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@kamigami_keshin)にて連載中の小説『神神化身』アーカイブです。
小説『神神化身』振り返り企画
『かみしんベストセレクション』~第一部~
斜線堂有紀が描く「カミ」と青年たちの幻想奇譚。
完結済みの第一部より入門にオススメのエピソードをお届けいたします。
小説『神神化身』、まずはここから!
■第五話
「浪磯のなんでもない日常」(前編)
■第六話
「浪磯のなんでもない日常」(後編)
「浪磯のなんでもない日常」
浪磯(ろういそ)の海を見ていると、何かを忘れているような気持ちになる。砂浜を歩いていて、自分一人の足跡しか付いていないことを不思議に思い、波打ち際に書かれた大切な砂文字が、振り返る度に消えている気がする。けれど、こんなものは錯覚だ。この砂浜には三言(みこと)以外誰もいない。
朝のランニングを始めてから一年になるが、この妙な感覚は消えない。それどころかどんどん強くなってきている。それはこの美し過ぎる海の所為なのか、三人で遊んだ記憶を後生大事に抱えている所為なのか。
六原(むつはら)三言はこの海と町が好きだ。しばらく波の音を聞きながら立ち止まる。三言が住み込みで働く『全力食堂リストランテ浪磯』は毎朝八時に開店する。腕時計を確認すると、まだ五時半を過ぎたところだった。もう少しだけこの海を眺めていよう、と三言は思う。
汗を流してから戻ると、店内に備え付けられたテレビに遠流が映っていた。スタジオに招かれた遠流は優しげな微笑を浮かべている。
『本日のおはモニには、初主演映画「運命の恋、なんていわない。」が公開されたばかりのあの人気アイドルの方が来てくれています!』
『おはモニテレビをご覧のみなさん、おはようございます。八谷戸遠流(やつやど・とおる)です。こんな朝早くに見てくれてありがとう』
『本日は映画の見所は勿論、国民の王子様として私達を魅了してやまない彼の素顔に迫ります!』
幼なじみの八谷戸遠流は、高校に上がると同時にアイドルとして活動し始めた。三言にも、もう一人の幼なじみである九条比鷺にも何も言わないまま、浪磯を飛び出していってしまったのだ。それから一年が経った今、遠流は人気絶頂の若手トップアイドルとして脚光を浴びている。
元から遠流は浪磯でも美男子として有名だった。立っているだけで華があるし、一度見たら忘れられないような瞳の引力がある。だから、当然のように有名になっていく遠流を見て、何だか誇らしい。何も相談されなかったことも、会えなくなってしまったことも寂しいが、こうしてテレビで遠流の姿を見られるようになったことで、少しだけ寂しさが和らいだ。
このまま遠流がどんどん有名になっていけば、もっと寂しくなくなるだろう。もしかしたら、全国でライブをすることになって、会場でアイドルとして歌う遠流を見られるかもしれない。
その時、テレビの中の遠流と、ふと目が合ったような気がした。テレビの中の人間と目が合うというのも変だけれど、遠流が前のように三言の方を見てくれたような気がして、更に嬉しくなった。今日は良い日だ。
けれど、三言の知っている遠流はこんなに頑張り屋さんではなかった気もする。何をするにもとにかく面倒臭がって、何かある度に動きたくないと言っていた。今の遠流は都内の高校に通い、その上でアイドル活動も両立させているという。以前を知っている身からすれば、とんでもない変わりようだ。
しかし、店主の小平(こだいら)に言わせれば「全力で人生を生きるようになったってことだろ」ということらしい。確かに、全力で人生を生きるようになったからこそ、遠流は身を粉にして芸能活動に勤いそしんでいるのかもしれない。
「案外、お前の影響かもしれんぞ」
「俺ですか? そうかな……」
「お前だって全力人間だろうが。ウチの店で働いて、その後に舞奏(まいかなず)の稽古。休みの日にも自主練とトレーニングってきたんじゃ、全力だろ! お前はお前の全力を誇れ!」
そう言って、小平が背中を軽く叩いてくれる。自分は遠流の全力にまだまだ及ばない。それでも、親代わりとして自分をずっと育ててくれた小平にそう言われると、少しだけにやけてしまった。
全力食堂での三言のシフトは朝八時から、一時間の休憩を挟んでの十七時までだ。仕事を上がると、三言はまっすぐに舞奏社(まいかなずのやしろ)に向かう。元より舞奏の稽古は心躍るものだったが、最近は特に楽しかった。
何しろ、今月になってようやく舞奏衆(まいかなずしゅう)を組む相手が見つかったのだ。相手はノノウ出身で、化身(けしん)も発現していなかったが、舞奏に積極的で、三言の練習にも付いてきてくれた。一般的な舞奏衆の人数より一人少ない二人組だが、このまま努力を重ねれば、『大祝宴』にも行けるかもしれない。本気でそう思えた相手だった。
しかし、今日の稽古にその相手は来なかった。
覡(げき)を辞めることは舞奏社の社人(やしろびと)づてに聞いた。力量が追いついていないから、三言の舞奏に付いていけないから、化身が発現していないから、そんなことが理由らしい。
三言は一人で舞奏の稽古をし、一通りの自主練習を終えてから舞奏社を出た。すると、件の覡に──今となっては元・覡に出会わした。社人と話に来たのか、あるいは何か荷物を引き取りにきたのだろうか。
「……何か言いたいことでもあるのかよ」
暗い声でそう尋ねられ、三言はゆっくりと首を振る。
「俺は無理に引き留められない。今までありがとう。短い間だけど一緒に舞えてよかった」
本心からそう言ったのにもかかわらず、相手は表情を歪ませながら去っていってしまった。何か間違えてしまったのかもしれない。
三言の『化身』は右手の甲にある。波と菊の花が合わさったような奇妙で美しい痣は、自我が生まれた頃にはもうあった。これは優れた覡の証とされ、この証があることで三言は無条件に舞奏社への所属を許された。
けれど、それに見合うだけの努力も重ねている自覚がある。化身が出ていようと出ていなかろうと、自分の舞奏には『カミ』を喜ばせるに足る価値があると思っている。
ただ、その所為で三言はまた一緒に舞う相手を失ってしまった。彼が離脱したことが知られれば、ますます三言と共に舞奏競に出ようとする人間はいなくなるだろう。
