あなたの考え、書いてみませんか。――交響パブリック

隔週メールマガジン! 第9号 ――Reading your Life.

2014/04/15 19:00 投稿

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こんにちは、今宵も満月がやってきました。交響パブリックの時間です。
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【目次】
1.お知らせ
2.Youths who are indifferent to religion(K.K)
3.人生は気分と共に(非口ユキオ)
4.ノーマーク 第7話(Kaerucar)
5.純喫茶『ブラジリアン』はサイコー(前川否負)
6.股間のうた(カリヲ)
7.五円のお金がない家もあるのです。(桜井青洲)
8.「根性論」論(伏見景雲)
9.チョイのこったのこった(datto_man)
10.奥付
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1.お知らせ

・【交響パブリック】表紙に掲載する写真や絵・イラストも募集しています。
・A4縦に掲載するので向きは横、サイズは長辺が580pixel以上、ファイル形式はpsd等、通常使用される形式ならば問いません。タイトルを添えて最下に記したメールから送ってください。お待ちしております。

参加者は引き続き募集中です。
(次回は4月29日の新月です。投稿フォームが便利です。)

以上


2.Youths who are indifferent to religion / K.K(第4回)

実家が寺で一人娘の方を募集しています。
募集というより結婚してください。坊さんにさせてください。

冗談はさておき、2泊3日の参禅修行に参加しただけでドっぷり感化されてしまいまして。
いまや、僧侶(仏教)にメロメロとなったわけです。

参禅修行に参加したきっかけは、
たまたま観光で入ったお寺にいた、外国人修行僧がどうにも気になりまして。
その僧侶が何故仏教の道に進んだのか話を聞いていると、
外国人の彼を魅了した仏教がどのようなものなのか知るべきだと思ったからです。

そもそも私にとって「寺」や「僧侶」という存在は、
観光スポット若しくは身内が亡くなった際にお世話になる場所や人でしかなかったわけなんですけども、
日本人であるにもかかわらず自分の宗教の事をあまり理解していないって何だか勿体ないじゃないですか。
厳格な家であったり、信仰深い家で育てばこんな思いを持つ事は無かったと思いますが。


さて、参禅修行とは何をするのか疑問に思われた方もいるかと思いますので私の体験した内容の紹介を。
基本的には字のごとく座禅です。

座禅して薬石(夕食)、開浴をしてから夜座。その後21時には就寝。
時期が冬の終わりだったという事もあってえらい寒くて、湯冷めは確定でした。

翌日は朝4時前に起床し、朝の座禅、朝課。
朝課では僧侶と一緒に般若心経や大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)を唱え、お焼香して、五体投地して三礼。
途中で自分の名前が呼ばれ、諸願成就や身体健全なども祈願して頂けます。

朝課の後は小食(朝食)をとり7時から作務に入ります。作務とは農作業や掃除のことです。
長い廊下を雑巾がけしたり、トイレ掃除したり、風呂掃除したり…。まあ想定していた通りのものです。
作務が終わると9時から座禅を行います。ちなみに座禅は40分*2回です。
座禅が終わると11時半に中食(昼食)をとり、皿洗いなどの作務。
休憩する間もなく13時からまた作務があり、朝とはことなり境内の枯れ葉集め。久しぶりに熊手をつかいました笑
そして15時からはまた座禅をし、座禅が終わった17時からは薬石(夕食)です。
以降は一日目同様に18時に開浴を済ませ、まもなく19時から夜座。

上記のような生活を2泊3日で過ごしたということとなります。
作法が非常に厳しく、飲んだくれサラリーマン生活を送っている私にはなかなか辛い生活でした。
タバコを吸えない環境となるので禁煙をされたい方は1ヶ月ほど修行をすればやめられる事でしょう…。

座禅は思考に支配されず自分の事を見つめる為に行うものなのですが、それがまた難しい。
心の中に考え事が浮かんでも、追いかけてはならないのですが時期的に朝晩の冷え込みが激しく
防寒着という防寒着を持っていかなかったため、無心になるまでが辛いです。
指示されていた持ち物にはジャージとなっていたので、素直にジャージを持っていったのですが
お寺は基本的に密閉された空間ではなく至る所が外気を通す構造なので建家の中ですが、外と変わりないためです。

他にも精進料理を頂いた後に、自分で浸かった食器をたくあんとお茶で洗い最後にそのお茶を飲み干さなければならないのですが
それがまた厳しいものでした。味はどうってこと無いのですが、お茶の量のコントロールが大変で。
修行僧の方が器にお茶を入れてくださるのですが、
人によっていれる量と速度が違うのと、その量で十分ですという合図タイミングが非常に難しく。
遅いと大量の熱いお茶を飲み干さなければなりませんし、少ないと洗える量にならず。

動機はどうあれ、普段の生活から違う生活を体験出来た事は人生の大きな糧となったと思います。
また、私のようなサラリーマンとは違う仕事を生業としている僧侶の世界を知れた事も有意義となったのではないかと思っています。

