西洋哲学史

第1回 古代西洋哲学史 ギリシャ文明の勃興

2013/04/03 20:59 投稿

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 ギリシャ人たちが、芸術や文学において成就したものは、万人によってよく知られているけれども、彼らは、数学や科学、哲学を創案したのだ。また単なる年代記とは異なるところの歴史を初めて叙述し、受け継がれた正統説、といったいかなるものにも束縛されることなく、世界の本性や人間の人生の目的について自由に思索した。

 哲学はタレスとともに始まる。幸いなことにタレスがいつ頃の人かは、彼が日食を予言したという事実によって判定がつく。すなわち天文学者によれば、その日食は紀元前585年に起こったのである。哲学と科学は、紀元前6世紀の初めにともに誕生したわけだ。ギリシャやその近隣諸国において、それ以前には何が起こっていたのであろうか?

表意文字からアルファベットへ

 ものを書くという技術は、紀元前約4000年にエジプトで発明され、メソポタミアにおいても、それより大して降らない時期に見出されていた。最初エジプト人は、全くの絵画的書式を用いていたが、極めて慣習化した画字は、次第に音韻を代表するようになり、ついには単一の音字を示すに至った。最後のこの進歩は、エジプト自身は完全にやり遂げず、フェキニア人によってなされたものだが、それはアルファベット書式にあらゆる長所を賦与するものである。フェキニア人を真似たギリシャ人は、そのアルファベットを自分たちの言語に向くように改変し、子音ばかりではなく母音を追加する、という重要な新機軸を出した。このように便利な書式を持つに至ったことが、ギリシャ文明の勃興を大いに促進させたことには、疑問の余地はあり得ない。

宗教、政治、道徳が強く結びつく

 聖なる国王が存在して独裁的権力を握り、また宗教は多神教で、その中の最高の神に、国王は特に深い近親関係を持ち、軍人である貴族階級と、僧侶である貴族とが存在し、土地を耕すものは農奴であって、農奴は国王、貴族、あるいは僧侶階級の所有なのであった。

 宗教が帝国の政治と結び付いている場合には、神あるいは女神は国家と関連させられるようになり、その神々が豊かな収穫ばかりではなく、戦争における勝利をもたらすはずであった。裕福な僧侶階級は、儀式や神学を込み入ったものとし、1つの神殿の中へ、帝国を構成する様々な国の神々をも、一緒に祭り込むのだった。

 政治と結ばれることによって、神々はまた道徳と関連させられるに至る。立法者たちは、その法典を神から授かるのだから、法律の侵犯は神に対する不敬となった。全古代を通じて、宗教と道徳との関連は、間断なく緊密なものとなった。

エジプトとバビロニアの宗教

 エジプト人たちは、死ということに心を奪われていて、死者の霊魂は地下界に降下し、そこで地上の生活態度に従ってオシリス神から様々に審判される、と信じていた。また彼らは、霊魂が究極的には肉体に戻るものと考え、その結果、死体をミイラにしたり豪壮な墓を築いたりした。これ以降のエジプト文明は、段々と型にはまったものとなってゆき、宗教的保守主義は、進歩を不可能にしてしまった。

 バビロニアの宗教はエジプトのそれとは異なり、来世における幸福よりも、この世における繁栄より多く関心を持っていた。呪術、占い、占星術、といったものは、バビロニアだけあったわけではないが、そこでは他のどこよりも発達していて、そういったものが後の古代に支配力を獲得したのは、主としてバビロンを通じてであった。

 エジプトとバビロニアの宗教は、他の古代諸宗教と同じように、元々は生殖崇拝だった。大地は女性であり、太陽は男性で、牡牛は普通、男性の生殖力の具現と見なされていた。バビロンでは、イシュターという大地女神が、女性の神々の中で最高位にあり、小アジアへのギリシャ人の移住民がその神をアルテミスと名付け、母神崇拝をそのまま引き継いだ。キリスト教がその女神を処女マリアに変えたのであり、彼女を神の母なる称号で呼ぶことを合法化したのは、エペソ会議であった。

バビロニアの科学

 バビロンからは、科学に属する若干のものが派生している。すなわち、1日を24時間に分けることとか、円を360度に分けること、また日月食の周期の発見、といったものである。この発見によって彼らは、月食を正確に予測できたし、日食もある程度の確からしさで予知が可能であった。

