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本って何なんだろう?そのためのヒント。

2016/01/09 18:01 投稿

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  • 情報
  • 文字
  • 書物は読者が育てる
  • 温故知新
読むということが、ずいぶん減っているように見える。
読むということを本に求めなければそうでもないだろうか?
雑誌やペーパー類でも文字を読むということに違いはない。
違いはないはずだが、はたしてそう言い切れるだろうか?
文字を追うことと、文字を読むことは違う。
本は、読まれるべく作られている。
だが、例えば、写真週刊誌等の雑誌は極論、文字で構成されなくてもいい。
写真を補完するために説明するのは必要不可欠ではなく、見たままの情報が残る。
この場合、説明文は追うだけで十分な物で、理解する類のものではないだろう。
必ずしも事実がそうであるかはわからないし、そうであってもかまわない。
そこにある魂胆が、意図的であるか恣意的であるかの違いがゆえに。

ところで、通勤途中でも、老若男女多くの場合、手にはスマホになっている。
わざわざのぞいて見ることもないけれど、電子書籍でもないようだ。
では、だからといって文字離れが進んだとは思わない。
より簡単に「情報」にふれることができるようになった。
即ちこれ、「文字」への接触機会はなおさら増していやしないか。
しかし待ってほしい。
情報としての文字に慣れすぎて、文章としての文字との距離はどうか。

情報は文字のみで伝えられるものではない。
現在、音声と映像による情報が臨場感を伴って即時提供される。
そんな中、文字のみで伝えられる情報は「味気ない」印象を与える。
そして、文字のみの情報の場合、ミスリードになりかねない文章も散見される。
ここで重要なのは何か?
1つ考えられることとして、文章力と読解力ではないか。
書き手の書く能力、読み手の読む能力。
書き手が、読み手の読解力の低さに付け込んで手を抜いてはいないか。
読み手が、書き手の伝達力の低さに惑わされて鵜呑みにしてはいないか。
一方的に提供される視覚・聴覚へ訴える情報。
近づきたくなくても、すぐそこに情報があふれている現在。
いつから情報の価値が高まり、そして、質が損なわれ続けているのか。
高度情報化される以前、人が本から情報を得ようとした頃の話。
本の変容は、江戸時代にすでに始まっていた。


今回紹介する本は
橋口候之介『江戸の本屋と本づくり』(平凡社ライブラリー)
まえがきで著者は次のように書いている。
たくさんの発見や疑問をつきつめていくと、日本人はどうして本にこだわってきたのだろうか、という問題に行きあたる。(中略)今日の出版文化の基礎をつくった和本の豊穣で奥行きのある様を、(中略)具体的に様相を語らなければならない。人びとのどのような意識のもとで和本は広がったのか、ということを知る必要があると思った。それは日本人が書物とどうつきあってきたのか、どのように考えてきたのか、ということに行きつく。「本とは何か」という、もうひとつ大きな問いへの解答にもつながるはずである。

この本は、全体としての構成がよく、統計を用いての実証的なデータも豊富である。
著者が古本を多く取り扱う専門家であり、掲載の写真がすべて実物である点も魅力。
1冊読み終えたならば、「本とは何か」が見つかるはずである。
さらに、「どこから本でどこまで本か」という新たな疑問を抱くかもしれない。

ここからは、ポイントを書いていこう。
まず、本を扱う本屋が今とは大きく意味合いを異にする。
今風に言えば、自社出版し、販売し、買取し、古本販売し、自費出版を請け負う。
これらすべてを1つの店それぞれで行っていた。
もちろん、専門化して1部門だけを行うものもあったが。

出版に際して、当時、開板といって出版することの意味を明確に定義している。
古来より無之書物新板ニ彫立申
古来より無二の書物を新たに板木に彫ることである。と、読む。
これが出版の心意気であるといえよう。

本屋は、商売であるがゆえに、売れる本を出さなければならなかった。
けれども、それだけにとどまらなかった。
融通が利いたといえばいいだろうか。
本を出したい個人の思いもくんでいた。
とは言え、出したい人の率直な言葉も残っている。
『南総里見八犬伝』の曲亭馬琴の言に
「とかく、おのれ1人おもしろがりてハ売物にならず」
がある。

本を出したい人の欲とは、「教えたい」、「伝えたい」、「広めたい」。
本を読みたい人の欲とは、「知りたい」、「読みたい」、「集めたい」。
本屋はこの双方の欲を本を「世に出す」ことで叶えた。
機能的な文化があったといえよう。

本はめぐる物だった。
古本の文化が豊かだったのは、資源的・金銭的な制約も大きい。
紙が貴重で高価だったことが本文中でデータをもとに説明される。
だが、このことがかえって「本」を「本」たらしめていた。
古本には書き入れがあるという。
このことをして著者は、書物は読者が育てる」と言う。
つらつらと文字だけが並ぶ原文はなかなか読みにくいものだが、多くはこうだった。
これに句読点を入れて読みやすくするのが初歩的な書き入れ。
読みを習う初学のことを「句読を授かる」とも言ったとある。
いざ読めるようになっても意味が解らないこともある。
誤字脱字の訂正や、引用の誤りなどを正す校合(キョウゴウ)が重要であった。
さらに、注釈を加えることで内容の理解が進む。
読むための「情報」を読む者たちで「共有」できた。
感心するのは、和本のつくりそのものである。
どんな本もわざと本文の上に余白をとり、そこを頭とか首とかいい(かしら)と呼んだ。
注をそこに書き入れることを頭書き、首書きとして、(かしらがき)といった。
最初から1人の手に留まるのではなく、後続の読者のことまで考慮されていた。

読者が後続の読者のためにしていた書き入れは有意義であった。
ところが、次第に本屋がサービスで頭部分に本文と無関係な絵などを入れ始める。
現代の本が試すさまざまなアイデアのほとんどは、すでに江戸時代にあったことになる。
良かれと思ったことが度を越えてしまうと、かえって余計なお世話になる。
飾りが多いと本質から遠ざかるというわけだ。


現在の私の読書習慣からするとうらやましく思える。
古本屋で本を買うこともあるが、その数は多くない。
書き入れなどはないし、新品でも大量生産され殊更に高価ということもない。
「自分の本」として所有物になり、いずれめぐる占有物としての意識は低い。
すすんで自分から「本を育てる」意識をもたないと読みこなせない事態が起こってくる。
1冊の本を介して他者との交流をはかることができた和本。
温故知新。
「本とは何か」を考えるヒントに素晴らしい「本」である。

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