ヴァリューZラビリンスのロマサガ     (春雨の螺旋ver.)(∩。・o・。)っ.゚☆。'♥

世にも奇妙なトワイライトゾーン的なXファイル映画見た。このボタンの選択ってわかるよな。

2014/02/19 00:01 投稿

コメント:1

  • タグ:
  • サルトル
  • 利他主義
  • お前ならどうする
  • 亜墨利加
  • 心裡テスト
  • movie

運命のボタン(映画2009)
76年の冬、ヴァージニア州の郊外で暮らす一家の妻(キャメロン・ディアス)は奇妙な訪問者に応対する。初対面の彼女に対し、彼は大きなボタンがついた箱を渡す。それを押せば、一家は100万ドルを受け取れる。ただし代わりに見知らぬ誰かが死ぬ。期限は24時間。その間に押さない場合は装置を回収する。そう言って去った男が残したボタン装置は、仲むつまじい夫婦と息子たち一家の運命をどう変えるのだろうか。

押せば1億円。70年代の設定だから今ではその数倍の価値といったところか。ただし憎らしいことに、それは誰かを殺すことになる。さてアナタならどうするか……。

ミステリードラマ、新トワイライトゾーンで映像化されたこともあるリチャード・マシスンの短編小説を大きくアレンジしたサスペンス。結末は原作、ドラマ版とも違う。端的に言って、この映画版が一番よく出来ている。

コメディエンヌの印象強い演技派キャメロン・ディアスは南部なまりを会得、完全シリアス演技でこのガチンコミステリに挑んだが、さすがに上手い。脚に障害を持ち、引きずっているが、これも重要な伏線だ。前半からこうした布石がいくつもうってあり、仰天のラストでは「ああそうか、なるほど」となる仕組み。

この映画が抜群に面白いことには、おそらく誰も異論はなかろうが、私が高く評価するのはそのメッセージの普遍性の高さ。このエンディングを(非常にミニマムな)原作と比較すると、この短編をふくらませて映画化するならこうすべきだよねと合点がいく。

いろいろな解釈が乱れ飛ぶと思うが、私がうまいなと感じたのはこの作品が人間の身勝手な本質をこの上なくシニカルに描いている点。

とくに終盤、大きく考えを改めたかにみえるヒロインだが、よくよく考えてみるとまったく序盤と同じメンタリティで、じつは何の成長もしていない。彼女の選択の源泉となっているのは、最初も最後も結局のところエゴによるものだ。人間の本質とはこんなモンなんだよとニヒルに笑う作り手の顔がスクリーンの裏に見えるようだ。

……といっても未見ならぴんとこないと思うので、見た後またこの段落を読んでいただければと思う。

途中、荒唐無稽なオカルト方面に脱線するなど、一部の人々に拒否反応を起こさせる展開もあるが、それはあくまで枝葉の話。この物語の本質を見失わないよう、気にせず没頭することをすすめたい。

大人のカップルでも、親子でも、友人同士でも大丈夫。盛り上がること間違いなしな議論、会話のきっかけをくれる優れた映画である。1億円を持ってる人も、暴落で失った人も、GW明けの落ち着いた映画館でぜひ鑑賞してほしい。きっと何がしかの知的な刺激、興奮を与えてくれるはずだ。


個人ブログなんで、提灯記事的に持ち上げるとか、むやみなネガキャンも展開する必要なく、結構自由に落書きできる楽しさはあるから、見た方がいいとか、全米が泣いてもオレは泣かないでいいと思うんだけど、せっかく見たらオレはこう思ったって世界の片隅で叫びたいってのは静かの炎が灯ったりするのはワルい事ではないと思う。


ジャン=ポール・サルトル

ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトルフランス語: Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905年6月21日 - 1980年4月15日)は、フランス哲学者小説家劇作家。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。強度の斜視があり、1973年に右失明


サルトルの思想は実存主義によるもので、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とするものである。特にサルトルの実存主義は無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」において、実存は本質に先立つと主張し、「人間は自由という刑に処せられている」と言い切っている。

もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在する(有神論の立場)ならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえている筈である。ならば、あらゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているということになる。この場合は、創造主である神が存在することが前提になっているので、「本質が存在に先だつ」ことになる。

しかし、サルトルはそのような一切を創造する神がいないのだ(無神論の立場)としたらどうなるのか、と問う。創造の神が存在しないというならば、あらゆるものはその本質を(神に)決定されることがないまま、現実に存在してしまうことになる。この場合は、「実存が本質に先だつ」ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張するのである。

そこでまず、サルトルは即自対自という対概念を導入する。これは物事のあり方と人間のあり方に分けて対比させたもので、即自である物事とは、「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの<l'être est ce qu'il est et n'est pas ce qu'il n'est pas>」であるとした。これは物事が、常にそれ自身に対して自己同一的なあり方をしていることを意味し、このようなあり方を即自存在<être-en-soi>という。

それに対して、対自<pour-soi>である人間とは、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」とした。人間は、何をやっているときでも常に自分を意識することができるので、物事のように自己同一的なあり方をしていない。AはAであるといわれるのは即自存在においてのみであって、対自においてはAはAであったとしか言われえない。対自は仮に存在といわれたとしてもそれ自身は無<néant>である。これは人間があらかじめ本質を持っていないということを意味する。このことについてサルトルは「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられているとした。

人間は自分の本質を自ら創りあげることができるということは、例えば、自分がどのようにありたいのか、またどのようにあるべきかを思い描き、目標や未来像を描いて実現に向けて行動する「自由」を持っていることになる。ここでのサルトルのいう自由とは、自らが思い至って行った行動のすべてにおいて、人類全体をも巻き込むものであり、自分自身に全責任が跳ね返ってくることを覚悟しなければならないものである。このようなあり方における実存が自由であり、対自として「人間は自由という刑に処せられている」というのである(人間は自由であるように呪われている。<condamné à être libre>)。

とはいえ、人間は自分で選択したわけでもないのに、気づいたときにはすでに、常に状況に拘束されている。他人から何ものかとして見られることは、わたしを一つの存在として凝固させ、他者のまなざしは、わたしを対自から即自存在に変じさせる。地獄とは他人である<l'enfer, c'est les autres>。そのうえ、死においては、すでに賭けはなされたのであって、もはや切り札は残されていない。わたしを対自から永久に即自存在へと変じさせる死は、私の実存の永遠の他有化であり、回復不能の疎外であるといわれる。

しかしながら、これを常に状況によって自分が外から拘束されているとみなすべきではない。自由な対自としてのかぎりでの人間は、現にあるところの確実なものを抵当<gage>に入れて、いまだあらぬところの不確実なものに自己を賭ける<gager>ことができる。つまり、自己が主体的に状況内の存在に関わり、内側から引き受けなおすことができる。このようにして現にある状況から自己を開放し、あらたな状況のうちに自己を拘束することはアンガージュマン<engagement>といわれる。

サルトルは自らのアンガージュマン<engagement>(社会参加)の実践を通してしだいに社会的歴史的状況に対する認識を深め、マルクス主義を評価するようになっていく。『存在と無』に続く哲学的主著『弁証法的理性批判』は、実存主義(あるいは現象学的存在論)をマルクス主義の内部に包摂することによって、史的唯物論の再構成を目指したものだった。

なぜ、そのような作業が必要だとサルトルは考えたのか。『弁証法的理性批判』序説の『方法の問題』によれば、ソ連をはじめとする共産党の指導者たちが、マルクス主義理論を教条化することによって、それにあわない現実を切り捨てていったからである。「彼らは教条を経験の力の及ばぬところに置いた。理論と実践の分離はその結果として、実践を無原則な経験主義に変え、理論を純粋で凝結した“知”に変えてしまうことになった」(『方法の問題』人文書院 30頁)

『批判』においてサルトルが行おうとしたことは、実践弁証法によって史的唯物論を再構成し、「発見学」<euristique>としての本来のマルクス主義を基礎づけなおすことだったのである。