クレタ島のミノス文化

 ほぼ紀元前2500年から1400年に渡る11世紀の間、芸術的に優れたミノスア文明と呼ばれる文化が、クレタ島に存在していた。それはエジプトと密接に触れていた海洋文明であり、エジプトの画があることから、クレタ島とエジプトとの間に、クレタ人の航海士による多大の商業が行われていたことが明らかである。クレタ島の宗教は、シリア及び小アジアの諸宗教にある近親性を持っていたように思えるが、芸術の点では、エジプトとより深い関連を示している。このクレタ芸術の残存物を見ると、エジプトの神殿が持つ恐ろしいような陰欝さと非常にかけ離れて、快活でほとんど退廃的な贅沢品だという印象が与えられるのである。クレタ文明の中心は、クノッソスにあるいわゆるミノスの宮殿であり、古典ギリシャ時代の様々な伝承の中に、その追想が長く漂っている。クレタ島の諸宮殿は極めて壮大なものであったのだが、ほぼ紀元前14世紀の末に破壊された。

ギリシャ本土のミケーネ文明

ミノス文明が破壊される前、紀元前約1600年にその文化は、ギリシャの本土に広がって、そこで漸次的な変化を経ながら紀元前900年頃まで存続した。この本土の文明は、ミケーネ文明と呼ばれている。それは諸王の墳墓や、山頂に築かれた要塞によって知られているもので、その要塞は、クレタに存在していたものよりも、戦争の恐怖をより多く示している。これら墳墓や要塞の双方は後代まで残存して、古典時代ギリシャ人たちの空想力に感銘を与えた。

ギリシャ人

 ギリシャ人は3度に渡って相次いでギリシャへやって来た。最初はイオニア人、次いでアカイア人、最後にドーリア人たちである。イオニア人たちは征服者ではあったが、クレタ文明をかなり徹底的に採用したようだ。しかしイオニア人は、次に来たアカイア人によって乱獲され、また大いに略奪されてしまった。イオニア人とアカイア人との戦争によって弱体化されていたミケーネ文明は、ギリシャへの最後の侵入者であるドーリア人によって、事実上破壊されてしまった。先行する侵入者たちが、ミノス的宗教を大いに採用したにも関わらず、ドーリア人は、自分たちの祖先伝来のインド・ヨーロッパ的宗教を保持した。しかしながらミケーネ時代の宗教は、特に下層階級の間に存続し続け、ギリシャ古典時代の宗教は、以上2つのものの混合であった。事実、古典的女神たちの若干は、ミケーネ的起源を持っている。

ギリシャ本土

 ギリシャ本土は、山が多くてその広大な面積が不毛の土地である。しかし肥沃な谷が沢山あって、それらは海へ容易に出ることはできるが、相互の陸上交通は山脈に妨げられて困難であった。これらの谷間に、別々の小さい部落が成長し、概して海に近い所の町を中心として、農業によって生計を立てた。本土の諸都市は、地元よりもはるかに生計を立てやすい所に、しばしば植民地を設けたのである。そこで歴史的に最も古いギリシャ時代には、小アジアやシケリア島、イタリアにおけるギリシャ人たちが、ギリシャ本土にいる人々よりも、ずっと富んでいたわけだ。

 ギリシャの異なれる部分では、社会組織も非常に異なっていた。スパルタにおいては少数の貴族階級が、違った民族の非抑圧農奴たちの労働に依存して、生活の資を得ていた。比較的貧しい農業地域では、住民は主として、自己所有の土地を家族の助けを借りて耕作する農夫たちから成り立っていた。しかし商業や工業が栄えている所では、自由市民たちは奴隷を雇うことによって裕福になった。男の奴隷は鉱山で、女奴隷は織物工場で雇われたのである。

ホメロス

 ギリシャ文明の最初の注目すべき所産は、ホメロスである。現在の形におけるホメロスの思索は、紀元前560年から527年にかけて君臨したペイシストラトスが、アテナイにもたらしたもので、彼の時代以降のアテナイの青年たちは、ホメロスを丸暗記したものであり、それが彼らの教育の最も重要な部分であった。

 ホメロスにおける宗教が、非常に宗教的とは言えないことを認めなければならない。そこに現れる神々は完全に人間的であって、人間と異なっているのは不死で超人的な力を持つ、という点だけであった。道徳的にはそれらの神々は、全く褒めたものではなく、どうしてそのような神々が、人々の畏敬を呼び起こし得たのか理解し難い。ホメロスの中に見出しうる真に宗教的な感情は、オリュンポスの神々に関したものであるよりは、ゼウス神でさえ従属しているところの、運命神とか必然神、宿命神といったより漠然たる存在に対してであった。運命神はギリシャ思想の全てに多大の影響を及ぼしたのであり、おそらくそれが、自然法則というものへの信仰を科学が引き出してきた源泉の1つであったのだろう。

