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個人的なキュルルの考察について【第二部】

2019/03/18 22:26 投稿

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※この記事は、「個人的なキュルルの考察について【第一部】」の続きとなっております。
未読の方は先にそちらをご覧になることをお勧めします。






さて、考察の続きを行っていきます。今回はだいぶ自分の妄想が含まれています。その点を念頭に置いて、御覧になってください。



まず、キュルルの目的ですが、結論から言うと


「おうち」など探していない


ということです。


そもそもですが、「スケッチブックに描かれた景色を探す」という冒険の仕方は、
根本的に無理があります。


はじめの一回であれば、「手がかりがこれしかないからこれに頼るしかない」ということで済ませられますが、フレンズに次々と会っていく関係上、スケッチブックを頼りにするのはナンセンスとしか言いようがありません。

1期のかばんちゃんは
  • 「自分は何のフレンズかわからない」
  • 「だから、それを調べよう」
  • 「調べる場所はとしょかんだ」
  • 「じゃあとしょかんへ行こう」
となるわけです。
この時手掛かりにしたのは「ラッキーさんのナビゲート」と「フレンズの関わり合い」です(あえて「ジャパリバス」は抜きました)。


同じように考えれば、キュルルは
  • 「おうちの場所が分からない」
  • 「だったら、おうちがある場所を探そう」
  • 「イメージなら、出来ている」
  • 「こんな感じの場所があったか、探しに行こう」
と考えられるわけです。
さらに、キュルルには大きなアドバンテージが有ります。それは
「自分がヒトだと(少なくとも自分は)認識している」ということです。
そうなると、最終的な目的地に
  • 「ヒトがたくさんいる場所又はヒトがいた場所を探す」
と目的地を決めることができるのです。
つまり、「ヒトがいた場所を辿る」という完ぺきな道筋が出来るので、フレンズの証言をあてにすればいいわけなのです。しかも、「フレンズたちは、すでに”ヒト”の存在を認識し、かつ実際に会っている」というのです(大きなアドバンテージ、としたのはこのこと)。


にもかかわらず、スケッチブックをあてにする、あまつさえ「かばんさん」にそのおうちの場所を尋ねない、というのはあまりにも回りくどすぎます(かばんさんもなぜ教えなかったのか、については後ほど解説します)。



では、キュルルの目的は何か、それは










自身がヒトである優越感に浸り、”獣”達の上に立つという事実を存分に振りまくため



これを如実に表しているのが「ぼくはヒトだと思うから、けものじゃないよ」という言葉です。

このセリフは1話冒頭から出てくるため、これが彼の根底の認識であることは疑いようもありません。



彼は行く先々で自分の力を求められヒトの力を見せつけ讃えられる。そうして自身が「主人公」の物語を演じるのです。
いわばサーバル・カラカルは「助さん格さん」のポジションでしょう。
だからサーバルには「すっごーい」だけ言わせてあとはセルリアンとかの相手を指せればいいし、カラカルにはあえて協調性を乱してもらい、イベントをおこすことで「旅しています感」を醸し出す要因にすればいい。


そして、作中の描写でイエイヌちゃんと親し気に遊んでいながら、ラストでは完全無視を決め込んでサーバルをヨイショ、「おうちにおかえり(=ハウス)」と言いました。
これは、キュルルの「イエイヌを”ペット”として認識しているが、所詮その程度の認識にとどまっている」というスタンスに基づいていると考えれば、矛盾はないはずです。キュルルにとって、「どっかの家の飼い犬になつかれたから、とりあえず遊んでやった」という感覚に過ぎないのです。




しかし、いくら改変されているとはいえ、何かのひずみで「気付かれる」可能性がある。だから初めは謙虚なふりをしていた。レッサーパンダが泣けばそれを慰めに行くし、イルカたちの芸に対して拍手もしてやった。



