西洋哲学史

第0回 古代西洋哲学史 哲学と西洋史の概略

2013/03/18 19:36 投稿

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 哲学はそれが行われた最古の時代から、単なる諸学派が関心を示す事柄ではなく、またひと握りの学者たちが論争し合う事柄でもなかった。哲学は社会生活の統合的な一部だったのであり、哲学者はその社会的環境やその政治、制度の結果であり、また後世の政治や制度を形成していく諸信念の原因となる。それぞれの哲学者を各人の環境の所産として、また各人の属する社会というものに、曖昧に拡散した形態で共通している思想や感情が、その人の中に集中し結晶したのだというような人間として、哲学者を呈示していくのが本ブロマガの内容である。

哲学の定義

 我々が哲学的と呼んでいるところの、人生や来世に関する様々な考えは、2つの因子の所産である。その1つは、受け継がれてきた宗教的、倫理的諸概念という因子であり、他の因子は、もっと広い意味で科学的と呼びうる種類の研究である。この2つが共に存在していることが、哲学を特徴付けているのである。

 本ブロマガで言う哲学とは、神学と科学との中間に立つあるものである。神学と同じように哲学も、これまで明確な知識を主張し得なかったような事柄に関する思弁、また哲学は科学と同じように、権威というものに訴えるよりは、人間の理性に訴えるものなのである。その神学と科学の中間が哲学なのだ。

学的問題の一例

 1 世界は精神と物質とに分かれているのか?
 2 宇宙は何らかの統一あるいは目的を持っているか?
 3 自然法則は本当に存在するものなのか?
 4 高貴な生き方というものが存在し、また卑しむべき生き方が存在するか?
 5 知恵といったものは存在するか?

 以上のような様々な問題を解決することができなくとも、少なくともそのような問題を研究することが、哲学の仕事である。

哲学の目的

 では何故、そのような解き得ない諸問題に時間を浪費するのか。

 哲学が提起するところの諸問題を忘却してしまったり、あるいはその諸問題に対する疑いの余地なき解答を見出した、などと自らに信じ込ませることは、いずれも良くないことである。確実性というものなしに、しかもちゅうちょによってマヒされてしまうようなことなく、生きてゆくにはどうすればいいか、ということを教えることが、現代もなお哲学がそれを学ぶ人々になしうる主要なことであろう。

古代から現代までの神学と科学について

 哲学は、紀元前6世紀にギリシャにおいて始められた。その哲学は古代に順調な進展を見せた後、キリスト教が興りローマが滅びるにつれて、神学に圧倒されてしまった。哲学の第2の偉大な時期は、11世紀から14世紀まで続くのだが、この時期はカトリック教会によって支配されていた。この時期は、宗教改革において絶頂に達する社会的混乱によって終止符が打たれた。第3の時期は、17世紀から現代にまで続いているものだが、第1、第2の時期よりもより多く科学によって支配されている時期である。伝統的な宗教的信仰は、重要なものとしては残ってはいるが、世俗的な国家というものが、そのような人々の思弁においても、教会より重要なものとなっている。

ギリシャ哲学からキリスト教へ

 アリストテレスに至るまでのギリシャ思想は、都市に対する宗教的で愛国的な献身に支配されていて、その倫理の諸体系は市民の生活に適応させられ、政治的な要素が大きかったのである。しかしギリシャ人が最初はマケドニア人に、次いでローマ人に従属することとなったとき、より個人的であまり社会的ではない倫理を産み出した。ストア学派の人々は、有徳な生活というものを、市民の国家に対する関係というよりは、魂の神に対する関係として考えるに至った。このようにして彼らは、キリスト教への道を準備したのである。

 この長い期間に、ギリシャの自由の時代から受け継がれた思想、特に宗教的と見なされねばならないような思想は、以前より重要性を増した。合理主義的な思想は、もはや時代の精神に適しないという理由で棄てられるに至った。このようにして後代の異教徒たちは、ギリシャの伝統に適当な手入れを行い、ついにはそれを、キリスト教義の中に組み入れるにふさわしいものとさせたのである。

キリスト教の影響

 キリスト教は、神に対する人間の義務は、国家に対する義務よりもより命令的なものである、という重要な意見を大衆のものとさせた。それは初期のキリスト教徒たる皇帝たちが、アリウス説を信奉したかあるいはそれに傾いたからであり、コンスタンティヌス帝の回心以降にもなお存続していった。皇帝たちが正統派を信奉するようになったとき、その意見は中絶するに至ったが、ビザンティン帝国では、その意見は潜在的なものとして生き延びた。