何よりも、思考に支配されずに生きていく方法を実際に体験したことは今後のサラリーマン生活を送る上で
貴重なスキルとなるでしょう笑。


皆さんも修行を体験してみては如何でしょうか。得られるものがきっとあると思います。

K.K


3.人生は気分と共に / 非口ユキオ(第5回)

あなたは幸せか?
人生が良いか悪いかを測る為のパラメータは、幸福度である。幸福な人生は良い物で、不幸な人生は悪い物だということに疑いの余地は無いだろう。人が生きるということ、つまり人生とは幸福を求める事に他ならない。人生でやりたいこと、やるべきこと、やらなければいけないといわれていることは数多くあるが、それは全て幸福でありたいが為にしているのだ、例えば教育、勤労、信仰、セックス、食事や飲酒、喫煙、読書、薬物、創作、やるかやらないかは、その人の趣向や生活様式、文化、計画性の有無によるが、全て幸福へと向かう行為である。
では、幸福とはなにか?
幸福とは、感覚である。幸福感を感じる事が幸福である、つまりドーパミンやセロトニンに代表される脳内物質の受容により発生する感覚である。食事やセックス、勤労や信仰による安全や安心、薬物による直接的な投与、創作中の昂揚感、これらにより得られる感覚が幸福である。
つまり何が言いたいかというと、幸福は全て、自分自身の中で完結しているということ。幸福感を感じる為に必要なのは、脳内物質を構成する幾つかの栄養素(トリプトファンに代表されるアミノ酸やビタミンB6、マグネシウム)だけである。それ以外の外的要因は、間接的にこそ影響するが幸福感を直接的に左右しない。
これは幸福、つまり人生においてその置かれている状況や状態は、最も重要ではないということだ。失職も、大病も、差別も、住む場所も、愛する者の死さえも、幸福な人生を不可能にしない。何者もあなたが幸福であることを止めはしない。それは、たとえ神であってもだ。
では、幸福感を妨げるものは何か?
それは、悪魔である。空想上の存在ではない、古くから知られている、又の名を自我と呼ぶ。これは、いわゆるコントロール不可能な無意識の思考である。悪魔の最も親しみ易い言い方は、気分である。その時の気分によって幸福かそうでないかは決まるのだ。気分しだいで、実際はそうでないのに最低の人生だと感じる。逆に気分がいいとき、人生は最高で、そんなときはどんな大きな問題も簡単に解決出来そうだし、批判されても簡単に受け流す事が出来るし、これまでの人生に感謝しさえする。だが気分が悪ければ、生きることがしんどく、全てが灰色に見える、これまでの人生について聞かれれば、こんなに辛いものは無いと言うかもしれない。気分によって同じ人生でも180°違う感覚を受ける。これが悪魔である、対処法はひとつだけだ、気分がいい時はラッキーだと思い、ありがたく人生を楽しみ、暗い落ち込んだ気分の時は「こんな時もあるか」とやり過ごし、暗い気分が消え去るのを待つのだ。決して深く考え込んではいけない、大抵暗い気分の時は客観性を欠いて、否定的な考えばかりが浮かんで来る、人生は暗い気分の時に感じるほど悪いものでは無いし、気分は沈めば浮かぶもので、一生そのままというわけではない、必ず暗い気分は消え去るのだ。気分は人の持つ無くならない性分のひとつである、人生を出来るだけ良いものにしたいのならまず、気分との付き合い方を考える必要があるのだ。

人生は気分と共に。


非口ユキオ (アラズグチ ユキオ)


4.ノーマーク 第7話 / Kaerucar (第7回)

※登場人物の紹介
※サキ(主人公):小3男子、チビでこ汚い魔女の弟子。
※シノ(ヒロイン):小4女子、福岡県出身。
※カワセミ:魔女。魔術師の家系の長(おさ)。
※カモメ:カワセミの世話人をする女。

シノは川でアライグマの様に野菜を洗っていた。台所にも水道は付いているのだが、狭いので川で洗った方が都合が良い。
カワセミが全裸のまま洗濯物を抱えて風呂場から出てきて
「さっさと(風呂に)入れよ」
と、そのまま庭の方へ行った。洗濯機で脱水するわけじゃないので、ポタポタと水が滴り落ちている。早速、服を脱いで洗濯を始めた。この家は電気が来ていないので、日暮れ前に全部済ますのだ。
野菜を洗い終わったシノが風呂の入り口へやって来た。大きなブリキのタライにお湯を張って、服を全部入れた。シャツと半ズボンとパンツ、ポケットから砂が出てきた。洗剤を適当に入れて洗おうとした時、シノが手を出してきた。ウンコが付いているパンツが気にくわないらしいのだ。
「こやって洗うのよ」
と見せてくれている。アライグマな感じである。確かによく汚れが落ちる。あっという間に洗濯が終わり風呂に入ろうとすると、機嫌の悪そうなシノに引きとめられて体を洗われた。肛門を丁寧に撫でられてウンコを洗い落とされた。

