あなたの考え、書いてみませんか。――交響パブリック

隔週メールマガジン【交響パブリック】第12号

2014/05/29 20:00 投稿

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こんばんは、今宵も新月がやってきました。交響パブリックの時間です。
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【目次】
1.お知らせ
2.小奇麗な桐箱(桜井青洲)
3.ノーマーク 第10話 (Kaerucar)
4.僕の怒り新党(datto_man)
5.カワイイ工業概論(伏見景雲)
6.原子合成と錬金術師(カリヲ)
7.ヤクザはやっぱりチャーシューメンらしい。(非口ユキオ)
8.奥付
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1.お知らせ

アウトプット / 【交響パブリック】テーマソング 作詞・作曲:Kaerucar


・【交響パブリック】表紙に掲載する写真や絵・イラストも募集しています。
・A4縦に掲載するので向きは横、長辺が580pixel以上、ファイル形式は問いません。タイトルを添えて最下に記したメールから送ってください。お待ちしております。

引き続き参加していただける方を募集しております。
(次回は6月13日の新月です。投稿には投稿フォームが便利です。)

以上

2.小奇麗な桐箱 / 桜井青洲(第12回)

後悔のない人生はない。

先日、私用で地元に帰ることあった。翌日も休日であったのでその日は実家の温かいご飯とお風呂を噛みしめるように満喫した。やっぱり美味しい。よく、お米は実家で食べ慣れたお米がイチバンと言われるものだがやっぱり美味い。「美味しい」より「美味い」がどことなく我が家っぽさがあるかもしれない。帰省の度に美味い米が食べることがあと何度出来るのかだろうか、もう10年いや5年もしかしたら1年もないかも知れない。そんなことを考えて食べてしまうとお米一粒すら惜しくて。ここでお米を残すことはなにか大切なものまで残し無くなっていくように思えてしまう。

毎度のことながらの晩酌。食器棚から手頃なグラスを探していると隅の方から小綺麗な桐箱と目があった。実家の生活水準と小綺麗な桐箱なんとも言えないミスマッチ。鋲ジャンでラブソング。サンタクロースのサーフィン。モンゴル力士のサッカー。思わず母に聞いた。


「アンタの父さんが昔買ったやつだよ。そんなところにあったのかい。」


小綺麗な桐箱も存在すら忘れられてしまうところは我が家らしい。しかし問題はそこではない。僕の父親は僕が社会人なったばかりの時に母と離婚し家を出て行った。理由は様々であるが、今の御時世当たり前と言えば当たり前のご時世。「隣りの親は居ない」なんてよく言ったもんだ。僕自身、父のことは感謝はするが尊敬はしないような存在であったし離婚することは母から前々から聞いていたので、どこか他人ごとような近くもなく遠くもなく、心底が不安になるようなものではなかった。

そんな父が小綺麗な桐箱、何を買ったのだろうか。ワクワクドキドキな好奇心と背徳感。今となっては父親が残したものはなく、まるで父親の部屋を覗き見するような。瞳は完全に小学生に戻り箱を開けた。中にはビールグラスが2つ。


「そうそう、アンタが生まれた時に『二十歳になったら一緒に飲むからそれまで見つからないように隠しておけ!』って言って高いグラス買ったんだよ。アンタが生まれてそうとう嬉しかったんでしょ。」



「父さんと母さんは離婚することになった。お前たちも母さんから理由は聞いていると思うけど、話し合いの結果だ。そうであってもオレの子供だからな。たまには電話とかメールくれよな。」
本州へ研修に行っているなか帰省中だった僕はどこか空返事、弟に返事はなかった。弟からすれば当時高校入学を控えたばかりできっと心の準備も出来ずどこか複雑な心境だったかもしれない。


「そうだ!お前も20歳だろ?最後に一杯やろうや!いいもんあるんだ!」

この人は昼間からどうして酒を飲もうとするのか、ましてやこんな状況で。僕はまだ19歳だし子供の年齢もわかっていないのか。母さんだってさっきからメソメソしているのに最後の最後までアンタはどうして…。急に嫌な気持ちになった。「まだ昼間だし、これから予定もあるからあとまだ未成年だからやめとくよ。」冷たく押し返した。「あはは、そうだよな。」まるで枯渇した地面のような反発力ない父親らしくない返事だった。そして父は僕らの前から居なくなった。


