Apocalypse ~かにぱん黙示録ぶろまが編 蟹禍(かにまが)~

【コラム】ものづくりについて

2013/06/05 13:00 投稿

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  • かにぱん。

この記事のタグは「哲学」に設定してみました!!
(多分流行ってないタグだと思うが)


さて、最近よく考えていることがあります。
表題にある通り「ものづくりについて」なのですが、それを何かわかりやすいたとえ話で
表現できないかな、ということです。
その「ものづくり」の対象となる「もの」というのは、文化的な作品を想定しています。
小説であったり、音楽であったり、絵であったり、漫画であったり、映画・ドラマであったり…です。


そこで、ひとつ思いついたのが、植物やガーデニングに喩えてみるというものです。

「作品」や「完成」は、作物が実って熟したり、観賞用であれば花が咲いた状態と仮定します。
そしてそこまでの道のりや環境を当てはめて考えてみると、
まず、「物を作りたい」という気持ちが「種子」で、
感受性や蓄えられた知識、基本のアイデア、モチベーションなどが「土壌」とその質であり、
インスピレーションや新しい知識や刺激をインプットすることが「水」や「光」や「肥料」かもしれません。
つまり土壌を豊かにして、種子に栄養を与えるもの、ということです。
最終的には、出来上がった作物ないしは花を、自分の農園や花壇から
市場や花屋に並べたり、観賞用として公開する、またはそのまま個人的に持っておくとする
という形に分岐するでしょう。
いずれにしても、こういったものを作り終えるまでには、土壌が痩せないことが大切になってきますし、
実際のところ、成長を遅らせたり、枯らせてしまったりする人の方が多いのかもしれません。
そもそも育てることを諦めてただ持っているだけという人もいるでしょう。

「種子」について考えてみましょう。
これは一体どこからどのように手に入れるのかと申しますと、人によって異なりますし、
本当の起源は辿れません。
タマゴとニワトリはどっちが先に出来たの? という話に似ていて、
この種子も、人によっては、自分がそれを手にしたときのキッカケや
場面を明確に言えるかもしれませんが、
「いつのまにか持っていた」という人の方が多く、仮に頑張って頑張って自分の歴史を遡っていけば
「あーあの作品に出会ったからかもしれないな」と思うかもしれません。
が、そのキッカケとなったある作品を作った人はどこから種を手に入れて…と、
ずーっとルーツを辿っていくとどこかで遡れなくなります。
多分ギリシャ悲劇とか古事記、日本書紀とかまで遡ったらその向こうは見えない、
というような話になります。
なので、大抵の人は、根源的な話をすれば「どこからともなく種を手に入れた」
という感覚でいると思いますし、
ある一定ラインより過去へは遡って話せないことなので、
必要性を感じなければ大元を探ってもそこまでは意味がないことです。
何があって、という訳ではなく物心ついたときにはもうあった、としか言えない人もいるかもしれません。


さて、「種子」を手に入れたとします。
これは、漠然と「作りたい」という気持ちでしかないので、ただそれを持ち続けてはいるものの、
「育てる」ことは出来ないという人もいます。
それは育て方のノウハウを持たないからであったり、土壌が豊かでない、
肥料や水が不足しているなど、様々な理由によるものでしょう。
そもそも、本当に完全なるオリジナルを作るというのは、何の媒体にしても難しい時代です。
人間の歴史もそう短くはないので(宇宙規模で見れば短いものですが)、
「どこかで見たようなもの」が出来上がるのは仕方がないのです。

音楽にしろ、物語にしろ、絵にしろ、自分が初めて思いついたつもりでいても
よくよく調べてみると、過去のどこかしらに既に「地球上で最初のアイデア」としての
既存の作品を見つけてしまうことになるでしょう。
ですので、「種子」のオリジナリティというものはあまり重要ではありません。
むしろ「品種」を見定めてあげた方が良いかもしれません。

というのは、もしかすると「種子」を手に入れた段階である程度の、
過去から連なる性質等をその「種子」が持っていて、
それに相性の良い肥料や育て方をすることで、早く、よく育つということもあるかもしれないからですね。
例えば、バラとチューリップとラベンダーはそれぞれ植物としての性質や育て方が異なります。
この「ものづくり」における「種子」にもそういうことがあるのかもしれません。

そう考えると、何か漠然と、なんでもいいからオリジナルを作ってみたい! と思うよりは、
興味のあるものの情報を出来るだけ栄養として与えてみて、相性の良さや育て方を計って行く方が、
育ちは早いのかもしれません。
それは具体的には、パロディやオマージュ、二次創作というものかもしれません。