『弁証法的理性批判』は (1) 「構成する弁証法(個人的実践)」、 (2) 「反弁証法(実践的惰性態)」、 (3) 「構成された弁証法(集団的実践)」の3つの段階を進んでいく。その内容を大まかに見ると次のようになる。

人間の主体的実践が疎外され客体化・固定化することによって実践的惰性態<pratico-inerte>「=生産物、生産様式、諸制度、政治機構など、人間によってつくられた“存在”」が形成される。それは、人間によって形成されたものであるが、「すでに形成されたもの」として諸個人を規定・支配する社会的・歴史的現実である。それらの分野に埋没し、受動的に支配される人間は、真の活動性を持たない集合態<collectif>にすぎないが、共通の目標を目指す集団<groupe>を形成し「共同の実践」をつくりだすことによって、実践的惰性態をのりこえ、真の活動性をとりもどす。

実践的惰性態(=生産物、生産様式、政治制度等)は、いわば歴史の「受動的原動力」であり、社会・歴史の客観的構造や運動法則というのはこの分野において成立する。それに対して集団的実践(特に階級闘争)は歴史をつくる人間の主体的活動であり、歴史の「能動的原動力」というべきものである。

このような『弁証法的理性批判』における理論形成の意図をサルトルは『方法の問題』の中で繰り返し述べている。

例えば『方法の問題』の第2章、「媒体と補助諸科学の問題」でサルトルは「生産関係及び社会的政治的構造の水準では、個々の人間はその人間関係によって条件づけられている(76頁)」として、生産関係(経済的土台)と個人との間に家族、居住集団、生産集団など現実に数多くの「媒体」が存在すること、「発見学」としてのマルクス主義はそれをも含めて解明していくことが必要であると主張した。

そして、個人の意識の縦の方向に関わるものとして精神分析学の成果を、また、社会的な横の総合に関わるものとしてアメリカ社会学の成果を、マルクス主義の中に「方法」として取り入れることを主張したのである。

以上のように、実践的惰性態<pratico-inerte>、集合態<collectif>、集団<groupe>等の概念を駆使して史的唯物論の再構成を目指した『弁証法的理性批判』の意図は、マルクス主義の中に精神分析学やアメリカ社会学の成果を包摂し、20世紀の知の集大成を行うことで「構造的、歴史的人間学」を基礎づけることであった。



換装
この映画でミスリーディングだろうななのは、SFだったり、オカルト的な部分に目線をもっていかれたまま、そっちに注目しすぎて、あの宇宙人はとか例えば言い出したら、めんどくさいかなあって、ミスト的なあれだな。

そこは、まあ置いておこうやって。今重要なのはそっちじゃないだろうって。ドキュメンタリーでないんだし別の世界観で味わいつつも、ああこれオレもあるわあくらいで受容しといた方がよりリアルかなあ。

あと、前半の伏線が思い出すと、あそっかあだからねが楽しい。結局余裕あるときは、僕だって押さないかもしれない、常識的な対応能力が働いているかもしれない、じゃあもしも、余裕無いときは。。。って、

人間っていつも一貫した統一的な判断って下せないもんだしね、喜怒哀楽好き嫌いなんて瞬間瞬間で違うから、じゃあこれ金額がその100倍だったらとか逆に1万円程度だったらとか、設定変えると、つまるところ誰にもでも起こりうる普遍的な問題なんだこれ。100万やるからこの仕事引き受けてくれるかとか、そこらじゅうにあるもんなあ。ボタン押したり押さなかったり、人生が選択の連続。

弱い者が常に騙され続けるじゃ無いけど、判断が鈍ってる時に限って悪事はやってくる、詐欺はたいてい2回引っ掛る、泥棒に入られた家は泥棒に人気がある。そして魔が差す。溺れた者は藁を攫む。しかし、貴方達は濡れ手で粟で攫まれてる方なんだよ。世界の法律でも基本的に盗まれた物ってのはほとんど完全な救済手段がない。注意したい。

それと、子供が静寂と闇の世界で生きる事になるってのはまた深いね、座頭一で敵をメクラにするシーンじゃないけど、あそこで初めてヒロインがホントに人の事を置き換えて考えられるのかなあって、前のシーンで自分もケガを追ってるから共感できるっ妙に懇願するのは、結局偽善だろみたいな、あのエゴシーンも残酷で泣ける。

