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本を読み名を知り、名を知り本を読む。

2016/03/02 16:30 投稿

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本を手に取るとき、その著者を知っているかどうか。
知っていることに意味があって文章を読む場合。
おそらくはその人の作品を好んでいると思ってなされることだろう。
そうだろうか?
巡り来ればこそ、そうなるのかもしれない。

「名」は、意識されている以上に強い力を持っている。
「作品を」と言いながら「誰作品を」として好んでいる。
もちろん、生み出した人の手なるものであれば、作品と作家の関係は近しい。
同じタイトルであっても、知られている本とそうでないものがある。
内容の良し悪しが歴然とある可能性は否定できない。
そしてまた、「知られているから良質である」とも言い切れないという問題をはらんでいる。
タイトルも本にとっては「名」だ。
タイトルと著者名と装丁が載って(乗って)本は本としてある。
作品名は著者が与える。
ペンネームでなければ著者名は本名であろうから、親から与えられる。
装丁は、イメージを掴みやすくすることを考慮に入れ、デザイナーに依頼して与えてもらう。
自身で装丁も手掛ける著者は装丁についても与えることになろうが。
与えられたことの結果として、対象に付いているシンボルであるところの「名」。

つけた名、つけられた名は、純粋な「そのものそれ自体」でしかない。
著者となった者がその名において作品を読まれるのは、その名を持つ人の実績の賜物である。
ざっくり言えば、2つの方面からそうなっているだろうことを忘れてはいけないと思う。
自身と作品をある種「商品化」することを受け入れた場合。
自身を作品に織り込んだ普遍的なテーマの普及、あるいは啓発に資する者と位置付けた場合。
一方は、他者の積極的な関与を許容しつつ名の広まりを能動的に強めるもの。
他方は、他者の関与に期待しつつ名の広まりの結果、受動的に根付くことを願うもの。
どちらにせよ、「名」に肉付けがなされて「そのものそれ自体」以上のものになる。

なぜこういう話かと言えば、広く知られた作家の本をあまり読まないからである。
それで十分に得るものがあるし、試しに読んでみて面白い。
当然と言えば当然かもしれない。
私自身の興味の方向に沿うか、未知との遭遇へ期待するのでハズレない。
名に期待せず、内容から名を高めるように読みたい。
これが基本的な読書スタンスである。


今回紹介する本は
原研哉著『白』(中央公論新社)
ここまで長々と前置きを書いておきながら、この著者のことを知っていて読んだ本である。
言い訳をさせて欲しい。
文筆家として知っていたのではなく、装丁を手掛けるデザイナーとして知っていたのだ。
作家・原田宗典の装丁を手掛ける人物。
そして、原田宗典作品中の登場人物・H君として知っていた。
特徴的な、何色と言っていいのか難しい色の装丁。
そこには確かに白を感じるが、濁っていると言うべきか、くすんでいると言うべきか。
含みのある白を感じ、そこには何が込められているのかと気になっていた。

さて、名を知っていて読んだこの本は、名を知っていても人を知らないことを知った本。
この記事は当初『本を読み人を知り、人を知り本を読む』として始めるつもりだった。
しかしながら、人を知らずただ名前とデザインを知っていたにすぎないと気づかされた。
多くの場合知るとは、人のことも名程度、物のことも名程度ではないかと思わされた。
このことはおそらく、知人友人の別に通じるような話。
それこそ「そのものそれ自体」以上にする肉づけ部分を知っているかどうかの話。
作中、著者はシンボルについて
たとえば、日の丸や十字架などの簡潔きわまりないシンボルは、何かの意味を担う限定的な記号というよりも、それに触れた人々が生み出す多様なイメージの全てを引き受け、受容する大きな空っぽの器のようなものだ。
と、まえがきに書いている。
ここで私と著者との間にある、似ていて異なる部分が明らかとなる。
私は外に肉付けし、盛っていく方向性で話してきた。目線が外を向いている。
著者は内に溜めて満たしていく方向性である。目線が内側に向いている。
この差を拡大していくと全く相いれないものになってしまう。
にもかかわらず、見ているものにそう大きな差があるわけではない。