1歳しか違わないのだが、すごく面倒見の良い女の子だった(1歳しか違わないのにすごくだらしない男の子だった)。

五右衛門風呂の縁に両手を乗せて、シノを見ていたら肩で息をしながら眉間にシワを寄せた表情でこっちを見ていた。しばらく見つめあってると、正気を取り戻したシノが
「体をきれいに洗ってから、お風呂にはいるのよ(てへぺろ)」
と取り繕う様に言ったので、頷いた。

しばらく沈黙が続いて・・・何やら気まずかったのが耐えられない様子のシノが服を脱ぎ出した。

ワンピースと下着が上下。(ワンピースは足の方から脱ぐのをものなのか)と珍しく思いつつも、着ているものが全部で3枚だから同じだなとか、どうでも良いこと考えてた。ノースリーブのワンピースだったせいで、腕だけ少し【パンダ焼け】している。

ワンピースのポケットから、小さな葉っぱがこぼれ落ちた。”涼しく感じるおまない”で、午前中気絶してた時に入れたものだ・・・が、それはゆっくりと排水口に向かって流れて行った。

葉っぱの効果がここで切れた。シノの身体から汗が噴き出してきた。シノは風呂場が蒸してるせいだと思ってるのだろうか?

全裸の女の子が洗濯をする姿はどこか不思議な感じがするものだ。アライグマ以外の何か?にしか見えない。下着はすぐ終わったのだが、麻のワンピースはしぼるのが大変そうだった。

肩甲骨まである髪をくるくると纏めて、白くて細い身体を洗い。いよいよ風呂に入ってきた、端っこに寄ってスペースを開けると、ちょうどいい高さでまたぐように入ってきたのだ。片足を入れて、くるっと背中を向けて両足が入ってゆっくりこっちに向いて、しゃがんで行く・・・・・
至近距離で全部見えた・・・・。

が、どうだったか?全く覚えていない。

湯船からお湯を使って洗濯をすると当然お湯が減る、お湯が減ると水を足す。だからヌルくなる。

風呂場から一旦外へ出て、カマドへまきを一本足す。裸のままシノがついて来た。後ろからその様子を眺めている。火の勢いを確認して二人で風呂場へ戻る。風呂釜の温度が上がるを確認すると、二人で頭と身体を洗う。

最後に二人で湯船につかりシノが百数える。その日の午前中に初めて会ったのだが、どうもウマがあう。

水が滴る洗濯物を抱えて、風呂場を出て茶の間の外を通ると、中からカワセミが
「早く来い。晩飯だぞ」
と声をかけてきた。振り返って見ると、全裸で胡座をかいたカワセミと普通に服を着て正座しているカモメが、妙な絵ヅラでたたずんでいた。
中庭の物干し竿へ洗濯物を掛けて、全裸のままで席についた・・・。シノが赤面したまま完全に俯いてしまった。
「後で、近所から着替を借りて来るから」
とカモメがすっとぼけたフォローをした。どう言う揺さぶりか知らないが、魔女達は徹底して普通を装っていながら、シノへ質問する隙を与えない。見事な(ボケ?)だった。

まさか初めて泊まる家で、同じ人間を3人見かけて、3人のうち1人だけが全裸で食事である。「他の二人はどうしたの?」とか「イヌワシはどこにいるの?」とも言えないほどに追い詰めている。全く見事なユーモアのセンスだった。シノはよっぽど恥ずかしいのだろう。茶碗を持つ手も震え俯きながら、それでもしっかり食べる。その向こうからカワセミが愉快そうな目で合図してくる。

(今夜だ)

念の為言っておくが、いくら田舎でも全裸で食事をする習慣はない。

俯いているシノに気取られない様に、カモメが必死に笑いを堪えている。

そりゃそうだ、全裸の3人が普通にちゃぶ台を囲んで夕飯を食ってるのである。そこで、空気を読めない全裸の私が、一人だけ普通に服を着て笑いを堪えているカモメを、飯をもぐもぐ咀嚼しながらじっと見ているのである。

いくら、シノに考える隙を与えない為の行動でも・・・。流石に面の皮が厚いカモメでも辛そうだった・・・。

そこで、一杯一杯なカモメに、カワセミが助け舟を出した。
「サキ、魔女には虫の知らせが有るんだ。今朝な。貰った酒を開けようとしたら、蓋がさっぱり開かなかったんだ。アオサギにやってもらってもサッパリ開かなかったんだ」
ここで、部屋の隅に置いてある今朝の5合瓶を指差した。私はそっちの方を見たが、シノは俯いたままだった。
カワセミが私の視線が戻ってくるのを狙い撃ちするように話を続けた。
「そしたら、イヌワシがシノを連れてきたんだ」
シノの身体が俯いたまま固まった、ここに来た経緯を思い出したのだろう。
シノの反応を確かめてカワセミが続ける。
「何かが起こるとき必ず虫の知らせがあって、普通じゃない事が起こるんだ。これは普通の人にも起こるんだが、魔術師は絶対それを見逃さない」