キリスト教圏の拡大と権力の増大

 5世紀の末から11世紀の中頃に至る暗黒時代に西ローマ世界は、神への義務と国家への義務のとの対立は、教会と国王との対立という形態を取るに至った。最初は法王の僧正や僧院長に対する統御力は、イタリアや南フランス以外では極めて微弱なものであったが、グレゴリウス7世の時代から後に、それは確固として効果的なものとなり、法王の宗教的管轄権は、イタリア、フランス、スペイン、大英国、アイルランド、ドイツ、スカンディナヴィア、ポーランドにまで及んだ。教育が再興されるに至ったとき、、彼らの教育は古典的であり、また法律や政治に関する彼らの考え方は、当時の君主たちよりも、マルクス・アウレリウス的な考え方であった。

教会の権力が支配的になる 

 軍隊というものの全ては国王の味方だったが、勝利したのは教会であった。教会が勝った理由は、ほとんど例外なく支配者と民衆との双方が、教会は死命を制する権力を所有している、と深く信じていたことにある。部分的には教会が教育というものをほとんど独占していたからであり、国王たちが互いにいつも戦争し合っていたからだった。また教会は、君主への忠誠という義務から民衆を解除して、反乱を起こさせうるのだと信じられた。それのみならず教会は、無秩序ではなくて秩序を代表し、そのために新興商人階級の支持を勝ち得たのである。

秩序の崩壊

 しかし教会内での非常な対立、調停的動き、ルネッサンスの法王制、といったものはついに宗教改革をもたらし、その改革はキリスト教徒たちの統一を破り、また法王を中心の座に据えるスコラ的政治説を打破してしまった。またコペルニクスの天文学は、地球や人間というものに、トレミーの理論が与えていたよりずっと謙虚な位置しか与えなかった。知的な人々の間では、推論し、分析し、体系化することの喜びが、新しい事実を知る喜びに取って代わられていた。

法王とローマ皇帝の権力の衰退

 政治理論においても秩序の崩壊があった。全ての権力が究極的には神から派生したものであり、神はその権力を、聖なる事柄については法王に、世俗的な事柄については皇帝に、移譲しているのだという。しかしながら法王と皇帝とは、15世紀にはともにその威厳を失っていた。フランスやスペイン、イギリスにおける新しい国家的君主制は、それぞれの領土内においては、法王もローマ皇帝も干渉することのできぬ権力を持つに至ったり、文明の統一というローマ的信仰の残存をも、次第に打ち壊してゆくのである。

宗教改革とその影響

 16世紀以降のヨーロッパ思想史は、宗教改革に支配されている。国家的動機、経済的動機、道徳的動機の全てが1つとなって、ローマに対する反逆は強化された。更に諸君主は、まもなく次のことに気付くに至った。すなわち、もし領土内の教会というものが、ただ単に国家内の制度ということになれば、自分たちがそれを支配しうるのであり、また、したがってそうなれば、法王と支配を共有しているときよりも、国家内においてより強力となりうるだろう、ということである。

 カトリック教会は、3つの根源から派生した。その聖なる歴史はユダヤ的であり、その神学はギリシャ的であり、その統治や教会法規は少なくとも間接的にはローマ的であった。宗教改革はそのローマ的要素を拒否し、ギリシャ的要素を和らげ、ユダヤ教的要素を大いに強化したのである。カトリックの教説によれば、神の啓示は聖書に終わらず、教会を媒介者として、いつの世にも続いて行われるものであるから、教会に対しては、個人は自らの意見を従属せしめるのが義務であることになる。その反対にプロテスタントは、啓示の担い手としての教会を否認し、各人が自分流に解釈しうる聖書の中にのみ、真理を求むべきであるという。例えこの解釈が人々によって異なるとしても、その対立を落着させるための、神によって任命された権威というものは存在しない、ともいう。

 このような変化の諸効果は巨大であった。真理はもはや、権威に徹することによって確かめ得ず、内的な省察によって探知しうるものとなった。また政治にあっては、無秩序への傾向が急速に成長し、宗教においては神秘主義への傾向が発展した。更にそこに存在するに至ったのは、ただ1つのプロテスタンティズムではなく、多数の新興諸宗教であり、またスコラ主義に抗するただ1つの哲学ではなくて、哲学者の数に等しく多様な諸哲学であり、13世紀におけるように法王に対するただ1人のローマ皇帝ではなくて、多数の異教的国王なのであった。その結果、主観主義が間断なく深まり、それは初めは、精神的奴隷状態からの健全な開放として作用したが、社会的健全性にとっては有害な個人的孤立、という方向へまがうかたなく進行したのである。