ディオニュソス神あるいはバッコス神

 しかしながら古代ギリシャにも、現在の我々が宗教であると感じ得るようなものが、多く存在していた。それはオリュンポスの神々に関するものではなく、ディオニュソスあるいはバッコスと呼ばれる神に対してである。ごく自然なことなのだが、我々はその神を、酒と酔いどれの何かいかがわしい神と考えている。しかしこの神の礼拝から深遠なある神秘主義が発生し、それが多くの哲学者に多大の影響を与え、キリスト教神学の形成に1つの役割を演じてさえいることは、極めて注目すべきことで、なぜそうなったかということは、ギリシャ思想の発展を学ぼうとする人々の、ぜひ理解しなければならないことである。

 ディオニュソス、すなわちバッコスは、最初はトラキアの神であった。全ての原始的農業種族がそうであるように、彼らも生殖崇拝を行い、生殖を促進させる神を持っていた。その神の名がバッコスなのである。。彼らがビールの製造法を発見したとき、酔うということが神聖なことと考えられ、彼らはそれをバッコスのせいにしてその神を褒め称えた。バッコス崇拝には多くの野蛮な要素があり、野生動物をこま切れになるまで引き裂いて、その全体を生のままで食べる、といったことも含まれていたが、奇妙にも女性崇拝の要素も存在した。

 ギリシャにおけるディオニュソス神の成功は、決して驚くべきことではない。急速に文明化された社会が全てそうであるように、ギリシャ人たちも、あるいは少なくとも彼らのある部分は、原始的なものへの愛着を発展させ、また当時の道徳が是認したよりもより本能的で情熱的な生活態度、というものへの憧れを抱くに至っていた。無理やりに、感情よりも実際の行動を文明的たらしめざるを得ないようにされた男女にとっては、合理性はわずらわしいものであり、徳は重荷であり奴隷的服従であると感じられる。このことが思考、感情、行為における反動をもたらすのである。我々が特に関心を持つのは、思想における反動なのであるが、まず最初に、感情や行為における反動について、若干述べておかねばならない。

感情、行為における反動

 文明人というものが野蛮人から区別されるのは、主として慎重さによってである。あるいは少し意味の広い言葉を使えば、先考することによってである。文明人は、将来の快楽のためなら、その快楽がかなり遠い将来のことであったとしても、現在の苦痛に喜んで耐えようとする。この習慣は、農業の勃興とともに重要なものとなり始める。いかなる動物も野蛮人も、次の冬に食料を確保するために、この春に労働するようなことはやらないのだ。これらの場合には、先行というものが存在せず、人間という傍観者の目には、明らかに後で役立つことが分かっている行動への、直接的な衝動があるだけだ。真の先行とは、何も衝動を感じないところの何事かを、将来それをやることによって利益が得られると理性が告げるゆえに、やるという場合にのみ見られるのだ。狩猟は快楽をもたらす故に、それをやることは先考を必要としない。しかし土地を耕すことは労働であり、自発的な衝動によってやり得ないものである。

文明の役割

 文明が衝動を制約しているのは、自己制約たる先考というものだけによるのではなく、また法律、慣習、宗教といったものにもよっている。文明はこの制約を、未開時代から受け継ぐのだが、文明はそれをより少なく本能的に、そしてより多く組織的なものとさせる。ある行為は犯罪というレッテルを貼られ、処罰される。またある行為は法律によって処罰されはしないが、よこしまなものというレッテルを貼られ、その行為をした人々を社会的非難にさらさせる。一方では社会の目的が個人に押し付けられ、他方では個人は、自らの生活を全体として眺める習慣を獲得して、将来のために現在をますます犠牲とするようになる。

慎重さと情熱の対立

 以上の過程は、たとえばけちん坊の場合のように、極端にやりすぎることも明らかに可能である。しかし極端にならなくても、慎重さということは容易に、人生における最良のものの幾つかを失わせることもある。ディオニュソス崇拝者たちは、慎重さに反動するのである。肉体的、精神的な陶酔の中に、彼らは慎重さが破壊したところの強度の感情、というものを発見する。その陶酔の中で彼らは、この世界が愉悦と美とに満ちていることを見出し、彼らの空想力は、日常の急務という牢獄からにわかに開放されるのである。バッコス神を巡る儀式は熱狂と呼ばれるものを発生させたが、その語源的な意味は、礼拝者の中へ神が入り込むことであり、礼拝者は熱狂によってバッコス神と合一するのだと信じていた。人間の成し遂げたことにおける偉大なものの多くは、何らかの陶酔の要素、情熱による慎重さの拒否、といったものを含んでいる。バッコス的要素がなければ、人生は味気ないものとなろうし、それがあれば人生は危険になる。慎重さ対情熱という対立は、歴史を還流しているのだが、それは我々が、いずれかの方へ一辺倒すべき対立ではないのである。

