いつか君だけの優しい世界。

本1冊の評価は全体?部分?それ以外?

2016/01/17 00:20 投稿

  • タグ:
  • 読書
  • 娯楽
  • 知識
  • 流れ
  • 温故知新
当然のことながらジャンルにもよるだろう。
物語なら世界観に馴染めずに読み終えられないこともあろう。
その個々の事情についてはひとまずおいておく。
私は、貧乏性もあって、読み始めた本は読み終えることにしている。
これについても何冊か例外があるので、詳細は他の機会にゆずる。

一度読んで解ろうはずがないものであっても、とにかく読み終える。
哲学書なども読む。
そして読後感を持つ。
このことに本を読むことの1つの意義があると考えている。
極論「なるほど、わからん」で構わないだろう。
それで終わるかどうかで違いが出てくる。
本を多く読むから賢いということも、その逆もまたない。
生きていくのに必要なことがすべて、本に書いてあるわけではない。
事実、娯楽のための本も多くある。
その「娯楽」の範囲設定が重要。
娯楽とは、端的に表現すると「楽しませること」を目的とした行動や活動。
つまり、本に限らず出版物は「楽しみを与える」目的で世に出されていると捉える。
それを享受する行動の一つとして読書があると位置付けてみる。

文字を読み進めるという、自発的で能動的な行動でしか読書はなされない。
内容や読ませ方のちょっとした刺激として「知識」があるのだろう。
知識欲は、以前流行ったTV番組『トリビア』でも伝えられ、聞いたことがあるだろう。
すべて人間は生まれながらにして知ることを欲する。
アリストテレスの言葉である。
どうももう少し長い言葉のようで、
すべて人間は、知ることを楽しむことを求めることが本性なり。彼らが見聞を好むのは、その象徴なり。実際の役に立たなくとも、見聞はただ見聞として愛好されるからなり。すべて人間は生まれながらにして知ることを欲する。
と、なるようだ。
こちらの言葉の方が本文中の「知る」が習う・覚える・学ぶだけを示さないことがわかる。
雑学や豆知識として「へぇ」と思えればそれで充分。
知らないことが1つ減り、知っていることが1つ増えた。
これを楽しみ、良かったと思えれば幸せになれるかもしれない。
読書が「娯楽」になりうる可能性がここにあるように思う。


今回紹介する本はこちら。
串田孫一著『考えることについて』(徳間文庫カレッジ)
著者は、詩人、哲学者、随筆家である。
当記事のタイトル回収をここで行うと、この本は「部分」によって好い。
1冊の本の中、自分にとって最も衝撃や影響を感じた部分でこの本は評価できる。

好いと思えた部分の最たるものを引用する。
それは、『知ることについて』の題がある文章中に出てくる。
「(前略)、一人の可憐な小学生が(中略)、何か小指の先ほどの植物を探してきて、『先生これ何ですか』と訊いた時、『これは松』といいながら、その子の頭へ片手を載せられた時の、あの温顔の美しさを僕は忘れない」私はこの一節が非常に好きなのです。がそこには、知るということ、そのための人間同志に通う暖かいものが感じられます。
この部分は、著者串田孫一さんが文中で引用し、述べている部分でもある。
詩人の尾崎喜八さんが、植物学者・牧野富太郎氏を囲む同好会で採集に行った時のことを書いた文章を引いている。
次の引用も『知ることについて』中で述べられる。
自分の知らないことでも、もう誰かは必ず知っている、もっと手取り早いいい方をすれば、大概のことは本に書いてあると思ってしまって、特に知ろうとしないのです。
これは、思い当たる節がある。
例えば、素朴な疑問をネットを使って調べると既に質問されていて、回答がなされている。
自分が思いつくような、疑問に思うようなことはスタンダードな道なのだと思う。
そしてまた、自分がそのことを知ったところで何になるのか?と、知識から距離をとる。
突発的な知的好奇心は、答えが提示されると満たされ、当初の熱を持続するのが難しい。
続いて引用する部分も同じく『知ることについて』中で述べられている。
これだけのことを知っていないと笑われるとか、現代人としての常識に欠けているといわれそうな、ただそのために知るのであれば、外部からの強制的な力によって知ることを努力しているに過ぎません。そういう人は自分はどうでもよいのです。笑われる、馬鹿にされるという理由だけで動いているのです。それでも全くの無関心な状態に比べればいいんでしょうけれども、しかしそうして知識を得る時には喜びはなくてむしろ苦しみがあるばかりだと思います。それよりももっと恐ろしいことは、知っている振りをするために、なるべく苦労の少ない手段を選んで、知ったふりをするために必要な知識だけを手許、口先へ用意しておこうという態度です。
これには非常にギクリとさせられ、反省させられた。
そして、それだけにとどまらなかった。
では、自分の知識が「ふり」でなくなる状態とはいかな時であるのか?
さらにまた、現代における賢さとはどうあるものなのか?
疑問を抱かせられるのは、好いことだと思う。
解決の糸口を探るため次の本へ、次の機会へと続くから。

この本は、1979年刊行された旺文社文庫を底本にしている。
そして、上で引用した『知ることについて』は1954年頃の作品である。
言ってしまえば「古い」が、現状に対して無効であるとは思えない。
むしろ、引用した最後の部分は「今」をこそ如実に表していやしないか。
この点に恐ろしさを感じる。
今書かれた今の本ではない。
60年以上、実に半世紀以上前に、警鐘を鳴らすべきと考えられた事態。
「何だ、昔も今と変わらないじゃないか」とも読める。
「蓄積の結果が今だ」とも読める。
私はその合間を感じたのだと思う。
「流れ」を断ち切れずにここまで来たのだ、と。

教えを乞う者が、教わり、習い、考え、思うこと。
教えを授ける者が、教え、育て、指し、導くこと。
この循環の中に「暖かさ」を忘れてきたのではないか。
多くを覚えることを良しとされ、試され、見直された。
教えられること以外を知ること、思うことに意味を見いだせない。
そこには、「今」で手いっぱいになった時代を、透かし見ることができるかもしれない。

44篇の「○○について」が詰まった本。
読むことから広がる世界があることを想える本である。
興味を持たれたら一読をおすすめしたい。

コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事