その夜、三言は海の方をぐるりと回って帰ることにした。夜の海は底が知れなくて恐ろしいが、同時に深い優しさも感じさせる。月が海面に反射して美しかった。
またもあの感覚に襲われる。何か大切なことを忘れている気がする。この海を一緒に見るべき相手が隣にいるような錯覚を覚える。
けれど、三言は気づいている。多分これは錯覚というよりは願望に近く、並んでつく足跡があればいいなと思っているだけなのだ。
*
「ぎゃーっ! わたくしのコミュニティ掲示板がクッソほど燃えてやがりますわーっ! えっまた炎上? マジで!?」
九条比鷺(くじょう・ひさぎ)はそう絶叫しながらスマホを放り投げた。横にいた三言が器用にそれをキャッチして「また炎上したのか?」と心配そうに尋ねる。
「そうだよ、また炎上だよ! え、今回マジでヤバいって……うっそだろ信じらんない、何で俺ばっかこんな目に……」
「今回は何をやったんだ?」
「えー……大したことやってないって……雑談放送……で、なんか流れで言った発言が拡散されて……」
タオルケットに包まったまま、比鷺は涙目でスマホを突きつける。そこには『くじょたん、人気アイドルに暴言。ファンガチギレ』というタイトルの短い動画があった。
『えー、八谷戸遠流のファンなの? うわー、趣味悪すぎ。あんなん顔だけじゃない? ていうか俺、あの映画のCM見るだけで笑うんだけど。「千切られたいの~?」とかいう決め台詞ヤバすぎじゃない? 何を千切るんだっつーの。主語入れろよ主語。笑うわ』
「これが切り取られて、八谷戸遠流ファンまで回って、その……」
比鷺は苦々しく呟く。これで通算三度目の炎上だった。しかも、今回は外に広がるタイプの炎上なので、なお悪い。謝罪はしたくないが、これ以上怒られたくもない。八方塞がりだ。
「……遠流の悪口を言うのはよくないな。友達だろ」
「う、正論……。だーってさー、うっかり出ちゃったんだもん。いいじゃん幼なじみなんだからこんくらい。ていうかあいつは連絡も寄越さない薄情もんだし! あーでも周りは俺達の関係知らないんだもんなー! 詰んだ。あいつがこんな人気者だと思わなかったんだよ……。ファンにちょー怒られてる……」
今をときめく人気アイドル・八谷戸遠流は比鷺の幼なじみだ。
今日部屋に遊びに来ている三言と合わせて、小さい頃は三人でよく遊んでいた。『九条屋敷の比鷺くん』として周りから遠巻きにされていた比鷺にとって、二人は数少ない友達だった。
しかし、遠流はあっさりと自分と三言を捨て、何の相談も無しにアイドルなんかになってしまったのである。比鷺にとって、これは明確な裏切りだった。気取った顔でテレビに映る遠流を見る度、比鷺は苛立ちと寂しさでいっぱいになる。そうしてとどめの炎上だ。もう嫌だ。遠流なんか嫌いだ、と比鷺は何度も唱え続ける。
「はー、どうしよ。勝手に鎮火しないかなー。無かったことになんないかなー! もうくじょたんって言ったら実況より炎上の方が有名じゃん」
「こんなことを言うのはなんだけど……比鷺は本名で活動してるわけじゃないんだから、名前を変えればいいんじゃないのか?」
「いやそりゃ俺がそこらの有象無象の一絡げみたいな雑魚ボイスだったらそれもありかもしれないけどさぁ。この声だよ? 奇跡のキュートボイスだよ? 転生したってくじょたんって秒でバレちゃうってー。うわー、辛いわー! まさか美声がこんなに重い十字架となるとはなー!」
「そうか、なるほど。確かにその通りかもしれない。比鷺の声は特徴的で聞きやすいから」
「あっ駄目、これはこれで鬱になってきた」
素直に受け取って投げ返してくれる三言の言葉は、普段は嬉しいけれど今は辛い。
「名前は変えらんないって。今の数少ない視聴者たちは大切にしたいし、ていうか転生したら絶対見つけてもらえないだろうし……『くじょたん』ってハンネ気に入ってるし……他のとか考えられないし……」
「ううん、比鷺だから『ひさぎん』とか」
「うわ、伸びなそー。くじょたんの人気の八割は語尾の『たん』が可愛いからだから」
「そうか。……でも、俺は応援してるからな、くじょたんのこと」
まっすぐこちらを見る三言の目が微かに輝いている。
眩しいな、と思った。思わず目を細めてしまう。比鷺はこの一年、まともに外に出ていない。
折角入学した高校も二日で辞めてしまった。三言も遠流もいない教室は、比鷺にはちょっと居心地が悪すぎた。それ以来、比鷺は実況と三言の訪問を通してしか外の世界と繋がっていない。
「ていうか、俺のことはもういいよ。三言はどうなの。……舞奏」
「ああ。稽古は欠かしてないぞ。期待に応えられるよう頑張ってる」
三言が笑顔で言うので、何とも言えない気分になる。
三言が舞奏衆を組んでいた相手に逃げられたことは知っていた。浪磯では噂が巡りやすいし、『化身』持ちの覡である三言は注目の的だ。舞奏衆を組む相手が出来たとあんなに嬉しそうだったのに、結局全然保たなかった。
逃げ出してしまった理由も分かる。何しろ三言の舞奏は次元が違う。並大抵の舞い手じゃ並び立つことも難しい。本人の資質もさることながら、努力の量だって半端じゃない。ノノウ出身の彼は、三言の近くにいるだけで消耗したはずだ。同情する。
残された三言だって辛いだろう。けれど、三言はそれを表には出さない。覡としての役目を真摯に果たそうとしているし、揺らがない。その様はさながら北極星だと思う。
その孤独に寄り添ってくれる誰かがいればどんなにいいだろう。
──たとえば、自分とか。
そこまで考えて、比鷺はもう一度ベッドに沈み込んだ。
何を隠そう、比鷺にも『化身』がある。しかも、首の後ろ、自分では見えない絶妙な位置に。
この妙な痣さえあれば、無条件で舞奏の才能があると認められるらしい。つまり、比鷺ならすぐにでも覡として三言と並び立てるわけだ。
ただ、そんなことは絶対に出来ない。三言と舞うのも、舞奏競なんて目立つ場に行くのも嫌だ。失敗するのも失望されるのも怖い。何の取り柄も無い比鷺のところに、三言が毎週来てくれるのは、自分達がまだ友達だからだ。舞奏衆になったら、きっとそれだけじゃなくなってしまう。
だから、絶対にやらない。『化身』が発現したと知った時、三言は喜び勇んで舞奏に誘ってきたが、比鷺は頑なに拒絶した。第一、こんな痣があったところで本当に舞の才覚に恵まれているとも思えない。
それ以来、三言が舞奏に誘ってきたことは一度も無い。三言は友達である比鷺の嫌なことは絶対にしないし、約束も違えない。契ったことは必ず守る。
