ナッキー(ケーシー高峰)の屁理屈。

人生訓:「相手の言葉は軽く、自分の言葉は重く考えよ」

2016/01/17 20:49 投稿

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「言語感覚」

割と人生の悩みの大半は、この概念を紐解くだけで解決するのではないか、そんな気がしている。というかこの概念、恩師の受け売りである。

初っ端から解りやすい例えを出そう。

「死ね!」

この言葉は、相手を精神的に殺す暴力にもなるし、関係を和ませるジョークにもなる。こう言えばある程度の方はご理解頂けるだろう。

私の母は芸人の「ダウンタウン」が嫌いだった。聴いたら「言葉が暴力的」だからだという。
だが私はど真ん中のダウンタウン世代で、特に彼らの言葉に暴力性を感じた事はなかった。寧ろ初期のダウンタウンはまだ芸能界の頂点にもいなかったので、目上の芸能人に食って掛かる彼らの言葉は痛快ですらあった。笑いという名のもとに縦社会的な関係性をぶった切ってしまう気持ちよさ、それが私にとってのダウンタウンの面白さだったのだが、そんな感覚は前述の通り母には通用しなかったのである。(だがその後彼らの存在に慣れたのは毛嫌いする事は無くなった)

浜ちゃんに限った事ではないが、「死ね!」は一つのツッコミ言葉としてよく利用される。
だが言わずもがな、文脈が伝わらなければこの言葉はただの罵詈雑言でしかなく、ユーモアの欠片も存在しない言葉に成り下がるのだ。

この「文脈」という概念、これこそがあらゆるコミュニケーションを円滑もするし、またややこしくもする。社会で生きていく上において、文脈誘導をうまく行える人と行えない人では、降りかかってくる人生のリスクが大きく変わってくる。

端的に言えばうまく行えない人は、誤解されやすい。自分のあずかり知らないところで勝手に自分の言葉が誤解され、勝手に一方的に嫌われたまま、最悪の場合悪評まで流されてどんどん自分の印象度が悪くされていく。知らない所で広まっていくので対応するのも難しい。全く持って厄介な状況になってしまう。

だからこそ、自分が放つ言葉に対し、私達は重く考える必要があるのだ。

だがしかし、こんな事を言っておいてなんだが、だからこそ相手の言葉を重く受け止める必要は必ずしも無い、とも言えるのだ。そもそも言語感覚が同じ人間などそうそういない筈なのだから。

特に気をつけるべき悪魔の囁きは「❍❍さんがそう言っていた」という又聞きの情報である。

又聞きの情報は構造を考えれば一目瞭然、話し手、聞き手の間に、もう1人ないしそれ以上の人間が介在している。そう、複数の人間の言語感覚フィルターを通してしまっている可能性があるという事だ。

最終的に私はそういった言葉での疑問は「当事者間で話し合え」しか答えは導き出せないものだと思っている。理由は言わずもがなだろうが、「話した言葉の文脈は当人しか知り得ない」からだ。それは赤の他人だろうが、血縁者だろうが同じだ。関係値が近ければ誤解が生まれないのなら、身内間で揉め事なんて起きないという事になるが、どこの世界でも人間は揉め事を起こすのだ。

という事で、自らの言葉は、誤解を生まぬように重く、相手の言葉は誤解が生じるものだと前提に考え、まずは軽く受け止める。それがより良い人生を生きるコツ、なのかもしれない。





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