どうしてあの時、お酒を断ったんだろうか
どうしてあの時、父親なりの優しい表情を一生懸命作っていたのがわからなかったのだろうか
どうしてあの時、母が「いいもんあるんだ!」の一言で強く涙していたのかがわからなかったのだろうか
どうしてあの時、父親の最後のお願いを聞くことが出来なかったんだろうか
グルグルグルグル回り続ける。何度も何度も。

小綺麗な桐箱の一件以来、夢に何度も父親がやってくる。パズルが揃っていくようにあの日の1日が鮮明に。父と行った釣り、父としたキャッチボール、父と作った夏休みの自由研究。どんどんピースが揃っていく。全く関係のないビールグラスを見ると、人が父親の話をしていると、何だかわからない気持ちになる。何が何だか分からない。

後悔のない人生はない。
幸いにして父親はまだ健在。どこにいるかのはわからないけども、元気にしているのかもわからないけども。
贅沢な話になっちゃうがもし僕にチャンスをくれるのなら僕のほうから言ってあげたい。

「親父、一杯やろうや!いいもんあるんだ!」
















という話を仕事中に思いつきました。実体験を元に創作。

小綺麗な桐箱はフィクション、離婚はノンフィクション、米が美味いもノンフィクション。


桜井青洲


3.ノーマーク 第10話 / Kaerucar (第10回)

※登場人物の紹介
※サキ(主人公):チビな小3男子、魔女の弟子。
※シノ(ヒロイン):小4女子、福岡県出身。
※カワセミ:魔女。魔術師の家系の長(おさ)。

魔術師の言葉は絶対で、言い直したり、取り消したり出来ないからだ。魔術師が嘘をつかないのも、嘘を言う必然性がないからだ。
対象がなんであれ、エネルギー体(であるところの幽霊)は魔術師の言葉(意思)で消える。生きている人間でさえも自由に操作するコトが出来る。

徳の高い坊さんが除霊を失敗したのは、認識(意識の同調)の後の命令が失敗したのだ。
幽霊に命令をする訓練をちゃんとやってないからだ。私はこれを寝ている時に見る夢の中で声を出す訓練で身につけた。夢の中で「消えろ」と叫ぶだけの簡単な練習だ。夢の中で思考するだけではなく、本当に声を出すのだ。

命令にはもう一つ条件がある。あっちの世界へ意識を入らせている状態でいることだ。平たく言うと神主さんがのりとを読み上げながら、坊さんがお経を読みながらトランス状態に入ることだ。

魔術師は歩きながらでも、食事をしながらでも、かいわしながらでも、ウンコしながらでもこの状態になれる。私の場合、瓶の蓋を開けながらトランス状態に入り、そのまま普通に生活が可能である。私の場合、言語が使えなくなる欠点はあるが、熟練者は普通と変わらず行動できる者がいる。魔女カワセミがそうだ。

なんにせよ坊さんがした失敗は
・トランス状態に入れなかった(徳が高いのだからあり得ないのだが・・・)
・言葉が出なかった(訓練が足りなかった)
のどちらかである。

カワセミは百発百中、除霊に成功するのはこれが理由なのだが・・・。こんな事は普通の生活ではなんの役にも立たないので、良い子のみんなは真似しちゃいけないよ♥︎


宗教やってる皆さんも、普通に除霊やお祓いできたはずなのだが時代と共に出来なくなってきている。「自分等がタダでやっているから、彼らは過当競争に負け弱体化したのだ」と例のごとくしれっと魔女が笑ったとかは、宗教の皆様の手前黙っておこう。