それをありがたいと思うと同時に、申し訳なくも思っている。ただ、比鷺は絶対に動かない。身の程を弁えているのだから、もう引きずり出したりしないでほしい。
願わくば、三言が幸せでありますように。一緒に舞奏競を戦ってくれる仲間が出来ますように。天井を見つめながらそう願う。そんな比鷺に向かって、三言は心配そうに言った。
「なあ、比鷺のスマホ、震え続けてるぞ」
「あーあーあーどうせ愚痴アカからのDMだろー? 怒ってんのは分かったってば! もういい、しばらく見ない。三言が電源切っといて。あーもうマジでやだ……最悪……」
「分かった。切ったぞ」
「ついでに謝罪放送するまでいてよぉ……。隣で手握ってて……」
「いや、これから舞奏社に行く予定があるから無理だな」
「ぎゃーっ! この薄情者―っ! 大事な幼なじみが灰になってもいいのかよ!」
「けど、比鷺が実況をやめるとは思えないしな……」
「ねー、何でそんな痛いとこついてくんの!?」
比鷺がバタバタとベッドの上で騒ぐ。こうやって駄々をこねたところで、三言はさっさと舞奏社に行ってしまうだろう。三言は約束を違えないので、出来ない約束はしないのだ。一貫していて素晴らしい。
この時丁度、比鷺のスマホには人生を変えるようなとあるメッセージが届いていたのだが、炎上に怯える比鷺がそれを見たのは、少し後になってからだった。
『久しぶり。僕が目を離してる隙に堕ちるとこまで堕ちたみたいだな、惚れ惚れするよ。そこらの薪の方がお前より有用だよ、このインターネットタンクローリーが』
『来週にはそっちに戻る。そして、僕は必ず三言を〈大祝宴〉まで連れて行く』
『僕が戻るまでにお前の舞奏をどうにかしておけよ。もし僕と三言の足を引っ張るようなら、何を千切るのか、お前に直接教えてやるから』
「皐所縁は探偵を辞めた」
「よう、久しぶりだな。アホ怪盗」
隣に座る老婆の腕を掴みながら、皐所縁(さつき・ゆかり)はつまらなさそうに言う。ここは収容人数五百人の講堂だ。紛れられたら見つからないだろうから、掴んだ腕はけして離さない。すると老婆は、外見にそぐわない低く染み入るような声で応えた。
「見破られてしまいましたか。流石は所縁くん。決め手はどこですか?」
「足音が重すぎるんだよ。その身長で鳴る音じゃない。それに歩く時に頭の位置が動かなすぎ。まさか屈んでんのか?」
「ふふ、所縁くんってば耳までいいんですね。興奮します」
「何でわざわざ老婆に化けてんだよ」
「やだなあ、私ですよ? 縛りプレイに決まっているじゃありませんか。おばあさんに化けるのは腰に負担が掛かりますし、身体も痛くなりますし、散々なんです」
楽しそうに言う怪盗に対し、皐は大きく顔を歪める。彼の奇妙な美学はどうしても理解が出来ない。ウェスペルなんて馬鹿げた名前で予告状を送り、怪盗行為を繰り返す男のことなんか端から想像の埒外の存在ではあるのだが。
「それで? 『萬燈夜帳(まんどう・よばり)の手書き原稿を頂きます』だったか。原稿って、壇上のガラスケースの中に入ってるやつだろ。宝石でも絵画でも無いのになんで狙ったんだよ」
今回、怪盗ウェスペルが予告状を出したのは、美術館でも博物館でもなく、萬燈夜帳というベストセラー作家──兼、作曲家の講演会だった。狙う対象も言ってしまえばただの紙である。ターゲットがターゲットなので、今回の予告状は精巧な偽物だと見做されているくらいだ。この路線変更の理由がずっと気になっていたのだ。
「実は私、萬燈夜帳のファンなんですよ。萬燈作品は全て読んでいますし、聴いています。欲しかったんですよー、手書き原稿」
「嘘吐け」
「はい、流石の所縁くんですね。盗むものなんて何でもよかったんですよ。手頃なものが見当たらなくて」
「じゃあそもそも予告状なんて出さなきゃいいだろうが」
「所縁くんが探偵を辞めると聞いたものですから。こうして予告状出さないと会えないでしょう? 私たち」
「情報が遅いな。辞めるんじゃなくて辞めたんだよ」
「なのに来てくれたんですね」
「残念。俺も萬燈夜帳のファンなんだよ。今日の俺はプライベートだ」
「所縁くん、何で探偵辞めちゃったんですか?」
皐の嘘を無視して、怪盗がそう尋ねる。穏やかな声に反して、その目は逃げを許さない。少しだけ逡巡してから、皐は答える。
「やりたいことが出来たから」
「それって何ですか? 探偵よりもすごいこと? 怪盗と追いかけっこするより魅力的?」
面倒だな、と素直に思う。何度か相対したが、この怪盗相手はとかくやりづらい。ややあって、皐は真面目な声で続けた。
「この世から」
「うん?」
「殺人そのものを無くすこと」
「……ええっと、それは比喩的な意味でしょうか?」
「お前にしてはまともな反応だな。感動するわ」
困惑した表情の怪盗の前で、ゆっくりと首を振る。この話が誰かに通じるとも思っていない。ここだけ切り出せば与太話もいいところだ。ただ、何となく目の前の男だけは理解するのではないかと、妙な期待をしてしまった。
「とにかく、俺はお前を引き渡して帰る。不審者を通報するのは探偵じゃなくとも一般市民の義務だからな」
「あら、もう少しで萬燈先生の講演会始まりますよ? 私がここで形振り構わず逃げようとしたら、この場が台無しになってしまいます。あーあ、楽しみにしていた皆さんが可哀想」
「……怪盗、お前プライド無いのか」
「ありますよ。実家にも三個ほど備蓄してます」
その時、壇上に一人の男が現れた。どうやら、彼の言う通り講演会が始まってしまったらしい。舌打ちをしつつ手に力を込める。一段落して抜け出せるまで、怪盗のことを確保しておかなければ。
壇上に立っているのはやけに人目を引く、存在感のある男だった。大ぶりな眼鏡にパーマを当てたツーブロックは、小説家というよりモデルか何かに見える。自分が魅力的である自負に満ちていて、それを生かす術を十全に心得た男、という印象だった。歓声と割れんばかりの拍手を片手で制し、萬燈夜帳がマイクの電源を入れた。
『集まってくれてどうもな。今日は怪盗っつうのが来るって聞いてるからな、そっちを期待してる奴らも多いか? まあ、何でも構わねえ。好きに楽しんでくれ』
言及があったのが嬉しかったのか、隣の怪盗が小さく笑い声を立てた。