主観主義と無秩序主義とその影響

 近世哲学は、デカルトと共に始まる。デカルトにとって根本的に確実なことは、自分自身と自分の思考が存在することであり、外部世界はそれらの存在から推論すべきものであった。これは、バークリーからカント、フィヒテへと続く一つの発展の最初の段階に過ぎず、フィヒテにあっては、あらゆるものが自我の発散に過ぎなくなる。これは狂気であり、この極端に到達してから後の哲学は、日常の常識世界へ逃れ出ようと試み続けてきたのである。

 哲学における主観主義と政治における無秩序主義とは、手を携えて進行する。再洗礼派の人々は、善人はあらゆる瞬間に、公式に縛られるはずのない聖書によって導かれる、と考えたために全ての法規を否認したのである。しかし彼らの教説は、和らげられた形でオランダやイギリス、アメリカに広がった。無秩序主義あるいは無政府主義のもっと激烈な一形態が、19世紀に発生するに至る。それはロシアやスペインで多大の成功を収め、イタリアでもかなり成功した。道徳においては、個人の良心に対するプロテスタント派の強調は、本質的に無秩序的であった。18世期の感性崇拝は、その平衡を破り始めた。当時ある行為が賞賛されるときには、それが良き帰結を持つとか道徳律に適っているとかのためではなく、その行為を鼓舞したところの感情のためであった。この種の態度から、カーライルやニーチェによって表現されたような英雄崇拝が発展し、またいかなる種類であるかを問わず、とにかく激しい情熱に対するバイロン的崇拝が生まれたのである。

自由主義とその影響

 近代におけるより不健全な主観主義諸形態に抗して、様々な反動が存在してきた。まず第1には、中途半端な妥協をした哲学たる自由主義があり、それは、政治と個人とにそれぞれの所を得しめようとした。自由主義の近代的形態は、ロックと共に始まる。彼は、絶対的権威や伝統に対する盲目の服従に反対したのと同じように、再洗礼派の個人主義に対しても反対した。より徹底的な反逆は、国家崇拝という教説をもたらすのであり、それは国家というものに、カトリック教義が教会、あるいは時として神に与えたような位置さえも、賦与するものなのである。ホッブス、ルソー、ヘーゲルは、この説の異なれる諸相を代表していて、彼らの教説は事実上、クロムウェルやナポレオン、近代ドイツに具体化されている。

まとめ

 紀元前600年から現在に至るこの長い発展を通じて、哲学者たちは、社会的紐帯を強めようと欲する人々、それを緩めようと欲する人々に分けられてきた。規律を重んずる人々は、新旧に関わらず何らかの独断体系を擁護し、したがって多かれ少なかれ、科学に敵対的にならざるを得なかった。なぜなら彼らの独断説は、経験的に証明することが不可能だったからである。彼らはほとんど常に、幸福は善ではなく、高貴さあるいは英雄的行為が望ましいものだと教えた。また彼らは、理性が社会的団結に有害であると感じたために、人間性の非合理的な部分に同情を持っていた。それに反して寛大で放任的な人々は、極端なアナキストたちを除いて、次のような諸傾向を持っていた。すなわち、科学的で、功利主義的で、合理主義的で、激しい情熱に反対であり、また宗教のあらゆる深刻な諸形態に敵対する、という傾向である。

 社会的団結はどうしても必要なことの1つであり、人類はこれまで、理性的な議論だけで団結を実現させることに成功してはいない。全ての社会は、2つの双対立する危険にさらされている。一方には、規律の箇条や伝統崇拝の方による形骸化の危険があり、他方には、協力を不可能とさせるような個人主義の成長と個人的独立、というものによる社会の解体あるいは外敵の侵略への屈服、という危険がある。リベラリズムの本質は、非合理的な独断に基づかない社会的秩序を確保し、社会の保存に必要である以上の諸制約を設けないで安定を保障しようとする試みなのである。この試みが成功するかどうかは、将来のみが決定しうるのだ。

次回 第1回 古代西洋哲学史 ギリシャ文明の勃興 ar162041


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