映画も本も一緒なんだろうけど一方的にオレスゲエだろ感の映画も見たいときはあるんだけど、飽きちゃうからなあ、一人で見て思索するには丁度よかったかな。参加型というか、一見全然別の世界の話しのようだけど、実はって。


原作とは少し違うみたいで、原作のオチはよくあるアメリカンジョーク↓みたいなので、知らない人が死ぬって言ったのに、なんで夫が死ぬのよって、だってあなたはホントに夫の事を知っているのかなって、、、、

すごい哲学的な作風なんだよね。たしかに、あのウィルスミスのアイアムレジェンドっぽい哲学ホラーもとのことなく似ている、利他主義的な思想がバックにはものすごいある原作者リチャード・マシスンなんだと思った。

人に優しくというか、相手の気持ちにたって考えるってのは、この利己的な人間達にとっては誰しも難しい。だからこそ、意識して一人一人が一生訓練し続けないとダメだなあ、とくにこれ偉そうに書いているオレ自身が。まだまだ道はほど遠いけど。

この主人公達は明らかにそれを欠いていた、確かに恵まれない部分だったり、不遇な瞬間ってあるけど、よくよく考えてみると別にそこまでワルい状況ではないんだよあ、だってNASAのパイロット候補の話しだから、それは映画では意図的にこの時代にしては裕福な家庭にいってるってのを言外に含ませた演出だね、心理テストってのもね。

これもなるほどと思った。他にも猶予期限が1日ってこととか、1ヶ月とか1年とかだと自ずと答えは変わってくるんだろうけど。そう考えると、振り込め詐欺の常套手段だな、これ。

そこで、サルトルかあ、なるほどなあと。サルトルの1割くらいも理解できてるかわからないけど、これでプラス1%くらいの理解の足しにはなるかなという感じの、シンプルなんだけど濃いエスプレッソみたいな感想。とまあ、そんな感じでああだこうだとできるので、つまりいい映画だなって。★760個



『呪われた家族』という小咄

あるところに、子どもが生まれまして。
ところが、いつまで経っても喋らんのやそうでございます。
心配しておりましたところ、
3歳の誕生日に、突然『お祖父ちゃん』と言うたんやそうです。
家族中、大喜びしておりましたところ、
翌朝、お祖父ちゃんがポックリと亡くならはったんやそうでございます。

それからまたその子どもは喋らん。
4歳の誕生日の日に、今度は『お母さん』と言うたんやそうです。
そうしましたら翌日、お母さんが不意な事故で亡くならはった。

5歳の誕生日に、今度は『お父さん』言うた。
親父、もうそらビックリしまして『俺、明日死ぬんか』言うて怯えておりましたところ…
翌日、隣のおっさんが死んでもた…。

真逆の映画だけど、どうだろう、いい映画ってのは善な意味でいいんだろうけど、
オトナが考えたり社会の矛盾を牙で抉って血だらけににして、酸いも甘いも嘗め尽くした海千山千の魑魅魍魎が考えるには、味が少し優し過ぎて、スパイスとか苦み足したくなっちゃうかなあ。そういう意味では少し緩めの”ワルい映画”。考え方は素晴らしいし、 (*´∀`*)ステキ♪だけど、映画としては。。個人的好みの問題。それ言ったらwww.



ミストといえばオレの中ではコレ↓



これも、前記事だけどペイフォワードで僕の説明よりは伝わり易そうな話し












コメント

紅茶酒@吸血鬼ラヴ
No.1 (2014/02/19 10:00)
やっぱりミストって言ったらそれですよね
あのラストのシーンで賛否両論分かれるけどあの選択を誤ってしまい絶望に暮れるラストだからこそいいのですよ
ラストのシーンを見てみるとあのミュータント達の寄生シーンやら捕食シーンのグロさが主人公の行動に大きく影響を与えた複線として見えてくるのがあの映画のいい所だと思います
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事