カモメはすっかり冷静さを取り戻した。そしてここでシノが顔を上げ、カワセミを見た。カワセミはその視線をやんわりと避けて夕飯を口に運んだ。

その様子を見ながら、瓶を開ける時、カワセミがシノの耳元で囁いた。
「お前は助けて貰う替わりに何かを捧げなければならない」
という言葉が、シノと自分の意識を引き付ける為のウソなのだとなんとなく理解した。

この家系の魔術師には等価交換の概念はない。

この家系の魔術師は、道具を使わない。呪文や魔法陣やケルベロスの爪(槍とか刀とか?なんだそりゃ?)とか、道具に相当するものを一切使わない。自分の身体と意識だけで魔術を実行する。経典や教科書も存在しない。

(後で知ったことだが)その特徴から、魔女カワセミの家系以外の魔術師達からは「古代の魔術師」と呼ばれていたのである。

きっかけはビンのフタを開けた瞬間。私の意識はあっちの世界へ流れだしこっちの世界で喋れなくなったのだ。

今も【あっち】の世界から、この身体を通して【こっち】を眺めている。

あっちの世界で裂けてしまったシノの亀裂を塞いで、死を止めたのだった。一瞬の出来事を自力で想起できるほどエネルギーを持っていない私を助ける為にカワセミは今の話をしたのだった。

そしてそれは、シノも同じだったのだ。

魔女カワセミは、それまでの出来事を忘れさせるほど、シノの意識を引きつけて、その間、私にシノを修復させたのだ。

世話人のカモメを抱腹絶倒の危機に晒してまで、ここまでやってのける魔女カワセミ、ブラック過ぎてシャレにならないユーモアのセンスは今でも、背筋がぞっとする。

一歩間違えば、シノは死んでいたかもしれないのだ。


(続く)

※この物語はフィクションです。
Kaerucar


5.純喫茶『ブラジリアン』はサイコー / 前川否負(第8回)

現在僕は一人暮らしをしておりまして、毎日自分で食事を用意しなければなりません。
ただ一人暮らしの自炊だと揚げ物を作るのが億劫になってしまいます。
スーパーの惣菜売り場で買ってもいいのですが、だいたい衣がフニャフニャになっており、おいしくありません。
そんな僕がたまにお世話になっているのが、徒歩3分の位置にある弁当屋です。
ここは注文が入ってからおかずを揚げ始めるので、いつでも揚げたてが食べられるってワケですね。
先日そこで起きたイベントについてお話させていただきます。

いつものように弁当屋に着き、ロースカツ弁当を頼んで出来上がりを待っていました。
ふと外を見ると、店頭に掲示してある弁当屋のチラシと自分の財布の中身を交互に見つめる浮浪者のような人が。
『ホームレスかな?持ち合わせがないのだろうか?』と特に感慨もなくボーっと見つめていると
別の汚いおっさんが店内に入ってきました。
恐らくパチンコ帰りなのでしょう、景品であろうお菓子の入ったビニール袋を持ち、とても上機嫌です。
おっさんは注文を行った後も店員と世間話をしていました。僕にはとてもできない芸当です。
彼らの話題は店外がホームレスの話になり、僕は下卑た笑いを浮かべるおっさんと愛想笑いをする店員を眺めていました。

人によっては胸糞悪く感じるでしょうが、僕の周りにはこのおっさんみたいな人が沢山いるので
『こいつもそうなんだな~しょうもないな~』程度にしか考えておりませんでした。

その後、野菜炒め弁当と海苔弁当を受け取り店を出たおっさんは、海苔弁当をホームレスに渡して颯爽と去っていったのです。

もう意味がわかりませんでした。
彼になんの得があるのでしょうか?
自己満足なんでしょうか?

気持ちがわからないわけではありません。
恵まれない人に施しを与える事は良いことです。
しかし彼は先程まで店員とホームレスのおっさんの事を馬鹿にしていたはずです。
到底人格者とは程遠い人物であったのです。
マンガの世界ならホームレスのフリをした富豪が居るかもしれませんが、現実にはそんなこと滅多にありません。
ホームレスに感謝されたって何の特があるワケでもないのに、なんであんな事をしたのか?
性格の悪い僕は(彼はホームレスに対して優越感を持ちたかっただけではにのか…?)と邪推してしまいましたが、
そのために290円の海苔弁当を失うのはあまりにもコスパが悪すぎます。

しかしそんなことホームレスにとってはどうでも良いことでしょう。
彼にとっては死んだ目でロースカツ弁当を待つ僕よりも、海苔弁をくれた汚いおっさんの方が良い人であることは確かです。
なんだか意味がわからなくなってきました。
こんなことで貴重な脳のリソースを割いてる余裕はないのです。
第三回シンデレラガールズ総選挙で誰に投票するか考えなくてはならないのです。
というわけで今回はここまでにしておきます。


