1968年5月8日、午前1時。
オレは渋谷区松濤二丁目に今もあるセントラル病院で生まれた。
ちなみにこのセントラル病院は、ウルトラセブンの第38話「勇気ある戦い」(1968年6月23日放送)に登場したことがあるらしい。
オレの母もまさに「勇気ある戦い」をしてくれた。
なんてたって予定日よりも二ヶ月以上も早い出産だったんだよね。
未熟児でしかも「横位」なの。
知ってる?「横位」。「よこい」じゃなくて「おうい」って読むんだけど、「逆子」ってあるじゃん?羊水の中で赤ちゃんの頭が上になった状態のことなんだけど、「横位」は頭が横向きになった状態のこと。
「横位」は出産後期までに治る場合が多くて、最終的に「横位」のまま出産するのは全体の約0.3~0.4%とかなり低いはずなんだ。
なんだけどオレはその「横位」で産まれた。
だから母体も危険なくらいの難産だった。
調べたら「横位」での自然分娩では、母体の死亡率が2%、赤ちゃんの死亡率は37%と高いらしいって、これを書きながらオレは、この世に生を受けたことをとても感謝している。
そう。母は深夜たった一人で「勇気ある戦い」をしてオレを産んでくれた。
本当にありがとう。
お礼したついでにって言うのも変だけど、もう少し母のことを書いてもいいかな?
母は岐阜県出身なんだけど、今では田舎暮らしのニーズっていうのも高まっているみたいだから、自ら望んで田舎に移住をする人も増えているんだろうけど、母は岐阜県にある小さな田舎町で、何をするにも選択の幅が少ない状況が嫌で嫌で仕方なかったんだと思う。
なんかね「私は地元じゃ物足りなかった。当時は何をしたいかはなんてわかってなかったけど、『このままじゃダメだ』って。それだけはあったのね」みたいなことを言ってたような気がする。
それで20代で一念発起して上京、まず住んだのが「自由ヶ丘」なんだけど、やっぱり「“自由”の“丘“」だからね。そのハイカラな響きに魅了されたんじゃない?
あと名は体を表すって言うけど、第二次世界大戦中に地名改正を勧告されて。でも住民達は同意せず「自由ヶ丘」って名前を守ったんだって。やっぱり自由の街に住んでいる人は、自由の意味を知っていたんじゃないのかな。
母は自由が丘で自由になってから、銀座の高級クラブでホステスになるんだよね。今は銀座も変わっちゃって高級クラブが少なくなってきてて気軽に安く飲める店が増えてるみたいなんだけど、母の時代なんて、「銀座はホステスはもちろん、客もプロの街」って感じだったんだよ。客のプロってのはどういう人かっていうと、「遊びなれている、粋な人」ってことね。
母がね「ホステスはいろんなことを勉強してお客さんの話についていかなきゃいけなかった」って言ってた。こういうのを聞くとやっぱり職業に貴賎なしだよね。どんな仕事でもプロっていうのはカッコイイよ。
それで母はそのクラブである男性と運命的な出逢いを果たすことになる。そう。オレの父親になる人とね。
父は大正生まれで、代々陸軍の家系だったらしい。士官学校を出て20歳で満州に渡って、終戦後、シベリアで4年間の抑留生活を送った。この頃の捕虜体験を幼いオレに子守唄のようにおもしろおかしく語ってくれたのを今でも憶えてる。
今年は終戦から70年。当時、日本人およそ65万人は、捕虜としてシベリアなどのソ連各地の収容所に抑留、つまり強制労働を課せられたんだよ。寒い日には零下 40度を越える凍てつく真っ白な地獄。父はおもしろおかしく語ってくれたけど、きっと想像を絶する生活だったと思う。
そんな父なんだけど、じつは母と運命的な出逢いを果たしたときにはすでに妻子がいた。いわゆる不倫愛というやつ。そういう関係だった。だからオレは若いやつらに「不倫、ダメ、ゼッタイ」なんて言えない。微妙だけど。だって父と母が許されぬ愛の底なし沼にハマってくれなかったら、オレは誕生していないんだからね。
そんなわけで父はオレを認知してくれなかった。当然、一緒に暮らすこともなかったけど、生活費の援助もしてくれたし、よく会いには来てくれたんだ。
小学校のときかな?名簿を見たときにオレのところだけ父親の名前の欄が空白なんだよね。だから母に聞いてみた。「うちにはお父さんがいるのに、なんで名前が載ってないの?」って。そしたらさ、小学生相手に誤魔化したり隠したりもしないで「お父さんは他に家があるの。でも、あなたのことは息子としてとても大事に思っているから父親ということに変わりはないのよ」って教えてくれたんだ。もちろん理解はできなかったと思うよ。でもね子どもながらにそれ以上聞いちゃダメだってことはわかったんだ。
だからねオレ、父の前では良い子を演じていたんじゃないかなって思うんだよね。母も独り占めしていないのに、自分が父を独り占めしようとするのは違うと思っていたんだよね。それが各務家の暗黙のルールだった。
ま、こうしてシングルマザーとして一人でオレを育てることを決意した母なんだけど、精神的にはもちろん、経済的にも、物理的にも不安だらけだったと思う。オレも必ずしも良い子じゃなかったし。でも母は笑って「それは大変なこともあったけど、とっても素敵なことだってあった。地獄だって思ったこともあったけど、けして不幸ではなかったわ」なんて言ってくれるんだ。ほんと、ありがたいね。
かくして各務貢太は誕生した。
母が33歳。父は45歳だった。
ちなみに「各務」は母方の性。「貢太」の名前の由来はよく知らないんだよね。
ただ父の家には息子が二人いて。二番目が「貢二(こうじ)」なんだよね。でも貢二くんはオレより年上なの。不思議だよね。だからなんて「貢太」にしたのかはわからない。あ、「貢」がつくおじいちゃんでもいたのかな?「貢造さん」とか。
でも自分なりには「世の中に太く貢献したい」と思って生きている。誰だ?「太く貢がせるじゃないの?」なんて言ってるのは。ホストじゃないんで。
でも子供の頃は、「世の中に太く貢献したい」どころか、大人になれるなんて思いもしなかったんだよね。だってさ、未熟児で産まれたこともあって、小さい頃は虚弱体質だったんだよ、入退院を繰り返すくらいの。信じられないよね?それも書く?長くなるよ?
じゃ、今日はここまでにしよう。次回は「死を覚悟していた子供の頃」について書くよ。どうもありがとう。
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