『──さて、講演を始める前に、一番多かった質問に先に答えておく。先月、天才小説家であるところの俺こと萬燈夜帳はデビューアルバムを上梓してヒットチャートを総なめしたわけだが──お前らは俺がどうしてそんなことをしたのか気になってるみてえだな。考えてみりゃあ当然だよな。フィッツジェラルドがピアノを弾き始めりゃあ誰もが理由を聞くだろう』
萬燈夜帳のことはよく知らなかったが、確かにめちゃくちゃな話だ。門外漢の皐でも、小説家がいきなりアルバムを出すのが普通じゃないことは分かる。萬燈はそのまま朗々と続けた。
『まず聞くが、文字を読む時に、頭ん中で音読するって奴はいるか? 逆に全く音で再生せずに文字を文字のまま読む奴は? ……まあ半々ってとこか。後者の奴らは読むのが速いって聞くな』
皐は前者で、怪盗は後者で手を挙げた。半々の言葉通り、綺麗に分かれた結果になる。
『頭ん中で音読する時、脳内で再生される声やその抑揚は人によって違うよな? 当然だ。ニューヨーク大学の研究によれば、頭の中の声は、自分の声と同じだって言う奴もいれば、全然知らない人間の声だって言う奴もいるらしい。ピッチやトーンもそれぞれ違う。それだけ内なる声ってのは千差万別だってことだ』
興味深い話だが、ここからどう繋がるのか分からない。気づけば皐はすっかり話に聞き入っていた。
『たとえば「夜が来た」って台詞があったとするだろ』
そこで萬燈は言葉を切って、軽く息を吐いた。そして口を開く。
『夜が来た』
ぞっとするようなその声を聞いて、ぞくりと皐の背が粟立つ。その寒気が去る前に、萬燈はもう一度繰り返した。
『夜が来た』
台詞は変わっていないのに、今度は旅路の終わりのような安心感を覚えた。声色とトーンを変えているからだろうが、それでもこれだけ違いを出せることが恐ろしかった。
『……とまあ、同じ言葉でも音によって言葉は変わる。文字の上でこの四文字は変わらねえのにな。この違いを出すために、小説では地の文や文脈ってので補完する。じゃあ、この二つの「夜が来た」を地の文も前後の文脈も無しで書き分けるにはどうすりゃいいと思う? 答えは音だ。頭ん中に響く音、人間がその文字から想起する音まで支配してやりゃあ、地の文無しで「夜が来る」の書き分けが叶う』
そんなことが出来るはずがない、と反射的に思う。さっき、頭の中の声は人それぞれだと言っていたというのに。その声を支配出来るとすれば、他人の脳に好きに干渉するのと同じだ。いくら音と言葉を極めたからといって、そんなことが出来るはずがない。
この会場にいる人間の殆どが萬燈の言っていることの意味が分かっていないだろう。皐だって十分理解しているとは言いがたい。それくらい萬燈の言葉は支離滅裂で、矛盾している。
『音をやるようになったのはそれが理由だな。俺は音について知りたくなった。つまり俺の曲ってのは副産物だが、俺が作ったもんだ。傑作には違いねえだろ?』
しかし、彼にはその言葉を呑み込ませるに足る、異様な説得力があった。何であろうと萬燈夜帳なら叶えてみせるだろうという暴力的なまでの信頼。それを、無理矢理抱かせる美しいカリスマ性。
『小説だろうと、音楽だろうと、俺が作るもんは誰かを楽しませる為の至上の娯楽だ。一時の快楽の為の崇高なる奴隷だ。俺は小説家でも作曲家でもねえ、ただの天才エンターテイナーだ。俺の命が尽きるまで、萬燈夜帳の才能をしゃぶり尽くさせてやるよ』
萬燈が高らかにそう言った、その瞬間だった。
講堂の照明が落下し、前の方に座っていた客の一人が潰される。間髪入れずに悲鳴が上がり、講堂がパニックに包まれる。
「……所縁くん、プライベートだそうですけど」
隣の怪盗が楽しそうに言う。忌々しい声だ。だが、無視出来ない声だ。何しろ皐はもう既に、これが大嫌いな殺人事件だと察してしまっている。皐所縁は探偵を辞めた。引退したはずなのだ。しかし、世界は彼の退職願を受け取ってくれるほど優しくはない。
「このままパニックが広がれば、思わぬ事故が起きちゃうかもしれませんね」
隣の怪盗は、他人事のようにそう言って笑った。
* 殺人事件が起こると人は狼狽する。パニックに陥る。そんなことは当たり前だ。客席最前列一番右の席に座っていた女性が照明器具で潰されて平気な顔をしている人間の方がおかしい。つまり、『皋所縁』がおかしい。
まだただの事故かもしれない段階で、殺人事件を予感しているのもおかしい。重力が存在するのだから、不幸にも照明器具が落ちることだってあるだろう。けれど、皋所縁は既に犯人を探している。その可能性を端から捨てている、皋所縁がおかしい。
そんなことを重々承知しながら、皋は死体の側に走っていった。怪盗の言う通り、パニックが起こり始めている。観客はまだ戸惑っているが、誰かが席を立とうとすれば収拾がつかなくなるだろう。その際に起こる二次被害を想像すると背筋が寒くなる。数十秒後に迫るパニックに目の前が暗くなった時だった。
『おい、全員落ち着け』
未だ悠然と壇上に立っていた萬燈夜帳が、凜然とした声でそう言い放った。その瞬間、会場の全員がぴたりと止まった。向かうべき視線の方向が定まり、全員の目が萬燈に向けられる。
『どうやらあっちゃならんトラブルがあったが、ここで騒いでもどうにもならねえよな。楽しめない展開ではあるが辛抱してくれ』
そんな言葉一つで場が収まるはずがない。それなのに、客は全員従っていた。動揺や恐怖が静まったわけではないが、萬燈が落ち着けと言ったのだから落ち着くべきだ、という空気が蔓延している。
この隙に、皋は『凶器』の照明器具と死体、それに、最前列の人間をざっと観察する。手がかりを見つけて推理を組んでいく、この過程が一番嫌いだ。人の悪意の地図を辿っていくなんてろくなものじゃない。
『おい、お前何してる』
地図の終わりに辿り着くのと、萬燈の冷ややかな声が降ってくるのは同時だった。どさくさに紛れて死体の側に屈み込んでいる男を見れば、そんな声にもなるだろう。探偵行為なんか一歩間違えずとも異常行動だ。
おまけに今の皐は、いかにも上品そうで無害な老婦人の手を掴んでいる。隣でニヤつくこの老婦人が怪盗なんですと言って信じてもらえるはずがない。
数瞬だけ迷ってから、覚悟を決める。そして、掴んだ怪盗ごと、客席の方を振り向いた。そして、長らく出していなかった張りのある声で言う。