さて除霊を開始する。
対象を認識したカワセミが【”私の目を使って”同じイメージで認識しているか?】を確認する。これは弟子の修行で行っていることだ。

稀に違うイメージで見える場合があるのだが、これは別の世界から来た生き物である。よそから来た生命体のイメージが異なる場合は、認知する側(私とカワセミ)が異なる基準(記憶)でイメージを構築するからだ。

今回の幽霊は女の子。死んだ時の年齢は6歳。シノを小さくしたような黒いワンピースを着ているが、夏にしては暑苦しい服装だ。

カワセミがイメージの一致を確かめると合図する。
私がこっちへ来いと幽霊を引き寄せる。
幽霊が瞬時に目の前に来た。
死んで直ぐの幽霊は、歩いたり走ったりして来るが、これはかなり以前から死んでいるらしい。

次にこの幽霊の素性を尋ねるのだが・・・。子供にはエグい話が出てきたりするのでカワセミが私にわからないように素性を尋ねる。その幽霊がここに留まった理由である。
その後であれこれ聞いて見ろと指示をして来る。これは教育と訓練だった。

純粋なエネルギー体になった人間(幽霊)には生前の記憶や感情は無い、その代わりに知りたいことを知り得る状況になっている。あらゆる人間の記憶や情報を引き出せる状況になっているのだ。一般にアカシックレコードと呼ばれているものに直接繋がってる状態なのだが・・・。死んだ直後、記憶や感情がこのアカシックレコードに吸い上げられしまって。銀行のATMの様な(今風に言うならサーバー・クライアントのクライアント端末)状態のままこっちの世界に取り残されたのが幽霊である。生前の記憶や感情はないが、意識と意思が残った状態だ。

この家系の魔術師はアカシックレコードと呼ばれているものを「意識の海」と呼んでいる。魔術師たち自体も「意識の海」から自由に情報を引き出せるのだが・・・。この家系では「自分に必要のないコトまで知ると、狭量な人間になってしまう」と言う理由で幽霊を使ってるアクセスする方法しか使わない。・・・・と言うか。「意識の海」そのものを全く使わない。その存在自体は教えるのだが「魔術師であるならば自分のコトは、自分の身体と意識だけで行う」のだ。つまり魔術師でない人間と全く変わりない。

このATMもどきの幽霊。例えば、聖徳太子は実在しない架空の人物であったなんてことも教えてくれるのだ。「明日の競馬でどの馬が勝つのか?まで教えてくれるのだ」と不遜なことを言った魔女がいたとかは言わないでおこう。


さてさて除霊の続きである。
カワセミが次の指示を出すのをじっと待っていた時、カワセミがシノの異変を察知して駆け寄ってきた。
シノの知覚が開いてしまったのだ。平たくいうと、意識があっちの世界へ流れ出したのだ・・・。

「シノを助ける方法を教えろ!!」カワセミが幽霊の少女に命令をした・・・・

スローモーションで前に崩れるシノを抱きかかえ、すぐシノをひっくり返しカワセミが背中に一撃を加える。ひくっと少しだけ反応を示したシノを素早くしかし静かに砂浜に寝かせるとカワセミが流れた意識を取り戻す為にあっちの世界へ消えた。

文字通りその場から消えたのだった。
その場に取り残された、私・シノ・呆然とする徳の高い坊さん、幽霊の少女。渡船の方から漁師さん達が駆け寄ってくる。

「どうした?何があった?」

漁師さんがスク水姿のシノを抱き起こしながら、聞いてきた。私は喋れない。
徳の高い坊さんが祟りだと、口から泡を吹いて腰を抜かしかけて後ろに仰け反り始めた。周りの大人達は坊さんを全く助けようとしない。


シノを抱えた漁師さんのズボンを引っ張って、船に行こうと合図した。漁師さんの
「大丈夫なのか?」
と言う問に頷いて答えた。

坊さんが白目を剥いて失神した。
好都合だった。幽霊を連れて帰ることにした。

カワセミはそもそも除霊を好まない。「無害なんだから、ほっときゃいいじゃない」主義者だった。

特殊な事例を除けば幽霊(死んだ後の人間の意識)は何十年も存在出来ない。エネルギーの補給の仕方を知らないからだ。元が人間だと食べる以外の方法でエネルギーを補給すると言う疑問やイメージすらもてないからなのだそうだ。「死なない方法を知り得る立場に居て尚も、死んでしまうのは人間の性なんだろう」いつかのカワセミの声が頭の中で響いた。