ですが、その「演技」を終わらせるイベントが起こります。それが「かばんさん」の登場です。


彼女は1期では様々な叡智を発揮していたにもかかわらず、深海のセルリアンの存在を見抜けず、あまつさえ自身の株上げにも貢献してくれた。さらに「世界が強力に改変されていることを確認」できました。これは予想外の収穫でしょう。
ですから、キュルルは6話を境目として傲慢且つ冷酷、非人道的な振る舞いが目立ち始めた、と考えられます。そしてそんな態度をとっていてもサーバルも、カラカルも、みーんな、キュルルに異を唱えるのことなどないのです。
だからゴマちゃんに「ゴマちゃん抜きの絵」を渡せたし、イエイヌちゃんに「おうちにおかえり」と言い放つことができたのです(形だけおうちを捜しているキュルルが、大切な主人を待つおうちに帰れ、と言い放つのはなかなかの皮肉だ)。





しかし、一方で希望が見えないわけでもありません。確かにキュルルから「見たら」ひずみが起きていないことは確認できたでしょう。しかし、「見えていない」所はどうでしょうか。



そう、










かばんさんが「演技していた」としたら?




ここからはほぼ憶測で話します。

第一部で「制作陣が大真面目に作り上げた」「制作陣の私情を除外した」と仮定したうえで話しておりますが、このように作っていれば、キュルルが関与した時点で「セルリウムが暴走した」という事態が発生したのを、かばんさんが意に介さないはずがありません。「セルリアンは海水に弱い」という固定観念を捨てられないはずがありません。


かばんという人物は、そういった「異変」や「特徴」を見抜く「洞察力」がアイデンティティですから。


恐らくキュルルがラッキーさんを受け取った際は「やったぁ!これで僕も”彼女のように”冒険できるゾ!」と喜んだでしょう。
しかし一方でかばんさんは「ラッキーさん、彼のことを監視して、必要であれば助けてやってください。必ずどこかおかしい所をさらけ出しますから」と考えていたことも否定できません。

でなければ、あの3人で旅した記憶があるにもかかわらず、大切な友人(?)のラッキーさんを手放す理由がありません。


博士たちのIQが下がっているのも、かばんさんがキュルルの術中にはまっているのを見越してあえて教えず、引き出しの中にラッキービーストの本体を大量に持っていたのも、「”有事”の際に、このラッキーさんたちを用いた大規模作戦の決行」を計画していた、と考えればつじつまが合います(というより、IQの低い私の脳ではこれ以外に考えられない)。

そして、最終回は本性を現したキュルルを止めるべく事前に布陣を展開させていたかばんさんが大活躍・・・・・するのがぶっちゃけ良いと思います。





そして最後に、キュルルが輝きを奪った対象は何をベースとしているのかです。




NEXONアプリ版の女王の誕生経緯をもとに考えると、やはりキュルルはヒトから輝きを奪ったと考えるのが一番自然でしょう。そして恐らく、次のような人格のヒトをもとにセルリアン化したと考えられます。

  1. 良くも悪くも我儘、しかし興味のないことにはとことん無関心
  2. ヒト>けものという図式が出来上がっており、ペットをモノとして見ている節がある
  3. 劇やショーといった、自分が見て楽しむものを嗜好としていた

1はカラカルがスケブを届けに来たのに「何やってんの?!」と言ったことやイエイヌちゃんをシカトしたこと、2は「ぼくはヒトだからけものじゃないよ」という台詞やイエイヌへの態度、3は劇中に出てきたほとんどの遊戯で自身は参加していなかったこと、蘇りし古の記憶(笑)では実際にショーを見に行ったことがあるということです。

もしかしたら、キュルルの素は相当な坊ちゃん又はお嬢ちゃんだったのかもしれませんね。




長くなりましたが、このあたりで。



アディオス。



























え?


結局キュルルは何の輝きで生まれたのかって?


イエイヌちゃんはなんでキュルルをヒトだと思ったのかって?


そもそも、キュルルはなんであんなところで目覚めたのかって?


さあ?






























セルリアンに命ごと飲み込まれて「体内に入り込まれて」、それを研究者達が封印したんじゃないですかね?




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