「どーも、俺が最強にして最高の元・名探偵、皋所縁だ。みんな、殺人事件って嫌だよな? 奇遇だなー、俺もこの世で一番嫌いだ。だから、俺はちゃっちゃとこれを解決しようと思う! ってことで解決編いくぞ! 犯人はそこのカーディガンを着たお前だ! そのカーディガン服装に合ってないし、どうせ腕の傷を隠す為にさっき買ったばかりだろ? この照明器具、妙な位置のワイヤーが根元から切られてるんだよな。お前、照明器具のネジを外す時にこのワイヤーに肌を引っかけたんじゃないか? このワイヤーに皮膚片が付着してDNA鑑定に回されるかも……と怖くなったお前は、このワイヤーを切断して持ち帰ることに決め、腕の傷を隠す為にカーディガンを羽織った。それだけビビりならまだワイヤー持ってるだろ? 鞄の中身見せろよな。ていうか照明器具に細工出来るなら共犯者もいるか?」
殆ど息継ぎもせずに捲し立てると、矢面に立たされた女性に視線が集まった。視線に晒された容疑者──犯人は、真っ青な顔で皋を見つめ返している。
推理を披露しながら、皐は不思議でならなかった。どうして探偵という肩書を名乗るだけで、周りは自分の言葉に耳を傾けるのだろう。探偵に免許があるわけでもないのに。そもそも『皐所縁』は探偵を辞めたはずなのに。
「……勿論、俺は失格探偵だから、間違えてるかもしれないんだけどな! さあ、違うなら反論しろ! 俺が探偵として無能であることを証明してくれ!」
そんなことが十中八九無いことを知りながら、皐所縁は自分の無能を心の底から願っている。どうか、これがそんな悲劇じゃありませんように。自分が間違えていますように。これが単なる事故でありますように。殺人なんておぞましいものじゃありませんように。
「……仕方なかったんです。私が彼女の支配から逃れるには、もうこれしか……」
しかし、皐の願いはあっさりと裏切られた。あーあ、それ自白じゃん。殺人じゃん、せめて一度くらい言い訳すればいいじゃん、と溜息を吐く。自分が間違っていないことを知らしめられるこの瞬間が、一番嫌いだ。犯人の女は泣きながら動機を語っているが、それを理解してやる気力がない。長々と続く独白を遮るように、気のない返事を返す。
「あー、もういいよ。誰か逃げないように見張っといて。もう逃げないか」
興味を失ったように言う皋の言葉に、周りの言外の非難が突き刺さる。しかし、そんなものを聞いてやる義理はない。
隣の怪盗が「駄目ですよ。所縁くんってば愛され探偵としての自覚が足りませんね」と老女らしい声で言ったところで、皐の堪忍袋の緒は切れてしまった。レフリーのように老女の腕を掲げながら叫んでやる。
「ついでに言うと俺が掴んでるこのおばあちゃんは怪盗ウェスペルだ! 誰でも良いからさっさとこいつを捕まえろ! 引き渡させてくれ!」
「ちょっと所縁くんったら、本当につれないですね。感激します」
怪盗が呆れたように言うのに合わせて、犯人が本当に駆け出す。逃げたって無駄だろうが、これで『皋所縁』に一矢報いれるとでも思ったのだろうか。
そうなれば偉そうに推理を披露しながらも一旦犯人を逃がした探偵──元・探偵として馬鹿にされるかもしれない。ただ、正直言ってどうでも良かった。皐所縁は探偵をやめたのだから。
「ねえ、所縁くん。今のうちに言っておきたいことがあります」
気づけば、微笑む老婦人が皐の耳元に口を寄せていた。その声はあの気障っぽい低音に戻っている。
「私の名前、昏見(くらみ)っていうんです。昏見、有貴(ありたか)。今度会う時は怪盗、なんて素っ気ない呼び名じゃなくて、ちゃーんと昏見って呼んでくださいね」
「はあ? もう会うことなんざないだろうが」
「私は肩甲骨にあります」
昏見が言った一言で、皐は全ての事情を把握する。昏見は知っている。皐所縁が何をしようとしているかも、その手段も。
「お前、どこまで知って……」
「力になりますよ、所縁くん。私のこと、信じてくださいね」
そう言うなり、視界いっぱいに白い煙が広がった。掴んでいた手の感触がフッと消える。客席のざわめきが大きくなる。
昏見が炊いたスモークが晴れた時、皐の手に残っていたのはとあるバーの名刺だった。数メートル先には縛られた犯人が転がっている。その背には流麗な筆跡で書かれた『手紙』が貼られていた。
『殺人事件とか怖いので出直します 怪盗ウェスペル』
出直します、の後にくっついている泣き顔の絵文字が更に怒りを煽った。招待状のように握らされた名刺も気に食わない。こんな見え透いた誘いに乗るような馬鹿にはなりたくない。けれど、皐は昏見の肩甲骨を確認しなければならない。
『おい、怪盗の出番は終わっちまったのか?』
焦燥のただ中にある皐を余所に、萬燈夜帳 の声が高らかに響く。
『警察はもう着く。残念だが、この講演会は中止になるだろうな。けど、それじゃあいくら何でもあんまりじゃねえか? この俺の講演会に来たってのに、まだ観客のお前らは十分に楽しんでねえよなあ? 俺の主催してるイベントでそれは赦されねえ! 怪盗出現ってプレミアムイベントがあってようやく帳尻が合うってもんだ!』
目を輝かせながら言う萬燈を見て、皐の喉が引き攣る。こっちもこっちで一生分かり合えなさそうな人種だ。その射抜くような目が、皐を捉えている。
『そこでだ名探偵! お前も壇上に上がらねえか? お前もそこそこエンターテイナーだろ? この場が開くまで、俺と興行に勤しもうぜ?』
その言葉が終わるより先に、皐は踵を返して駆け出した。これ以上こんな悪夢に付き合ってはいられない。何しろ、皐所縁は探偵を辞めたのだから。彼は探偵をやめて、無謀な願いの為にその身を窶すと決めたのだから。
「季布一諾 (I give you my word.) 」 八谷戸遠流がどうしてここまで人気になったのかについては、マネージャーの城山菜穂(しろやま・なほ)すら正確には語れなかった。勿論、八谷戸遠流は並外れて美しい顔立ちをしているし、その容姿に頼りきることのない努力家でもある。歌も演技も上手いし、トーク力もある。ファンに対するサービスは手厚いのに、距離感は誤らない。人気があるのに驕りもしない。まるで芸能人になる為に生まれてきたような人間だ。人気が出るのも頷ける。
それでもなお、城山は不思議でならなかった。実力があってもすぐに芽が出るとは限らないのがこの業界だ。実力があってもスポットの当たらない人間は山ほどいる。
なのに、八谷戸遠流は何故、ものの一年でトップアイドルと呼ばれるに至ったのだろう?