前川否負(まえかわいなふ)


6.股間のうた / カリヲ(第2回)

不幸中の幸い、いや不幸というべきか。「いんきん」を患ってしまった今日この頃。
いんきんとは何ぞやという方もいると思うが、簡単に言うと白癬(はくせん)菌というカビの一種で、水虫の原因ともなる菌である。その菌は全身至る所に感染し、感染した幹部の部位によってそれぞれ病名が変わるというなんとも面白いものである。それが陰部近くで発症するものをいんきんと呼ぶ。(又はいんきんたむし)
やはり水虫と同じような感染をするので、「どこでもらって来たのか?」といろいろ頭をよぎったのだが、以前弟が股部白癬(こぶはくせん)を患っていたのを思い出した。風呂やタオルが共有ならば移らない可能性もない。それにかぶせ、生理時の蒸れと摩擦による擦れでの擦り傷に白癬菌が感染したものと考えられる。スボンや靴文化の現代人にとって、通気性の悪い股間と足裏はカビにとって桃源郷のようなところであるがゆえに、白癬といったら水虫が一番有名なのだろう。いんきんたむしがそこまで名通りしないのは、患部の部位が部位だからである。そこの病だと言えばやはり「性病」などのレッテル(いかがわしいことをして患ったのっでは?)がはられたり、ましてや性病の取り扱い医院や産婦人科の門を叩く、または皮膚科で股を開く治療をすることに対して、羞恥心を抱き人も多いことだろう。
たしかにいんきんたむしは性行為による感染もあるが、それが全てでもなければ性病でもない。ここ(陰部)に病状を患うことで負のレッテルを貼られることを恐るがあまり、悪化させてしまう患者も多いという。同じような病状に悩む人々にあえて言おう、

『股間は怖くない!」と。

私自身が臆病で、何か症状があると気になってすぐに病院に行ってしまうが為、さほど病状も進行してはおらず、また幼少期に一度いんきんたむしに患っていた為、診療に何の抵抗がなかったのだ。性の「せ」の字も知らないような幼児もかかるような病気であり、診療に何の羞恥があろうものか?これを隠して、家族やパートナーに感染させてしまう方がどんなに愚かだろうか?感染症はもはや自分一人の問題ではない。もし、白癬菌にかかるようなことがあれば、是非早めの治療をしていただきたいと是非思うのである。
話はズレるが、水虫治療の時に、よく足裏に紫外線を当てる治療があるのを皮膚科などで見たことのはないだろうか?その紫外線照射装、、いや、紫外線治療器が、なんとウチにあったのだ!実は母が水虫治療の為に買っていたのだ。弟に母に、まさに家庭内は白癬菌の背水の陣!逃げ場などなかったのだ。これも幸いかと、患部をグッパオン!して紫外線照しょ…..いや、紫外線治療器を自室で当てていながら、この文書を今書いて時間を潰している訳だが、どんな病気を患っている方でも、どうかほんの小さな勇気を出して治療してほしいと思う。
さて、いんきんたむしだが、特に男性に多いもののようなのだが、近年パンツやストッキングを履く女性も増え、女性の患者も年々増えているらしい。服装に関しても、維新前の通気性のいい和風や草履などが、湿気の多い日本という環境にとってはとても適した衣類であったのでではないかと改めて思う。毎日着物を着るという訳にもいかないものの、普段のズボンをスカートに、パンストをガーターベルト式ストッキングになど、もう少し股間に優しい衣類をまとうことを心がけていきたいと思うのであった。(男性だったらトランクだとか)しかしガーターベルト式ストッキングは高いし売っていないのでコスト面では優しくない。

心に勇気を

股間に愛を

財布に慈悲を…


カリヲ

ご拝読いただきまして誠にありがとうございます。はじめまして、つたない作家を営んでおりますカリヲと申します。この場をお借りしてご挨拶と紹介をさせて頂きます。私的な文章の他制作などもちょこちょこしております。よろしければ、サイト等にごアクセス頂きお目通り頂けましたらと存じます。(なお、こちらの文章はブログの転載によるものです。)
Twitterアカウント、@qariwo 、作品アカウント@taturou62 、@caliwOX
ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/kario4970


7.五円のお金がない家もあるのです。 / 桜井青洲(第9回)

高校生の頃に毎月のように授業料未払い催促通知を担任からクラスメイトのいる前に名指しで呼ばれ受け取っていた。最初はどうにもならない嫌な気持ちであったが徐々にそれが日常になっていった。嫌な気持ちを引きずり続けていたら、もしくはもっと幼い時からそのような境遇にいたら、僕も蒲郡風太郎になっていたかもしれない。