だから大抵は「ここには来るな」とか「立ち去れ」と命令しろと指示をしてくるのだろう。

連れて帰った幽霊をどうするか?は屋敷に残った二人のカワセミに尋ねれば良いのだと思っていた。

(続く)

※この物語はフィクションです。

@kaerucar


4. カワイイ工業概論/ 伏見景雲(第12回)

(ここでいう「カワイイ」という語句は容姿が魅力的であるという主旨の代用語であり、必ずしも女性を指すものではありません。)

古来より女性は宝石に例えられてきました。ことアイドルの卵は「ダイヤモンドの原石」などと呼ばれることが多くあります。
女性も宝石も美しいほど価値があるという点では同じですが、逆に言うとそれは美しいものは少ない、ということでもあります。

ダイヤモンドの原石は、磨かなければ宝石にはなれないばかりか、そのままではキレイな鉱石でしかありません。価値を知っている人が、莫大な金をかけて発掘し、加工し、流通させることで初めて価値を持つのです。

そこで自然界にわずかしか無いダイヤモンドを人工的に作れたら大儲けできると考えて作られたのが人工ダイヤモンドです。しかし人工ダイヤモンドはその思惑とは外れ、透明ではなかったので宝石とはなりませんでした。しかしその代わりに産業が発展してゆくにつれて、人工ダイヤモンドは研磨剤として、工業的に無くてはならないものとなったのです。安定供給できるということは工業製品に欠かせない要素の一つなのであります。

「カワイイは作れる!」という革新的なキャッチフレーズが生まれて幾星霜、この世は作られた「カワイイ」で溢れるようになってしまいました。
そして作られた「カワイイ」は人工ダイヤモンドのようなもので、技術の進歩した現代においては工業製品として重要な位置を担っているのです。人工ダイヤモンドも天然ダイヤモンドもその硬度に違いはほとんどなく、違うのは外見、宝石としての価値だけです。その点、カワイイは人工と天然で見た目の違いが無い、ということがダイヤモンドとの最大の違いと言えましょう。

さてそれでは「カワイイ」とはなんなのか。人間の視覚が生み出した幻影に過ぎないのだろうか。とか、カワイイ禅問答に発展しかねません。しかしダイヤモンドとただひとつ違うのは上述の通り天然と人工で外見的に違いが認められないことであり、つまり天然カワイイより人工カワイイの方が大金になるということです。人工カワイイと天然カワイイでは用途が異なるので当然ですが、実際に見ることも触ることも出来なくては天然か否かは判別困難なのも当然です。

天然か人工かの違いがそんなに重要な事なのか。そう問われる方もいるでしょう。結論から述べると、さほど重要ではありません。ただしそれは偶像崇拝のシンボルとするならば、という条件下においての話です。人間の、いや生物の本能として、一に「自分の子孫を残したい」、二に「優れた遺伝子を残したい」という願望があります。そういう対象としてみた「カワイイ」は、偶像崇拝という先の条件が当てはまりません。現実世界でもカワイイ容姿で結婚したのが人工だった、詐欺だ、という案件もあるようです。

その是非は置いておくとして、偶像崇拝のシンボルとはあくまで見るだけの観賞用としての存在のことをいいます。そしてそれ用のカワイイは、人間の視覚情報に基づく印象操作に戦術的に用いられています。これはなにも偶像崇拝のシンボルに限った話ではありません。日常生活の中でも、カワイイ人やカッコイイ人がいればつい目が向いてしまったり心象的に有利に接したくなる、というのは差別ではありません。当人の遺伝子が時代にマッチしているというだけの話です。