八谷戸遠流がオーディションに現れてから今に至るまで、城山は何だか狐に抓まれたような気分でいる。彼の栄華は揺るぎないものだ。なのに、そこにはどうしても現実味が欠けているのだった。
「お疲れ様です、城山さん。わざわざ迎えに来てくださってすみません」
映画の撮影を終えて後部座席に乗り込んだ遠流が、いつも通りの笑顔で言う。自宅に送り届ける時はプライバシーに配慮して、タクシーを呼ぶのではなく城山自らが運転するようにしていた。未成年の遠流に対して、出来る限りの配慮である。
「気にしないでよ。お疲れ様。ようやくクランクアップだね」
「そうですね。貴重な経験が出来ました」
長時間の撮影を終えたばかりだというのに、バックミラーに映る遠流は少しの疲れも見せない。プロ根性と呼べば聞こえもいいが、こういうところは多少の薄気味悪さを覚える。遠流はアイドル活動の傍らで高校にも通っている。大の大人でも悲鳴を上げそうなハードスケジュールなのに、彼が溜息を吐いているところすら見たことがないのだ。
「……多分だけど、あの映画ヒットすると思う」
「だといいんですけど。上手く出来ていたかは分からないですから」
「でも、どれだけヒットしてもそろそろ『期限』でしょ」
「ええ、そうですね。一ヶ月後には声明を出そうと思います」
「ねえ、考え直すつもりはないの? こう言うのもなんだけど、向こう一年の活動次第で八谷戸遠流がどんなキャリアを積むかが変わってくると思う。ここで芸能活動をセーブするのは……」
「決めたことじゃないですか」
有無を言わせない口調で遠流が言う。撥ね除けるような言葉なのに厭味に聞こえないのは、彼の言葉がいつでも完璧にコントロールされているからだ。自分の伝えたい意図に適った最適な言葉。それが彼をトップアイドルたらしめているのだろうし、マネージャーとして一番評価している部分でもある。
ただ、それを味わえば味わうほど、八谷戸遠流の輪郭が掴めなくなっていく。
オーディションに現れた時から、八谷戸遠流は異様だった。
簡単な審査を終えた時点で、結果はほぼ決まっていたようなものだった。とにかく人目を惹くし、華がある。ある一部の人間にだけある素養を、八谷戸遠流は十全に備えていた。殆どの手続きを飛び越えて合格が決められるなんて普通は無い。その普通を塗り替えてしまうほどに、彼は逸材だった。
その場で合格が言い渡されたというのに、遠流はさほど嬉しそうでもなかった。この結果を予期していたかのように「ありがとうございます」と言っただけだった。後の過剰とも言える野心を考えれば、この反応は淡泊過ぎるように感じた。おまけに、彼の口からはとんでもない言葉が出た。
「厚かましいのは承知ですが、お願いが一つと、注意点が一つあります」
八谷戸遠流が提示してきたお願いというのは、一年後には地元に戻り、覡として活動することを認めてほしいということだった。つまり、それからはアイドルと覡との兼業になる。高校生を職業に含めれば、三足のわらじだ。
今まさに所属しようとしている事務所に、そんな慇懃無礼な言葉を投げる新人はいない。しかも、彼の言葉はお願いではなく、実質的な所属条件だった。
普通なら一笑に付されて合格を取り消されるだろう。ただ、八谷戸遠流は普通ではなかった。この異常な条件を吞ませるに足るほど、逃してはならない逸材だった。熱に浮かされたように、事務所の人間がそれを受け入れる。
注意点として実際に見せられたのは、腰骨の位置にある奇妙な形の痣だった。
あまりにはっきりとそこにあるので、最初は刺青なのではないかと思った。そんな場所に目立つ刺青があるのなら、確かにそれは注意点になるだろう。しかし八谷戸遠流はそれを否定し、痣を『化身』と呼んだ。化身は覡としての適性を表す指標のようなものであり、覡として舞奏社に所属する際に最も重要視されるものだと説明した。
「えーと、それの位置ってどうにかならないものなの?」
「どうにか、ですか」
「うん、ずらしたり……とか」
説明を受けた城山は、思わずそう言ってしまった。腰の位置であれば普通は見えないが、これから先、水着などを着る機会があったらどうしよう、と思ったのだ。そうでなくても、ふとした拍子に見えてしまいそうな位置ではある。これから八谷戸遠流はどんどん売れていくだろうに、仕事が制限されるのは惜しい。
「って、痣? なんだもんね。誰かの意思でどうにかなるもんでもないか」
「強いて言うならこれはカミの意思ですが」
八谷戸遠流は変わらないトーンで淡々と言う。
「化身というのはカミが目を付けた場所に発現するんです。その場所が特に気に入ったのか、あるいは特に気に入らなかったのか……。いずれにせよ、カミの予約票のようなものでしょうか」
「カミの予約票……?」
「嘘じゃないですよ。確かな筋の情報なので」
その顔があまり真剣なので引いた。カミだの何だのの話をこんなに真面目な顔でする人間を、本当にアイドルとしてデビューさせていいものなのだろうか。
しかし、再三申し上げた通り、八谷戸遠流は非凡だった。カミを本気で信じていようが、彼の輝きは損なわれないし、その後バラエティーで彼がカミの話をしたことは一度も無い。
約束していた一年が過ぎようとしていた。
遠流が入ったばかりの頃は、一年の間に芽が出るはずがないと言い切る人間も多くいた。一年後に地元に戻って兼業の道を選ぶのなら、そのまま解雇してしまってもいいんじゃないかと言っている人間もいた。しかし、八谷戸遠流は順調に人気を博し、ここ三ヶ月はれっきとした稼ぎ頭である。彼が地元に戻り、覡として活動することは痛手だった。アイドル活動と並行するとはいえ、仕事量はどうしても減るだろう。
ただ、彼の覡としての活動に表立って反対する人間は一人もいなかった。
八谷戸遠流はそうなるべきだと、何故か全員が納得していたのだ。
城山が考え直さないのかと尋ねたのも、ただの確認でしかなかった。引き留められるなんて思っていない。雪の冷たさを触って確かめるようなものだ。雪は冷たかった。それだけだ。
車を運転しながら、城山は言う。
「地元に帰ったら、少しは羽伸ばせるかな。地元の友達とかもいるでしょ?」
「地元の友達……ですか」
「そうそう。こっち来てから連絡取ってる?」
遠流は静かに首を横に振る。
「全然ですね。そんな余裕が無くて」
「じゃあ、再会したらきっと嬉しいだろうね。サプライズだ」
その時、全然変わらなかった遠流の表情が微かに変わった。
「……それはどうでしょう」
「え?」
「地元の友人はみんな良い友人ですよ。ただ、……僕はみんなに嘘を吐いているので。前みたいな関係に戻れるかどうか」
そう言う八谷戸遠流の表情は年相応の、諦念混じりの寂しそうな微笑だった。