ジョージ秋山氏の週刊少年サンデーで連載していた名作の「銭ゲバ」。昭和40年代を舞台に貧困に生きた少年蒲郡風太郎が人道を外れ、成り上がる。

貧乏は決して全て不幸ではない、ただ貧乏がゆえに不幸と思えてしまうことが裕福よりもあるのかもしれない。特に幼き頃にお金で辛い思いをすると心に芽生える禍々しい気持ちを向ける矛先がわからない。どんどん禍々しさが膨張してゆく。親が悪いのに。周りが悪いのに。自分はどうしてここに生まれてしまったのだろうと。

酒と女に溺れた父と病弱な母の間に生まれた風太郎。頼るのはとなりのにいちゃんだけだった。心の支えは母とにいちゃんだけだった。その母が倒れその後、魔が差してにいちゃんを殺めてしまう。その瞬間に風太郎は銭ゲバと化す。貧乏が人を変えるのではない、心の支えが無くなると人は変わるのだ。その支えが人なのか思想なのかもしくは初めから金なのかその違いだけなのである。金の亡者、悪の権化となった風太郎は幾重と道から外れたことをしてもどこか悲しい、いや悲しすぎる。支えを失い周りが見えなくなりそれを金で埋め合わせ続ける姿。


「私は美しいものがすきズラ。美しい人の心が欲しいズラ。だけど人の心が美しいとは思わんズラ。この世に真実というものがあれば、命をかけておいもとめるズラ」

純粋無垢な女子高生の小畑純子を出会い、その心の美しさを久しぶり実感し高揚感に満たされる風太郎だったが、しかしお金が必要であると擦り寄ってくる純子に絶望する。風太郎は信じているモノと純子の信じているモノが違った。風太郎からすれば裏切りだったであろう、だけども純子からしては決して裏切りではない。だけども風太郎の気持ちは辛いほどにわかってしまう。人を信じるということにどれだけ勇気がいることか、それが自分の思想の押し付けであったとしても。全ては金でどうにかなるわけではないと思いながらも金で道を開きづつけ多くの人を苦しめ、殺め続ける風太郎、その度に幼き過去を振り返り、狂ったように嫌悪が締めつける。
政界にも手を出した風太郎「人間の幸福」について文章を頼まれる。銭ゲバではない風太郎のパラレルワールドが原稿用紙の上を駆け巡る。自分が本当に好いていた社長の令嬢三枝子との暖かい家庭を持ち、車を購入し家族で出掛ける光景から実際に歩んだ回想と切り替わる。あまりにも対極…かつ残酷。衝撃のラストはあまりにも救いがない、だが救いがないのが唯一の救いではないのだろうか。


この作品が少年誌で連載されていたのが今の御時世では想像つかないものであるし、当時は各都道府県で有害指定図書にされていた時期もあったらしい。中沢啓治氏の「はだしのゲン」にしかり、この「銭ゲバ」にしかり閲覧の制限をすることが、有害な行為であると思う。勿論、フィクションやノンフィクションそれぞれ違うものだが、漫画等のメディアを通し人間や社会の事実(銭ゲバではあれば公害問題や拝金主義)を見せることが今の満たされた世の中の満たされてないところではないのだろうか。人の目を気にせずに差別用語など連発するくらいでなければ伝わらないものもあるはずだ。

お金というのは生きるうえで必要不可欠、さらに数字という記号で凄くクリアに物事を見ることが出来る、それにゆえに人間、人の気持というものが如何に秤にかけることの出来ない複雑なものであるかを教えてくれる。食物連鎖の上から見下ろす我々人間にとっての「お金」とは最高の発明、最低の発明どちらなのだろうか。


桜井青洲


8.「根性論」論 / 伏見景雲(第9回)

「三日坊主」「継続は力なり」「三日天下」などという言葉が有名であるように、物事は始めるより続けるほうが難しいもののようであります。中でも「継続は力なり」という意見には僕も賛成ですが、この諺には本来通りの"続けたことは裏切らない"という意味に付け加えて、現在では"続けるためには努力がいる"という意味があるのだと思います。そしてこれは逆説的に「なんでもいいから"努力"を続けなければならない」と本末転倒になっているところもあるように思われます。

それでも意味は通りますが、結果ではなく努力に重きを置くと"どれだけ苦労したか"が評価されて意味がわからないことになります。理由や目的のない継続はただの惰性でしかありません。苦痛を伴わない惰性は慣習ですが、苦痛を伴う惰性は愚か者といいます。理由もなく努力を継続するのは考える力を持たないからです。しかし世の中には結果より努力に価値を見出す人が意外と多いようで、効率的な方法はズルとされたり、巷ではよく苦労話自慢大会が開かれているのを耳にします。

にも関わらず、その大会の優勝者は別に苦労しただけで大成したという話もあまり聞きません。同じかそれ以下の苦労で大成した人物も知っていますが、そういった人物は大会参加者からしてみれば「才能があった」故に参加資格がないらしいのです。

たとえば身長2mの小学生がいたとします。彼は人並みに努力し、人並みに技術を身につけました。しかし彼が小学生リーグで点を取りまくっても彼の努力が讃えられることはないでしょう。努力したとしても"できて当然"であるならば、不思議なことにそれは努力とは言わないのです。