先ほど戦術的といったのは、あくまでもカワイイというのは人間の一部分に過ぎない為であり、まだ、人間一個体でできることには限界があるということでもあります。戦略的にはカワイイに見合った仕草や演技力、歌唱力、話術あるいは生家、人脈、経験、身体能力、資本力、後ろ盾などなど、カワイイだけじゃどうにもならないことが存在するということです。

難しい話はさておき、アイドル(カワイイの戦術的いち職業例)はカワイイことが仕事だと述べました。だから天然か人工かは関係がなく、ここで人工か天然か、というのはさほど重要なことではない。それを踏まえて、しかし天然・人工という違いは無くすことは出来ないわけです。そこに表面的には差がなくとも、水面下では天然・人工によって生ずる違いというものが存在するからです。

その一つが感情です。感情面において、天然・人工の違いは大きな違いであることのように思います。
「天然・人工の違いは関係ないから公表する必要がない」のではなく、人権や倫理を無視すれば「それによって人気が大きく異なるから公表はしたくない」のが本音であるのは、きっと論ずるまでもないことでしょう。

天然か人工か不明瞭だということは、つまり逆に言えば見る人には「天然であって欲しい」という願望があり、それを叶えている一面もあるわけです。「人工でした」と発表されて怒る人が居るのも夢を壊されたからというのが尤もらしい理由でしょう。

要するに、「カワイイは正義」でもあるわけです。それが天然か人工かは(液晶画面から見ている自分たちには)関係のない問題であって、カワイイ子たちが高い露出で腰を振っているのを見れればそれで良いわけです。

ではなぜ感情が変化するのでしょうか。アイドルはアイドル。カワイイのが仕事です。カワイクなければ最初から見向きもしないでしょう。

ここで、カワイイゆえに、カワイイからこそ生ずる本能が関係してくるわけです。
写真を見られるだけで満足。歌声が聞けるだけで満足、踊りを見られるだけで満足。でも、欲を言えば――欲を言えば実際に会いたいし、触りたい。もし願いが叶うなら一緒に子孫を残したい。

ここで「偶像崇拝としてのシンボル」という条件を脱するのです。
先に述べた、「天然・人工が関係ない」エリアを超えて、「優れた遺伝子を残したい」エリアに突入してしまうのです。そうなるとむしろ天然・人工の違いというのは非常に重要な違いとなるわけで、資格情報と共に「天然であれ」という願望を前提に思考してしまうのです。

だから、もし人工カワイイだと判明した場合、裏切られたなどと感情が悪化してしまう。「アイドルはカワイイのが仕事」という初心の考えには戻れず、「それも個性だ」と認める気には到底ならないわけです。

そもそもの話、アイドルを一個人あるいは人間だとは思っていないことが問題でもあります。それは巷にあふれるグラビア雑誌、寄せては返す流行の波、プロダクションの力などなど多くの要因でカワイイが過剰供給されているというのが原因でもあります。

「カワイイは工業製品である」と感じている人は少なくても、量が減ったり質が下がれば不満に思う人が大半でしょう。それはつまり安定供給という工業製品のキーワードに他ならないものであって、特に性質上刹那的な用途でありながら姿の見えなくなったカワイイには目もくれない。

天然であって欲しいという願望を持ちながら熱中する、というのは、客観的には当人の周囲にはそのような存在がいないということの現れでもあります。いないということは当人に魅力がないということでもありますが、男とは悲しい生き物で、自分でもそこまでは分かっているのです。

そして、だから願望を抱いてしまうという循環でもあるのです。見るだけでいい。写真から想像するだけでいい。そのはずが、いつのまにか自分の中で固定されてしまい、理想通りの体型、自分の思ってる通りの性格、生まれ、血液型であると、そう思い込んでしまうのです。

それは出版側の意図でもあって、そのように「デザイン」されているのですが、そこまで気付く人はそう多くはないようです。

人間は工業製品ではありません。国家運営という枠組みで考えれば似たようなものですが、日常では人間は人間です。容姿の違いも個性であって、カワイイもカワイクないも一応は平等だとされているのです。

しかし昨今のメディアを見ていると、容姿は良くても演技が下手なのに主演だったり、一等に及ばなければ等級別に集めて箱に詰めるように扱ってみたり、輸入製品は農薬たっぷりだったりと、どうにも人道的な扱いをしているようには見えません。