城山には、八谷戸遠流のことが分からない。彼が何なのかも、どうして彼がここまで成功したのかも、何故アイドルとして大事な時期に覡として活動しようとしているのかも、何もかも知らない。
けれど城山は、彼に向かって「大丈夫ですよ」と言う。根拠が無くとも、その言葉が必要であることくらいは分かる。
もう一度伺った遠流の顔は、いつものような涼やかな笑顔だった。
「人は繋ぐ、不可視の星座を見る」
『拝啓、浪磯観光協会様』
そこまで書いて、昏見貴子(くらみ・たかこ)の万年筆が止まった。色々と書くべきことはあるはずなのに、どう先を続けても嘘っぽくなってしまう。言いたいことは一言だ。自分はそちらの催しに行かない。──行きたくない。
そこに体の良い言い訳や、何が自分に引っかかっているかを書き添えて穏便に事を済ませることも出来るだろう。だが、果たしてそれが自分らしいだろうか? もっとストレートに突き返した方が自分らしいのではないか。老婆と呼ばれるような年齢になってもなお穏便になるどころか、どんどん鋭くなっていく自分の心の声が聞こえてくるようだ。
多摩川の河川敷で足を伸ばしながら、手元のレターセットを睨む。なるべく早く返事を書かなければならないのに、この気分の乗らなさは筆舌に尽くしがたい。
煩悶する貴子の背に奇妙な言葉が投げかけられたのは、その時だった。
その言葉は、聞き覚えのある単語と、意味の見当すら付かない単語が奇妙な文法で取り混ぜられたものだった。外国語に多少精通している貴子だからこそ、その寄せ集められたパーツの雑多さが耳に付いた。イントネーションは祝詞のようでもあった。
振り返ると、髪に緩やかな癖のついた少年と目が合った。
綺麗な顔立ちをしている少年だ。未熟さや可能性の残る美しさではなく、既に完成された顔つきだった。そのまま成長すれば、きっと人目を惹く青年になるだろう。未来像が寸分違わず見えるような彼を前に、貴子は口笛の一つでも吹いてやりたくなった。
いかにも怜悧そうな瞳からは、小さな子供とは思えないようなプレッシャーを感じる。外国の子なのだろうか? と思いながら首を傾げると、少年は思い出したように一つ頷いてから、もう一度口を開いた。
「することがない状態であるのが、あなたですか?」
今度は日本語だったが、無理矢理翻訳機に掛けたような印象が拭えない。実に奇妙な文章だ。貴子は少し考えてから笑顔で返す。
「つまり、私が暇かってことね?」
「はい。あなたに川を眺めさせているのが、暇ですね」
「解読方法が分かったわ。そう、暇だから川を眺めているの」
正確に言えば、大好きな多摩川を眺めながらお断りの手紙を書いているのだが、一念発起すればすぐ終わるものにあれこれ時間を掛けているのは暇だからに他ならない。
「ねえ、あなた。お名前は?」
「萬燈夜帳という名前に、名付けられているのが私です」
名前まで変わっている。この出来すぎた少年によく似合っていた。
「教えてくれてありがとう、夜帳くん。あなたも暇なの?」
「はい。することがないのは、僕もです。この眺めは素晴らしいですね」
不思議なことに、夜帳の言葉は一音一音はっきりとしていく。まるでラジオがチューニングされていくようだった。使うべき言語がようやく分かった、とでも言わんばかりだ。
「何を書いているのですか?」
その言葉からは、もう独特なたどたどしさも、訳し直したような不自然さもなく、むしろ誂えられたような流麗さがあった。話し方に子供らしからぬところがあるが、彼にとってはこれが素なのだろう。好奇心の輝きをたっぷり宿した夜帳の目に、宛先だけが書かれた手紙を突きつける。
「お断りの文章ね。とある場所から招待されたのだけど、気が乗らなくて」
「何か気に入らない条件があったのですか? それとも予定が合わなかった?」
「そうじゃないわ。同じ催しで奉じられるものが苦手なの。浪磯の大きなお家の子が私のファンだっていうから、出てあげたい気持ちはあるんだけれど。いずれ個人的に観せに行くわ」
「観せる……ということは、あなたは」
夜帳が続きを言い終えるより先に、指先に摘まんでいた手紙を振る。すると、瞬く間に手紙は鮮やかな紫色のハンカチに変わった。
「私はね、こういうことを生業にして過ごしているの」
夜帳の目が驚きに見開かれている。そういうところは年相応の子供と同じで、大変微笑ましかった。
「行かないと、と思ったんだけど、行きたくなくて。いけないかしら」
「あなたの気持ちが大切だと思います。演じたくない理由があるんでしょう?」
夜帳が言うと、貴子は秘密を囁く声で言う。
「そうね。私は怖いの。カミさまがね」
カミさま、と夜帳が小さく呟いた。
「いくつか経験則として知っていることがある。あれを回避するのに一番良いのは、なるべく縁を繋がないようにすることなの。袖振り合うも多生の縁って言うでしょう? そのくらい、縁は重いものなの。目を付けられたが最後、思いもよらないところから絡め取られる」
自分は絶対に関わらないようにしようと思っていても、巧妙な采配で足を取られる場合がある。それはとても賢く、人間が絶対に逃れ得ない罠を仕掛けてくるのだ。
「かけ離れているような点と点が繋がるのがこの世界だもの」
「星座のように、ですか?」
「上手いこと言うのね。その通り」
「そこまで縁というものが重いものであるのなら、逃れようといずれ招かれてしまうのではないですか?」
「そうね……。逃げ続けることは出来ないのかもしれないわね……。あの子もいずれ、あれに関わる所縁(ゆえん)を得るのかもしれない。そうなったら、確かに防ぐことは出来ないわよ。だからこそ、危うきには近寄らないの。もし私がこの舞台に立つことで、あの子が興味を持ったらいけないから」
貴子は自分の愛し子を想う。目の前の少年に負けず劣らず聡明だが、危なっかしい子供のことを。あの歳にして、一度決めたことは絶対に譲らない頑なさを持っているのだ。それは美徳であるが、思いも寄らない落とし穴に嵌まる原因にもなる。
「変なこと言っちゃったわね。偏屈なおばあちゃんの駄々こねだと思ってちょうだい」
「いえ。興味深くて……楽しいです」
夜帳が顔を綻ばせる。何とも可愛い笑顔だった。ずっと見ていたくなる。
「ねえ、私は名乗るつもりはないんだけど……君にはもう一度名乗ってほしい。改めて名前を教えてくれる?」
「僕は萬燈夜帳といいます。どうぞ、お見知りおきください」
夜帳は、さっきとは全く違う顔つきで、改めて一礼する。
「ありがとう。じゃあ、今日話したことは忘れてくれる? もしかしたら、君もこれで繋がってしまったかもしれないし」
「分かりました。忘れておきます」
「いい子ね。それにしても、そんなに沢山持ってて、疲れちゃわない? ちょっと心配になっちゃったわ」