 思想の分野では、真面目な文明というものは、大雑把に言えば科学と同じことを意味する。しかしきょう雑物のない科学は満足を与えるものではなく、人間はそれ以外に、情熱、芸術、宗教を必要とする。科学は、知識というものに限界をおくことは許されるが、空想力に限界を設けるべきではない。ギリシャの哲学者たちの間には、後代の哲学者たちにおけると同様に、まず第1に科学的な人々と、まず第1に宗教的な人々がいた。後者に属する哲人たちは、直接、間接にバッコス神の宗教に多くのものを負っていた。このことは特にプラトンに当てはまるのだが、プラトンを通じて、究極的にキリスト教神学に具体化される次後の発展にも、言えることなのである。

オルフェウス

 ディオニュソス崇拝は、その初源的な形態にあっては残虐であり、また多くの点で反発したくなるようなものであった。それが哲学者たちに影響を及ぼしたのは、この初源的な形態においてではなく、オルフェウスに帰せられているところの精神化された形態においてであった。オルフェウスは禁欲的な人で、肉体的陶酔を精神的陶酔で置き換えたのである。オルフェウスは社会改革者であって、バッコス教本来のしきたりに刺激されて狂乱した女たちによって、八つ裂きにされたと伝えられる。

オルフィック教義

 オルフェウスの教えがどのようなものであったにせよ、オルフィック教義の教えは良く知られている。彼らは霊魂の移住ということを信じ、来世において魂は、この地上での生活態度に従って永遠の祝福を受けるか、永遠のあるいは一時的の苦悩を受けるのだと教えた。また彼らは、半ば浄化の儀式によって、半ばある種の汚染を避けることによって清めに到達することを目指した。彼らの主張によれば、人間は部分的に地上に属し、部分的に天井に属していて、清い生活をすれば天上的な部分が増大し、地上的部分は減少してゆく。ついに人間もバッコス神と合一し得るのであり、そうなった人はいま1人のバッコスと呼ばれた。

オルフィック教の影響

 オルフィック教は禁欲的宗派であり、その教徒たちにとってブドウ酒は、後代のキリスト教聖さん式の場合のように、1つの象徴に過ぎなかった。彼らの求めた陶酔は熱狂のそれであり、神との合一の陶酔であった。合一ということによって彼らは、普通の方法では得られない神秘的な知識を獲得する、と自ら信じていた。この神秘的要素が、ピタゴラスに始まるギリシャ哲学に入ったのである。ちょうどオルフェウスがディオニュソス宗教の改革者であったように、ピタゴラスはオルフィック教の改革者であった。ピタゴラスを通じて、オルフィック教的要素がプラトンの哲学に入り、プラトンを介して、多少とも宗教的であるような後代の哲学者のほとんど全てに、その要素が入っていったのである。

まとめ

 ギリシャ人に関する従来の言い伝えによれば、彼らは賞賛すべき沈着さを発揮し、その沈着さが彼らをして、情熱というものについて外側から瞑想しうるようにさせたのであり、情熱が何らかの美を示せばそれを把握しはするが、自らは冷静でオリュンポス的であったという。これは極めて一方的な見解である。

 オルフィック教徒は、ディオニュソス神のまだ未改革の崇拝者と同じように、沈着ではなかった。オルフィック教徒にとっては、この世における生活は苦痛でありけん怠であった。我々は、誕生と死という際限のない繰り返しを回転している車輪に縛り付けられていて、我々の真の生活は星にある。しかし我々は、大地にゆわえられている。浄化と諦観と禁欲的な生活によってのみ、我々はその車輪から脱出することができるのであり、ついには神との合一という陶酔境に到達しうるのである。

 ギリシャ人の全てがそうであったわけではないが、彼らの多くが情熱的で不幸であり、ある道を知性によって、他の道を情熱によって歩むべく駆り立てられながら、天国を考える空想力と地獄を創造する恣意的な自己主張とを持って、自らと闘争していたのである。彼らは、全てはほどほどにという格言を持ってはいたが、実際には彼らは、純粋な思考、詩作、宗教、罪、などのあらゆるものにゆき過ぎであった。彼らが偉大な場合には、偉大にさせたものは情熱と知性とのこの結合だった。いずれの1つも、1つだけでは、それ以後の時代全てを、ギリシャ人が変えてしまったようには変えなかったであろう。

 いまここに述べたことも、ギリシャ人全体を特徴付ける言葉だと解釈されれば、それはギリシャ人を沈着だと規定することと同じように、一方的な見解となる。ギリシャ人には事実、2つの傾向が存在したのであり、1つは情熱的で宗教的、神秘的、来世的な傾向で、いま1つは快活で、経験的、合理主義的で、多肢に渡る諸事実というものの知識を獲得することに興味を持つ傾向であった。

 このオルフィック教徒たちの影響から、1つの生き方としての哲学概念が発生したのである。

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コメント

たかし
No.1 (2013/04/09 23:36)
すごいねー僕も世界史やってるから関心あるよ
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