ではそのバスケットボールの点に価値はないのでしょうか。努力でないならズルなのでしょうか。体格に恵まれただけなのでしょうか。
ここで大きな勘違いをしている人が多いのが「努力にこそ価値がある」と言う人。勤勉といわれる日本人が陥りやすい思考です。いや、端的に言うならこれでも正しいのですが、しかしながら言葉尻だけを捉えて言葉通りの意味で解釈している人が多いのもまた事実。もっとも顕著なのは体育会系の活動でしょう。
実際には、「努力に価値は無い」。価値があるのは経験、結果、解法の3つです。

僕は努力が嫌いなインドア系ですが、それでも体を動かす系の努力をし、それによる良い結果を出した経験もあります。だから"純粋なる根性論"の効能は知っているし、体育会系が精神的な強さを重視する理由も理解できる部分があります。
ただ"純粋な根性論"と"歪んだ根性論"は違うのです。まずそこで齟齬が生じており、なおかつ彼ら自身にも齟齬が生じているから性質が悪い。だから体育会系の言っている言葉の意味が分からなかったりするのです。

そもそも根性論は「論」とつく割には定義も曖昧で、態度や姿勢を示している言葉のような気がしますが、それはともかく先に述べた”純粋な”と”歪んだ”の2つの根性論は、基本的に言っていることはどちらも同じです。しかし違うのは人称、すなわち態度が異なるのです。態度が違えば論旨が真逆になるのが根性論です。

"純粋なる根性論"は、常に一人称で語られるものです。「克己自身」というように、納得へ向かってゆくエネルギー、あるいはエネルギーを生み出すための術や持論なのですが、対して"歪んだ根性論"は二人称や三人称で投げかけられるもの、つまり他人に押し付ける根性論のことを言います。そこには「立場・身分の違い」が前提条件にあって、正当性が保証され、下克上も許されない安全な位置からの嗜虐の様相を呈しています。「他人に押し付ける根性論はイジメと本質的に同じ」なのです。

根性は目に見えず、数式で語れず、普段感じることのない特殊なスキルです。また発揮のタイミングや経験、状況、持続、効能には個人差があり、同じ行動でも根性が必要な人と不必要な人がいます。しかしおおよそ一般的には"土壇場に発揮されうるものである"という見解は一致しているように思います。

実際、根性の威力は凄まじいものです。命の駆け引きなどではなく純粋なスポーツなのに、根性を発揮するかしないかでは結果は大きく違うものなのです。結果がほしい、だから根性はできるだけ発揮されてほしい。そうしていつしか「根性は常に発揮されなければならないもの」「根性を発揮できないのは根性がないから」「根性は苦労で身につく(身につかないのは苦労が足りない)」という"歪んだ根性論"に発展してしまったのです。

たしかにその根性論でいくと、努力には価値があることになります。根性がある奴は偉い、努力をしただけ根性がある、だから努力をしただけ偉い、という風になるのです。
つまりまとめると、
純粋な根性論
・根性を発揮すれば比して良い結果を残しやすい
・根性を発揮できる肉体・精神はトレーニングで鍛えられる
・根性はモチベーションなどコンディションによる
歪んだ根性論
・根性を発揮できない人間は価値がない
・根性は苦労で鍛えられる(だから苦労は偉い)
・根性は精神そのものである

というように、この2つの根性論は似て非なるものだということがわかると思います。一見するとどちらも"手段としての努力"であるように見えますが、前者は「いかに発揮できるよう整えるか」の努力であるのに対して、後者は「発揮できないのは努力不足」と断じているのが大きく違います。どんな達人でも根性を常に発揮するのは不可能なので、結局これは破綻しているわけです。

どちらも競技・スポーツの結果というものに直結した真剣な想いであるのに、前者は客観的に、後者は主観的という違いだけで大きく論旨の方向が変わってくるのです。
しかしいずれにしても"根性"というものは自発的に発揮されるものであることは同じで、トレーニングで鍛えるということも同じなのです。また真剣になりすぎると追い詰められて余裕がなくなり、極端な思考に偏ってしまうことも多々あります。だから間違えやすいんですね。

そして立場・ベクトルは間違っていても、(破綻しているということを除いて)言っていること自体は正しい故に正当性があるわけです。正当性と階級を得た人間の恐ろしさは、誰しもどこかで体験したことがあるのではないでしょうか。あるいは戦争映画などでよく見られますよね。

「努力に価値はない」のです。価値があるのは努力の過程で得たものであって、こと競技に於いては結果の伴わない努力は無価値でもあります。とはいえ、努力でしか得られないもの、結局は努力が一番の近道であることも多くあります。だから端的に言い表すならば「努力は尊い」というのは間違っていないわけです。しかし「努力こそ尊い」というふうに尊敬を通り越して崇拝してしまうと、とたんに意味がなくなるものなのです。