カワイイは工業製品。これから更に加速するでしょう。車が故障しないのは当たり前、ホテルでベッドメイクがされるのは当たり前、レストランで水を持ってきてもらうのは当たり前、会社では残業代が出ないのが当たり前。メディアに出る人間はカワイイのが当たり前。かつて、全ては有価のサービスでした。故障しない車は故障しないように作られているから高級であり、ベッドメイクにはチップを払い、水は買うものであり、残業代は多めに支払われるべきものでありました。

しかし現代では、それらはすべて当然です。軽自動車にもメルセデス・ベンツ並の安定感を求めるようになってしまったのです。
そういったオーバークオリティな要求に対して、圧倒的に天然埋蔵量が少なすぎるならばどうすればいいのでしょうか。

答えは、もう現実になっています。現代はサイバーパンクだった。そう気付いた時にはすでになっている、というあたりが最高にサイバーパンクですね。


伏見景雲


5.原子合成と錬金術師 / カリヲ(第5回)

この世あらゆる物は原子からできており、原子は小さい物順に合成し、様々な元素が作られる。
宇宙にインフレーションが起こり、宇宙は高温になるが、その後宇宙飛行士自体が膨張し、時の経つに連れ温度も低下する。低下すると電子、原子、陽子、中性子が生まれる。そして陽子や中性子が結合し、小さな原子から原子核ができ、結合するごとに様々な元素がつくられる。しかし、質量数が8の原子核は不安定であり、鉄(Fe)より重い原子は核融合で作ることができない。では鉄より重い金(Au)はどのように生まれ、また作られたのだろうか?

鉄よりも重い元素を合成するには、太陽の8倍以上の質量の恒星が、最後に超新星爆発を起こし、爆発時に大の中性子が放出され、この時、中性子が過剰な重い原子核が合成される。またその後中心にできる中性子星同士が衝突することによって、中性子が過剰な原子核はベータ崩壊を繰り返し、大量の金や重い元素ができる。
つまり、錬金術として金を作る為には、太陽の8倍以上の質量の恒星を超新星爆発させて、出現した中性子星同士を衝突させる必要がある。これを中世の欧州コーカソイドがもしなんらかの「術(すべ)」をもってして金を作る為に恒星を超新星爆発させることが可能であったら、金を生み出す為の代償が大きすぎるのではないかと、実にこれは滑稽な話である。
滑稽のように思ってしまうが、そう思ってしまうのは、我々がこの金のできる摂理を知っているからであって、当時はこのことを誰もが知らなかったのであるし、「この海の先にインドがある」ことを信じ、人は富や夢を求めて航海していくのではないのだろうか?

錬金術で「金」を作ることができなかったが錬金術師はその過程の中で「硫酸、硝酸、塩酸」など数々の化学薬品が生み出され、そして錬金術は化学の礎となるといった、数々の副産物を生んだ。コロンブスがアメリカ大陸を発見したように、人の欲と好奇心、探究心によって、新たな発見を見出し、その蓄積によって今の我々の時代が形成されているのだということを、化学という分野を通して改めて感じるのである。

はじめまして、つたない作家を営んでおりますカリヲと申します。私的な文章の他制作などもしております。よろしければサイト等にアクセス頂けましたらと存じます。
HP:http://qariwo.jimdo.com
Twitter:@qariwo 、作品アカウント@taturou62 、@caliwOX
ブログ:http://blogs.yahoo.co.jp/kario4970


6.:ヤクザはやっぱりチャーシューメンらしい。 / 非口ユキオ(第8回)

先日両親にあれをやりました、巷で流行りの親孝行プレイ(著:みうらじゅん氏)というやつです。
わざわざ会社を休んで自らの痴態を公衆の面前にさらし、恥ずかしながらも両親ともども興奮してしまいました。ロープウェーに乗ったり、修学旅行生でごった返す大仏寺で大仏の真似をしたり、いい年してこんな気恥ずかしいことを素面でなんてやれません、やはりプレイの一環でないと、ですね。

