問題」とするかは集団や文化などの共同体の中で決定されてゆきます。そのため、始めっから「問題行動」なるものが存在しているわけではなく、誰かが「これは問題行動だ」と言って初めて「問題行動」は現れる、と言えるでしょう。多くの場合、その文化圏で、他人や自分を物理的・精神的に傷つける(不安を煽るなどを含めて)ものが問題行動とされがちです。

 例えば、「クレイジーライクアメリカ」(原タイトル:Crazy Like Us: The Globalization of the American Psyche)という本で、アメリカの大規模製薬会社による諸外国へのアメリカの精神病文化の押し付けを批判したイーサン・ウォッターズというジャーナリストが言うには、アメリカでは統合失調症の幻聴によるパニックは「問題行動」として扱われ、精神病院に入院させられるが、アフリカのザンジバルでは「恩寵」とされ、文化集団の中で丁重に扱われる傾向があったらしいです。

 「問題行動」として扱われるには、扱われるなりの社会・文化的な理由や歴史があると考えた方がよいでしょう。外国籍の方など、日本とは違う文化集団に属する人々「問題行動」を取り扱う場合、これが非常に重要になります。

 なぜ、片方の文化では非問題行動として扱われ、片方の文化では問題行動として扱われるのか、その背景をきっちり明らかにした上で支援を行う必要があります。

<「問題行動」としての「不登校」>
 まず、身近な、時代や文化背景に影響された問題行動として「不登校」があります。

 日本の学校制度は明治時代に始まりましたが、学校制度設立当初には学費負担や農村部の働き手の不足などから、子どもを学校に行かせない、学校を焼き討ちするという学校制度反対運動が起きました。

 この時代には当然「不登校」という「問題行動」は存在しません。なぜなら、「不登校」という問題行動は「学校に行くことが常識、定例となっている社会」にのみ存在できる問題行動であるからです。

 今「不登校」が新聞などで問題視されるのは、今の日本社会が「学校に行かせることが常識、定例となっている社会」であるからであり、それから外れた「異端」の存在だからこそ、問題行動として扱われると言っていいでしょう。

<問題行動ブーム>
 良くも悪くも、カウンセラーや教師といった援助者・教育者は、揺れ動く社会常識の中で「常識人」を自称し、同じく揺れ動く「異端」を定義し、「問題行動」を持つ人々を常識人に変えることを「商売」にしているという側面があります。(もちろんそればかりではありませんが)

 このことから「問題行動」には時代や常識、文化の変化による「定義の変化」「流行り廃り」「ブーム」があるといっても過言ではないと思います。先程のイーサン氏の本では、日本の「欝病」もアメリカの製薬会社が作った「欝病ブーム」があると記述されています。

 「不登校」といった問題行動は、今後の常識の揺れ動きのなかで問題行動として取り沙汰されなくなる、ないしは別の言葉に取って代わられ消失する可能性もあります。(例えば、「不登校」に似た言葉として、過去に「学校恐怖症」「登校拒否」という言葉が使われていましたが、近年その言葉をめっきり聞かなくなりました。恐らく学会誌の論文タイトルや内容をメタ分析すれば、使われなくなっている傾向が見えてくると思います)

 一部のカウンセラーや教師が「不登校対策の専門家」を自称することがありますが、私含め若手の援助者がこれを真似するのは、かなり危険ではないかと考えています。

 「問題行動」の対処法を学んでいる内に常識が揺れ動いてしまい、自分が「問題行動対策のプロ」になった頃にはとっくにブームが去って時代遅れの援助者だけが残った、という取り返しのつかないキャリアの失敗になる危険性が高いのではないか、と思います。

<専門的な援助者として>
 もしカウンセラーなどの援助者を志すのならば、ブームの影響を強く受ける「問題行動」への対処法ではなく、一生使っていける援助の技法や援助哲学を勉強する必要があるのではないかと考えています。教育分野では「不易と流行」という言葉が有名ですが、専門的な「対人援助」を行っていく上で、この言葉は非常に重要だと考えられます。

 最近、公認心理師法案の成立を受けて、関係者間で心理師養成課程が話題になることがありますが、「問題行動ブームが去った瞬間に時代遅れになる援助者」ではなく、「科学的な正しさも担保しながら、自分が選んだ技法を一生使い通せる援助者」の養成課程が作られることを心より願っております。(話が脇道にそれました、すみません)

<結び>
 長くなりましたが、要約すると

どんな行動を『問題行動』として扱うか、は時代や文化の影響を強く受ける

始めから『問題行動』があるわけではなく、どこかの場面や時代で『これは問題行動である』と誰かが宣言した時初めて『問題行動』が生まれる

となります。

 支援とは直接関係のない、文化論や人類学のような印象を受けられる方もいらっしゃると思いますが、自分としては支援上ではかなり重要であると考えています。

 通常、日本の教育者やカウンセラーは生徒やクライエントが日本社会に「適応」していけるよう支援していきます(もちろん例外はありますが)。

 しかし、社会に「適応」・「同化」させる、ということだけを念頭に置いていくと、国籍や体つき、皮膚の色、sex、など、どうしても性質的に変えようのないものが「適応」のカベになることがあります。

 この場合、その社会の多数派が当事者の性質を「問題」として「同化」を強いるか、受け入れるかということが問題になってきます。

支援者が支援によって当事者を変えることができない場合、社会の方を変え、「差異」を受け入れるよう運動する必要が出てきます。例えばキング牧師の黒人公民権運動などがそうです。

 治療者・支援者目線だと、ただ漠然と「当時者が社会に適応できればいいんじゃないの?」と考えてしまいがちですが、下手をすると、同化を強いる「多数派」の中に組み込まれてしまい、「当事者の幸せやアイデンティティを壊す支援者」になってしまう可能性があります。このことから、「支援論」は「差別論」と隣り合わせであると言えるでしょう。

(ちなみに、公民権運動以前のアメリカで、黒人の皮膚を白くする薬を作って黒人を白人に同化させようという医療研究が真面目に行われたこともあります。)

 「問題行動」について支援者が取り扱う場合、支援全体を俯瞰して「当事者の幸せ(QOL等)やアイデンティティを無視して、社会の(同化)要求ばかりに応えていないか?当事者の幸せを忘れていないか?」ということを、常に自分に問い直す必要があるのではないかと思います。もちろん、「適応」と「受け入れ」のバランスを鑑みた上でですが。

 こうしたことから、「問題行動」について取り扱う場合は、マクロな視点で支援全体を俯瞰することのが不可欠になるのではないかと思います。

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