どんなに非効率的な方法でも努力は努力。身体を壊しても努力。結果が伴わなくても努力。力にならない継続。
それは、「継続は力なり」といえるのでしょうか。続けたくもなく、苦痛で、スキルも身につかないことを"継続"して終えた一生の報いは「頑張ったね」の一言で満足ですか。

どうせ同じ継続なら交響パブリックの方がずっと楽なので、参加者待ってます。


伏見景雲


9.チョイのこったのこった / datto_man(第3回)

どうやら僕は「チョイ残し症候群」を患っているようです。

俗に言う、あの「チョイのこシンドローム」のことですが、
どういう症例が報告されているかというと「物事の最後のあとちょっと!の所で全てを放棄してしまう」という、完璧主義者が聞いたら怒りに狂い出す行動をしてしまうのです。

例えば、友達と一緒に定食屋に食べに行くとします。
友達が納豆定食を注文して、僕はヒレカツ定食を注文する。
ぐだぐだとしゃべりながら食べるわけです。

ほどなくして友達は納豆定食を食べきるのですが、僕はヒレカツをちょっとだけ残すんですよ。いや、別に悪気があってちょっと残してるわけではないのです。
「へへへ、ヒレカツなんて残してやらぁ」という心づもりがあるわけではないですし、
雨の日に橋の下で捨てられている子犬を見つけた僕は、「お前も飼い主に捨てられたんだね。
人間を怖がるような目をしている。ふふ、僕もお前さんと同じようなもんさ」と思い、
その日から食卓の余った食べ物を袋に入れては子犬に食べさせているわけではありません。
ただ純粋に、全部食べきれないのです。

これはね、ヒレカツ定食に限った話ではなくて、もっと量の少ない納豆定食を食べても
チョイ残しはしますし、ごはん定食を食べても、ごはんをチョイ残しするんです。

「なんだよお前、チョイ残しすんじゃねぇよ」と友達に毎回言われるんですが、
そんなことは重々承知なのです。僕だって出来るならばチョイ残しなんかしたくない。
何の為に生まれて、何をして生きるのか、答えられないままなんかいたくない。
そう思うわけです。できるならばカバオももらったアンパンを最後まで食べきりたいと思っているのです。


そう考えてみれば、僕は今までエンディングまで迎えたゲームは一つもないのかもしれません。

子どもの頃からゲームが好きで、その中でも僕はRPGが好きなんですが、
はたと思い返してみると、RPGでエンディングまでやったゲームなんて無いのではないか。

なけなしのお金を払ってやって手に入れたゲームですよ。主人公を強くして武器を手に入れて攻略して、
ラスボスまではちゃんと行くけれども、エンディングを観たゲームなんて無い。

これまた「チョイ残し症候群」の話になってしまうんですが、
ラスボスまでいって、あと少しで倒せそう!という気持ちになると、急にテンションが下がって、ゲームをブチッ!と切ってしまうんですよね。その情緒不安定さね。好きな人の尻穴を嗅いだ時のように一気に冷める。
だから、エンディングが観られない。

たまに「俺は○○っていうゲームは3周したわ~」っていう人いるんですけど、
もう信じられないよね。どうしてゲームクリアするんだよって思う。
ゲームはエンディングを観ずに売り払うのが筋ってもんだろ。

やっぱりさ、途中までの過程が一番面白いわけじゃない。
いっぱいレベル上げして、いっぱいアイテムとって、ステータスが最高潮に達した上でラスボスに挑むというあの過程ですよ。

僕の場合はですね、まずラスボスと闘います。そして、最初は余裕でボコボコにされるんですよ。そうするとテンション上がりますよね、「よっしゃ!やってやる!」と嬉しくなりますよね。

そして、しこしことレベル上げ。めっちゃ強い武器防具買って、アイテム揃えて、
もはや、小学生がコントロール握ってもラスボス倒せるってくらいまで強くして、
ゲームをブチッ!と切るんです。はい、終了。僕の中ではこのゲームはクリアしたことになりました。

だってさ、そこまで強くしたんならさ、わざわざラスボス倒す必要なくない?
どうせ勝っちゃうんだよ、余裕で。ボタン連打して、決められた戦術で押し通せば、いつか勝てるんだよ。
そんなのさ、意味ないじゃん。そう思いませんか。

このゲームの話は一つの例でありまして、僕は至る所で「チョイ残し」をしてしまいます。
99まで物事を進めたら、100までいかずに、ブチッと終了。絶対に100まではいかない。それが「チョイ残し症候群」なのです。多分、僕と同じ人はたくさんいると思うんですよ。

ペットボトルに入ったジュースを、あと一口、というところで飲むのを止めてみたり、
テスト勉強をするにも、あとこの1ページで終わり!というところで止めてみたり、
第一話から通しで観ていたドラマを、最終回の残り10分くらいのとこでお風呂に入りに行ったり…。


結論です。
チョイ残し症候群とは次の一言に表されると思います。それはつまり



datto_man


10.奥付

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