私の場合、完全な理解を想定していない。
わかりやすく人体の話としてたとえる。
肉づけするための骨格があり、これを取り除くことはしない。
骨格が名であり「そのものそれ自体」。
肉付けしていくといつしか贅肉までつけてしまうことが多々ある。
人体であるならば、その個体として適正な範囲があろうが、皮下を肥大させることができる。
このように、人には欲がある以上終わりがなく完全はないだろうと思っている。

一方、著者の考えでは、完全も想定内にあるのだろうと読める。
イメージ全てを引き受けることのできる空っぽの器である。
私がイメージしたこの器はビンであって、口元までなみなみ満たすことができる。
枠内に納まりきるのであれば、たとえ満たされなくてもあふれることがない。
満たされないことで不満があっても、あふれ出ることがなく満たしきれるなら問題化しない。
現実的な理想と理想的な理想の相違であることが見えてくる。
理想を超えた分を戻そうとする立場と、理想を追い求める立場の違いでどちらも理想を描く。
認識・評価される対象として、余地(空)が設定されていることは重要だろう。
よって、理想的な理想を構想する著者は世間からも評価されるのだろう。

著者は、本来埋められる(満たせる)ことを「空(から)」としてキーワードにしている。
活字の黒は、文字の黒さではなく紙の白と一対になって黒い。日の丸が赤いのは、丸の赤さだけではなく地の白によって赤が輝くのだ。(中略)余白ならば白を内在させている。不在は存在を希求するために時として存在よりも強い存在感がある。
さらに、『満ちる可能性としての空白』と題された段落を設けている。
何もないということは、何かを受け入れることで満たされる可能性を持つということである。空っぽの器を負の意味に取らず、むしろ満ちるべき潜在力と見るところに、コミュニケーションの力学が動き出す。

続いて、言葉としての白についての説明。
古代に生まれた4つの色の形容語のひとつ「しろし」に由来する。しろしとは「いとしろし=いちじるし」であり、顕在性を表現している。純度の高い光、水の雫にたたえられる清澄さのようなもの、あるいは、勢いよく落ちる滝のような鮮烈な輝きを持つものなど、いちじるしきものの様相は、変転する世界の中にくっきりと浮かび上がる。そういうものに意識の焦点を合わせ、感覚の琴線を震わせる心象が「しろし」である。それを言葉で捕まえ、長い歴史の中でひとつの美意識として立ち上がってきた概念が「白」である。


以前から私が気にしていた、原田作品の装丁で使われる色についてのヒントが示される。
それは、『情報と生命の原像』と題された段落で見られる。
象形文字研究の第一人者、白川静博士によると、「白」という漢字は頭蓋骨の象形文字であるという。象形文字が発明された時代に人の心をとらえる白の印象は、野に放置され、風雨や陽光にさらされ漂白された頭蓋骨であったという。(中略)
白は生命の周辺にある。骨は死に接した白であるが、生に接する「乳」や「卵」も白い。授乳は動物にとって重要な営みであり、親の生命を子に渡していくような行為である。この乳が動物も人間も白い。その中には命を育む豊富な滋養が含まれているわけで、僕らが「乳白」と呼ぶ時の白には混濁した有機物のイメージがある。乳の味は「乳白」の味であり有機物の味である。
ここに至ってこの本を買って得た重要な意味を知った。
求め、そして、与えられる。
完全(ここでは「答え」)を求めても得られるものではない。
それは、与えるに際してもまた、与えきる(ここでは「答えきる」)ことができないから。
断言するということは強力な意味を持った行為である。
しかしながら、そこに留めおくという完全性を伴うものではない。
白い紙に文字を記す、ハンコで印を押すこと等は、留めおく不可逆性のシンボルである。
書いたものは残り、書いた人から出たものとして認識される。
また、紙は物理的な限界を示す。
枚挙にいとまがないとは言うものの、紙面の都合上省かれる情報があるのも確か。
ここに見えるものは選別と沈黙であり、まさに著者が作中で述べるところの「白」。
個人的興味に根差した疑問に、市場で頒布されたもので回答することができない事実を示す。
さらに、それが果たされることが適切かどうかにも疑問があろう。
この件を著者は2つの段落で述べている。
『発想は空白に宿る』

『独創的な問いに答は不要』
本を読むことで修練を積むことができるとすれば、それは想像力についてだと改めて思う。

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