「そんなことないです。お母さんにはよく叱られます。俺は相応に未熟なんだと思います」
「あら、どう怒られるの? 想像出来ない」
「……大人を泣かせてはいけません、とか」
「なるほど、相応に悪ガキね。ウチのとなかなか気が合いそう」
それから、夜帳は誰かに呼ばれて駆け出していった。それを見送ってから、貴子はもう一度万年筆を握り直す。
*
「『残念ですが、お断りします。私、舞奏が嫌いなので 昏嶋(くらしま)貴子』」
嫌いなので、の後に描き添えられている泣き顔の絵文字から少々の茶目っ気が感じられる。やけに達筆なところも、全体の雰囲気を和らげるのに一役買っていた。
「このハガキが観光協会から見つかったんだ。それで気になって」
三言は、ハガキの表面をなぞりながら言う。すると、比鷺が思い出したように言った。
「あー、昏嶋貴子知ってるわ。前に何かのイベントで呼ぼうとしたんだよね……俺ちっちゃかったからあれだけど、確か兄貴がファンでさ……。引退した後も、あの人ちょいちょいイベントには出てたでしょ。それなのに、がっつり断られたとか」
「舞奏が嫌いだから、らしいな」
「浪磯のイベントといったら舞奏だからね。昏嶋貴子のショーと一緒に、九十九・九パーの確率で舞奏披も行われるでしょ。それが気に食わなかったんじゃない?」
舞奏が嫌いな人、というのは三言にとっては不思議な感覚だった。確かに、そういうこともあるのかもしれない。三言の大好きなエビだって、全員が全員好きなわけじゃないのだ。
「そうなのか……」
「ていうか、ノートパソコンで検索したら全部が分かるわけじゃないんだからね。どうせクソまとめだけが引っかかるよ。『昏嶋貴子について調べてみました! 調べてみましたがよく分かりませんでした……』みたいなやつ!」
「そうなのか……?」
「期待しちゃ駄目だって~インターネットだもん。ていうか、舞奏が嫌いな理由なんて大した理由じゃないって~。単純にショー同士で食い合うからとかかもだよ」
「うーん……。それにしても、鵺雲(やくも)さんは気の毒だな。昏嶋貴子さんに会えなくて」
「いや、それは気にしなくていいんじゃない? ていうか、よかった気がする」
比鷺は独り言でも口にするように呟く。
「あの人、舞奏が嫌いな人が嫌いだからさ。昏嶋貴子への興味もそこで終わったと思う」
その言葉があまりに淡々としているので、三言は久しぶりに何と言っていいか分からなくなってしまった。代わりに、何でも調べられるはずのノートパソコンを見る。しかし、画面には不思議なマークが沢山映っていて、どうしていいかよく分からない。
*
「昏嶋貴子。本名非公開だけど、十中八九昏見貴子だろ、これ。出身地非公開。職業はイリュージョニスト。この国で最後の魔法使いを自称し、クロースアップマジックから大がかりな脱出マジックまでをこなす。晩年は譜中に居を据え、昏嶋館と呼ばれた。昏嶋館の周囲でのお前の目撃証言は掘ればいくらでも出てきた。遅い孫だったってことで随分可愛がられていたって話だな? 有貴くんよ。ちなみに、お前の姉ちゃんの名前は貴己」
クレプスクルムを訪れた皋は、そう言ってまくし立てた。それに対し、バーテンダー姿の昏見が、しれっと返す。
「わー、探偵時代の杵柄で調べてくれたんですね。ですが、八谷戸くんを見習った方がいいと思いますよ。直接私に聞けばいいじゃないですか。流石の私も日に百回くらい同じ質問をされたら根負けすると思いますし」
「とか言って、お前は調べてほしいタイプだろ」
「知ってますか、所縁くん。ジンジャーエールの開発者ってお医者さんなんですよ。さ、どうぞ」
「お前はどうしてこれで話題が変えられると思ったんだよ。無理筋だろ」
挙げ句の果てに、出てきたのはジンジャーエールではなく甘酒だった。出されたからには仕方がないので、そのまま口を付ける。すっきりとしていて、初詣の時に飲んだものより美味しい。
「他愛の無い話ですよ。私はおばあちゃんっ子で、よく遊びに行ってましたから、結(ゆい)さんにはそこを見られてたんでしょう。珍しい名字ですから、昏見という本名ママではなく昏嶋と名乗っていたわけです。Quod erat demonstrandum」
「そんくらい隠すことなかっただろうが」
「言ってしまえばそうなんですけどね。お祖母様、舞奏が嫌いだったんです」
「舞奏が嫌い? 何でまた」
「そんなちゃらけたものは許さん! 的な?」
「的な? じゃねえよ。ざっとさらった感じの昏嶋貴子のパーソナリティーとその台詞が合ってないんだわ」
「というわけで、今の私は所縁くんの為にお祖母様の想いを裏切って闇夜衆を組んでいるわけです。お祖母様が存命であったらどれほどお嘆きになったか。というわけで所縁くん。普段にまして感謝してくれていいですよ」
「はいはいそりゃどーも。天国のお祖母ちゃんに背いてまで闇夜衆に来てくれてありがとな~」
「ありがとうございます! ねだった者勝ち!」
昏見がわざとらしく喜んでみせる。色々引っ張った割に、真相は他愛の無い話だ。小さい頃譜中によく来てました、程度のことすらあれこれ言って煙に捲く昏見の性格を噛みしめる。どうせ、今回も皋を揶揄って遊んでいただけなのだ。
もしくは、舞奏を嫌っていた祖母の話を自分からは出したくなかったか。
だとしたら、昏嶋貴子の舞奏嫌いの話は、皋が思っているよりも重いのかもしれない。昏見有貴の本質に触れるほどに。そう思うと、皋は突然恐ろしくなった。自分達がこのまま舞奏競に挑んでいったとして──本当に昏見を大祝宴へと、カミの元へと、連れて行っていいのだろうか?
「一つ申し上げておきますと、お祖母様が嫌っていたのは舞奏そのものではなかったですよ。それに、彼女がどうして私を舞奏から遠ざけたかったかも理解していますしね」
昏見は懐かしげに呟く。
「実を言うと、私もお祖母様もカミが苦手なんです。だって、ねえ。私という人間を生み出されてしまった時点で、カミサマとやらの不完全さは証明されているじゃありませんか?」
昏見はいつもの笑顔でそう言った。説明になってない、と一蹴するには、その声色は雄弁だった。
その時皋は、今までにもまして大祝宴への渇望を覚えた。昏見の取り澄ました顔の裏にあるものを探る為には、その場所に辿り着くしかないような気がしたからだ。皋所縁はいつだって、足で情報を稼ぐ探偵を尊敬している。いくら失格探偵といえど、その姿勢を軽んじることはしたくないのだ。
著:斜線堂有紀
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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