SOHIKO BLOMAGA

小池壮彦 怪奇探偵ブロマガ vol.57

2014/12/31 17:33 投稿

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  • vol.57「日本語の源流と女人酋長の文学」
  • 歴史と社会
宿命の原型について
  ――日本語の源流と女人酋長の文学


 東京オリンピックに向けて、競技施設や選手村が集中する臨海部に、東京都が「英語村」なるものを設置するという。この村では英語のみが使われる。小中高生を対象とし、日本語の使用を禁止するという施設である。国内にいながら留学体験ができるというふれこみで、日本語より英語を使いたい人にとってはありがたい施設なのかもしれない。

 この種の植民地的発想はいまに始まったことではない。グローバリズムを進める政策として英語の公用語化を目指す発想は明治初期の頃からあった。戦後にもそのような動きはあって、日本語をやめてフランス語を公用語にしようと主張したのは、近代の代表的小説家・志賀直哉である。しかし当然ながらその計画はうまくいかないままなのに、いまだに「英語村」なんぞを作って日本語廃止を図ろうと躍起になっている役人たちがいるらしい。

 ふりかえれば、明治初期の教育政策は、近代化に向けて日本語の廃止を本気で目指す向きもあった。これは西洋文明への依存を企図した当時の政策においては、まったく意外なことではなかったが、結果的にそれがなされなかったのは、日本語が思いのほかに柔軟な言語であることを明治人が再発見したからである。この点、明治人はまだまともだった。

 西洋文明はすべて日本語で翻訳できる。そのことを明治人は発見した。そこで夥しい数の翻訳語が生まれ、その語彙が日本語に溶け込んだ結果、日本人は日本語によって西洋文明を理解した。そのノウハウは、清国滅亡後の中国人や、独立を目指すインド人に影響を与え、アジアの革命運動家は西洋を知るために日本語を学んだ。西洋の科学も文学も哲学も、日本語さえマスターすれば、日本語の翻訳書で読める。その環境を作ったのが日本の近代知識人であり、その下地を作ったのは江戸時代の蘭学者・洋学者だった。

 日本の近代化が翻訳によってなされた結果、私たちは従来「英語村」を必要としなかった。英語で書かれたもので、私たちが学ぶべきことは、おおむね日本語で学べたからである。その状況が日本人の英語力を非力にさせた原因であると考える人は、いまからでも日本語を廃して英語の公用語化に向かいたいらしいのだが、そのことはさしあたって私たちが関心を持つべき重要な問題にはなり得ない。日本語の廃止? やれるものならやってみればよろしい、というだけのことだろう。

 それよりも、私たちが考えるべきことは別にある。
 

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