最終日私は、日本のエッフェル塔といわれるあの通天閣や、道頓堀にあるロッテのアレを見たいという両親を、片道2時間かけて大阪に送り届けました。両親は感激していましたし私としても、田舎から出てきた両親を完璧に接待しきった感があり、これで一生分孝行しきったなと思いました。(松阪牛も食べさせたし)

しかし、帰り道によった屋台のラーメン屋で、一杯500円のラーメンをすすりながら、私は一つのことに気が付きました。

「・・・なんで親孝行しなくちゃいけないの?」
ふと疑問に思ったのです、子供が親孝行しないといけない理由ってなんでしょうか?

もちろん、両親には感謝をしています。愛情も感じていますし、育ててもらった恩もあります、ささやかながらも反抗期の時には、警察に御厄介になりかけたこともあります。

ですが、それはそれ、これはこれです。向こうだってやりたくてやった(いろんな意味で)わけですし、愛情を注ぐのも、しっかりと育てるのも、親の責任と義務であるわけで、当たり前ですが、親孝行をする動物は人間ぐらいなものです。(というか、日本人だけ)

わざわざ、当たり前の事をしている人に感謝をする文化、それが親孝行であると思います。つまり親孝行をする理由は、皆がやっていることだからという、何とも論理性の無い行為でしょう。

とは言いつつも、親孝行が論理性の無い行為だからと言って、親孝行が無意味で無価値であるとは思いません。
それはなぜなら、親孝行は一般の日本人が持つ、ただ唯一の寄付文化であるからです。

自分の蓄えを無償で他者に渡し、自らの奉仕の心を感じ幸福感を得る。
損得勘定でシステマチックに動く人が多い日本人の気質で、この文化がある事は奇跡に近いものだと思え、親孝行という文化をはじめた人には、日本人としてただただ感謝をしたいと思うほどです。

と、いうわけで、みなさん親孝行してますか?
「親と離れて暮らしているからできない」
「無職でお金が無いからできない」
「そもそも感謝してないからできない」

つまらない言い訳は結構!!親孝行は、頭脳をフル回転させて全力で相手を楽しませる競技です!!距離もお金も感謝の心もいりません!!必要なのは頭脳とひとかけらのユーモア!!

さあ、レッツみんなで親孝行プレイ!

非口 ユキオ (アラズクチ ユキオ)

7.僕の怒り新党 / datto_man(第6回)

吹奏楽の定期演奏会とかで、アンコール用に曲を別枠で設けていることに腹が立ちます。
アンコールとはそもそも、本編で演奏した曲の中で一番観客の反応がよかったものを
もう一度演奏することではあるまいか。

それなのに、本編とはまた違った、アンコールありきで事前に準備していた曲を演奏するのは、演奏する側の傲慢でしかないと思います。全然違う曲を演奏するんだったら、
最初から本編に組み込んでおけって話ですよ。

まぁ、観客のためにせっかくなら違う曲を聴かせたい、という気持ちも分かります。
話に聞くと、本当はアンコールに応えるつもりはなかったんだけど、観客のアンコールがあまりに熱いので、急遽演奏する予定になかった最新の曲を楽譜無しで演奏するということもあるらしいです。これはいいですよ。演奏側と観客側が一体になっている感じがするよね。熱いライブですよ。

本編が全部終わった。演奏側も全力を出し切って舞台からはけた。
だけど「まだ聴き足りない!お願い!もう一度聴かせて!」と観客が歓声をあげる。
その熱い声に演奏側が心揺さぶられて「お前ら最高だぜ!仕方ねぇ、特別にもう一曲演奏してやるぜ!」と応えるのが、アンコールの本当の姿でしょう。

ここで問題にしているのは、「どうせあんたら、アンコールするんでしょ?」とでも言いたげに、楽譜をビローッと出して、しれっとした顔でそれ用の曲を演奏する姿勢ね。
これはオゴリ高ぶっていますよ。お前らアンコールのために本編で余力残してんじゃないよと思う。