まぁ、それはこのくらいで一回置いておいて、ものづくり全体の喩えに戻ります。

「種子」を持っていても、作物として熟すまで、または花が綺麗な花を咲かせるまで育てるのは
誰にとっても困難なことです。
ですから、一部の人間にしか出来ないことだと思われています。
確かに、ある意味では、意思や自主性などを、しっかりと自分自身に対して
介在・干渉させられる以前の、未発達で幼いときに、感受性(土壌)などは育てられていくので、
その時点でそのように育てられなかった場合、
後になってから土壌を豊かにするのは困難だということは考えられます。
すると、何かの拍子に種子を手に入れても、自分には育てられないと早々に
諦めてしまうことになるでしょう。

その場合は、他の人が作った作物や花を消費する立場をとっていくことになると思います。
ただ、ある意味残念なことは、消費する側だとしても、土壌が豊かな方が作物を
より美味しく感じられたり、
花を美しく感じられたりということもあるということです。
そうであれば、おのずと、自分も美味しいもの、美しいものを育ててみたい! 
と思いもするでしょうが、
そこで実際にその行動に移すかどうかはまた別の話なのです。
ですから消費する人の中においても、種子を持つか持たないかは別にして、
土壌は豊かな方がより深くその作物や花を楽しめるということではあるのでしょうね。
けれど、実際は、土壌が豊かでないから消費オンリーの側に落ち着くというパターンが
多いのかもしれません。


このまま、喩えを用いて、少し別の話をします。

日本ではなんでもかんでも「ガラパゴス化」する傾向がありますが、まず言語がそうであり、
そもそも国家が島国でありますから、致し方ないのだろうか、と思いもします。
けれど、今、日本は、国際社会の一員ですし、沢山の借金を抱えています。
不況を誰しも実感しているでしょう。
そこで、今テーマ・課題・目標になっているのは、「コンテンツ産業・文化」の輸出だと思うのです。
つまり、他国からのそれに向けての需要を増やすことです。

家電や自動車の部門でも、日本は信頼されたメーカーが多く輸出のシェアも確かに
それなりにあると思うのですが、それ以外の産業に関わっている人、
特にこの記事においては、コンテンツ産業がもっと輸出の
需要を上げていった方がいいのではないか、ということが政治的にも考えられているのです。
ものをつくるというのは、何も家電や自動車だけではありませんから。
それに、文化的な作品というのは、特異性があるから需要が高まるという側面も持っています。
同時に普遍性も必要であったりします。
勿論、排他的になりすぎると逆の結果になってしまうので、ここでも「ガラパゴス化」との
バランスは大切かもしれませんね。
けれど、日本にしかない「作物」「花」を輸出する、世界へ薦めて行くことが
これからの日本の課題になっていると考えてみてください。


教育現場や、多くの会社においては、協調性や他者と同じであることが強く推奨される社会です。
けれど、それは、かつての農村・狩猟・自給自足時代であればこそ、
皆が同じように畑を耕す、稲を植えるという作業の均一化が求められたのであって、
これが不思議なことに、今たとえ話をしている「ものづくり」とは
同じ部分と全然違う部分があるわけですね。
農業とここまで書いてきた「ものづくり」の喩え話は、どちらも作物作りなのに、
文化的な作品を作るならば、需要が高まるのは「量産体制」ではなく
特異性のほうなのではないかと思うのです。
変わった品種の作物を作ることで需要が高まるのです。
今は職業も農業以外に幅広く選択の自由が保障されています。
均一化が正義である時代は多分終わりましたが、名残が強く残っているように感じます。

まず、算数のように、誰が演算しても同じ答えになる学問と、美術・図画工作などの学問を
同じような価値観・枠に当てはめて行ってはいけないのではないでしょうか。
後者には均一化はあまり必要がないように思います。
つまりそれは「量産体制」であると同時に、種子を奪う、
土壌を痩せさせる結果にすらなりかねません。


どういうことかというと、美術等の文化を学んだり、自分を表現する音楽のような学問において、
上手いか下手か、写実的かそうでないか、というような二元論を続けておりますと、
「ヘタなやつはやるな」「ヘタだからもうやりたくない」という意識の方が強く根付いてしまいます。
見たまま、聞いたままをなぞれることが優秀であるというのは、
数学のような学問であればそうかもしれませんが、
数学などの科目でできることは、どんどん機械に取って代わられて行っている時代です。
確かにある程度、素地は整えた方が良いでしょう。
けれど、機械の演算で作れないものを作るのが美術・音楽等の「ものづくり」科目なのですから、
数学と同じ目線で評価してはいけないと思います。
また、そういった目線でだけしか作品評価を出来ない子供は、その後文化を心行くまで
愉しめないでしょう。
これが「種子」を殺すこと、「土壌」を痩せさせることそのものです。
数学のような学問が不要だという話ではありませんよ。

私が歌をよく唄うので、喩えとしては、歌を聴いて上手いか下手かの感想か、
元の曲に似ているかどうかの感想しかない、という風に置き換えたら
わかりやすいのかもしれませんが決してそれだけではありませんし、
私の動画についてが記事の趣旨ではありませんし、別にこの際、私自身のことはいいのです。
では、絵に置き換えてみましょう。
風景や静物画を描いたとします。
写真のようであればあるほど評価が高いということがあります。
その方が「上手い」という先入観があり、そういう意識が共有されているからです。
勿論それ以外の部分にも目を向けられる人だっています。しかしそれは少数ですね。