もっと言うと、フィギュアスケートのエキシビションも、ある種アンコール用に予め用意した
曲を踊っていると言えなくてもない。けれども、ここが重要なのですが、
エキシビションは上位入賞者達しか出られないわけですよ。つまり、己の力で勝ち取った末の
エキシビション用の曲なのです。観客がどうこうじゃなく、自分たちが頑張ったから踊れるわけ。

そこにはオゴリは一切存在しない。「自分は勝てる。絶対勝つ」という信念のもと、
エキシビション用の曲を用意する姿勢はとてもポジティブです。いやらしさがない。
最後に楽しく踊れるように頑張ろうとすることは筋が通っています。

甲子園球児も、甲子園で勝った後に歌えるよう校歌を練習してたって、全然いやらしくないでしょ。むしろ、絶対校歌を歌うぞ!という強い気持ちでプレーしていて欲しいくらい。

そう考えるとですね、また話は最初に戻るんですが、観客のアンコールありきで別枠に曲を用意していることはとても腹立つんですよ。なんだ、エキシビションのつもりなんか。いやいやいや、アンコールって礼儀みたいなもんで、どんな演奏でも最後には観客が必ずアンコールするでしょうよ。そのアンコールは、お前が自らの力で勝ち取った、誰の文句も言えない「もう一回」じゃないでしょ。

本編で自分の持てる全ての力を出し切ってなお観客から熱い歓声がでた時だけ、アンコールに応えればいい。
「俺の魂が揺さぶられた時だけ、リクエストに応えます」って、ましゃ兄も言っているし。



舞台劇の終わりに、演者が全員出てきて手をつないでカーテンコールすることに腹が立ちます。

そこでは主人公から悪者から劇中で死んだ者から全員出てきて笑顔で挨拶するでしょ。あかんやん。おい悪者、さっき主人公殺そうとしてたじゃん。なに笑顔でのうのうと出てきてんだよ。おいさっき死んだやつ。お前ハツラツと挨拶してんじゃないよ。全然元気じゃんか。

もうね、一気に気持ちが冷めるんですよ。夢の世界がポシャンと終わるような感じ。
そっか、あんだけイガミあっていたけど、実際は演技だったんだね。
舞台から一歩降りると、みんな仲良いんだね。ってなる。せっかくの余韻がとられた感じになる。

もっと言うと、劇によっては主人公の少年期、青年期、老年期と演者がそれぞれ変わる時があるでしょ。その3人が一同に会して手をつないでいたら、時空歪むよね。え?主人公が?いっぱいいる?と混乱する。カーテンコール、誰が得するんだろうね。これも演者側のオゴリなのではないだろうか。

悪者であればあるほど、「俺、めっちゃ主人公に悪いこと言ってたけど、あれ台本にあっただけだから!実際はそんなこと全然思ってないから!」とでも言いたげな笑顔みせるよね。
プロの演者なら、観客から物投げられるくらい役に徹しろよと思う。

datto_man


8.奥付

【執筆者募集のお知らせ】
「人々の交わり響きあう大衆紙」を意味する交響パブリック誌は『読者参加型メールマガジン』です。「興味のある人が読む」ためのメルマガではなく、「興味のある人が書く」ことが出来るメルマガの新しい試みなのです。

・内容は人が読みたいと思うような内容であること。
・文字数制限はありません。長すぎる場合には連載も可。
・文体、体裁、形式は自由。フィクションの場合は、「この物語はフィクションです」等の文言を文頭または文末に入れること。
・自ブログ等で一度掲載した文章でも可。第3者の文章、画像は不可。
・広告文は自由ですが、読みやすさ等を考慮しこちらで改変する場合があります。
・読切や隔回、連載などの形態あり。

文章を書くのが好きな方、ご連絡お待ちしております。
http://form1.fc2.com/form/?id=903272
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(画像やファイルの送信はメールのみとなります。☆を@に変えて送信してください。)

我々はあなたの書く文章を読みたい。そんな集団です。

次回配信は6月13日(満月)の予定です。

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