けれど、写真はカメラを使えばできます。
そして、本当に写真のようにリアルに絵を描くということを売りにしている
イラストレーターの方だっていますが、その方々には、
それだけではないなんらかの強いこだわりがあることがほとんどです。
だからそれを生業に出来ているのです。
けれど、見ている方がそれに目を向けてくれないわけですね。
「写真のようで上手いですね」という感想のみを抱くわけです。
でも実際は、それ以外の果てしないこだわりと労力が費やされています。
また、本当にただ写真のようでしかなかったら生業に出来ないという現実もあるのでしょう。

こういうことが、ミクロなレベルで問題なのではなく、大きな目で見ると、
日本のコンテンツ産業が輸出へ向けて世界へ羽ばたいていく前に、
国内で作家や作品を潰しているように思えてしまうのです。
杞憂だといいのですが、上手くなくても、独特であるとか、そういうことに目を向けられる
心の「土壌」というのも必要なのかなと思うのです。
でなければ「上手くてちょっと変わった人」のうちのごく一部の、
「ちょっと変わったことはほどほどに抑えて大衆ウケを狙える人」しか成功しません。
勿論産業としてそれで間違いはないかもしれません。
どうせパイは多くないので、一部に偏ることはある程度否めないでしょう。

結局、現状だと、上手いか下手かのような二元論の中で、たまたま最初上手かった人だけが、
後々上手くて変わったことをしたとします。
そしてその中から運良くちゃんと幅広い評価を受ける人が出てきます。
これは何重にも楽しめて、輸出価値のあるものになりそうです。
けれど、そんな上手くて変わった人のうち大半は、上手いというところだけが
ピックアップされるか、変わったことをしたことが評価対象にならずに萎んでいきます。

また、始め「上手い」とされなかった人が、人から「上手くないからやるな」というノイズを
聞かされ続けながらでも、何かつくり続け、そのうちには、
やはりこちらも上手くて変わったことを出来るようになったとします。
……多分、大抵、結果は同じのように思います。
パイが限られているからという話だけでは済まないのではないでしょうか。
なぜなら、これからは日本の中でだけパイを奪い合う話でなくて、
国民と国は協力して、海外のパイをとりにいかなければならないので、
国内で潰しあっている場合ではないのです。
数少ない成功者を、僻みややっかみで蹴落として、市場や花壇を
踏み荒らしている場合でもないのです。


つまり、消費者側の評価基準にも幅を持たせた方が、文化は良い意味で独自性や特異性を
羽ばたかせていけたり、輸出にも弾みがつくのではないかと思うのです。
けれど実際は、そういう次元に達していないのかな、という場面を見てしまったりもします。
海外には日本の文化が好きだというかたが沢山いることは、昔からじんわり感じていましたが、
インターネットを介して、よりひしひしと身に沁みるようになりました。
(上手くないかもしれないが)こんな変わった人もいるんだぜ! と
胸を張る気持ちを持つのも悪くないのではないでしょうか。
それは引いては国益に繋がって行くという局面にいると思います。


そして、「種子」を持っている人は、それをとにかく大事にしていただきたいと強く願います。
いつ作物として熟すか、花が咲くかは自分自身によるところもありますが、
実際は本当にわかりません。
突然ハッと閃いた様に、めきめき育つこともあれば、何十年もかけてようやく咲くような
大樹の種もあるのでしょう。
また、それがもし作物ないしは、花に成ったのであれば、堂々と人前に出して欲しいと私は思います。

例えば、かつて私がニコ生でやっていた「描いてうろ絵り~な♪」という企画では、
上手下手は評価基準として扱いませんでした。

確かに、画力の差は見ればわかります。
けれど、誰だって絵を描いていいし、人に見せて良いし、描くことが好きで、
自分の中に「種子」を持っているなら尚更、何枚でも描くべきです。
それは必ず栄養・養分になるからです。
なのでまずは「描き終えた」ということを評価できます。

しかも、「うろ絵」の面白いところはやはり、画力で見せるのではなく、
自分の覚えている限りのどの部分を伝えたいかということと、アイデア・発想力などですから、
仮に画力が高くなくてもなんらかの「ここを評価できる」という点を見つけながら楽しむことができます。
そして視聴者の皆さんにも、そういうことを楽しんでもらおうと思ってやってきました。
参加してみて自分の中に「種」を見つけた人もいたかもしれません。
それが再発見だったという人も現にいました。
「種」を持っている人にはそれを育てて欲しいし、それを育てないのであればせめて
豊かな「土壌」で以って他者の作り出した作物や花を愛でてあげて欲しいという気持ちです。
買ってきた野菜や、観葉植物を大事にしましょう、と。


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