彼はとつぜん嵐のごとく出現する。そしてまたよくあることだが、これらの支配者は土着の民と同じ粘土でできたのではない。彼らは天からやってきたり、もっとよくあるケースでは異なる民族出身であったりするのである。
どちらの場合も王族は外来者である。
マーシャル・サーリンズ『歴史の島々』
海の向こうから訪れた〝外来神〟が、どのようにして現人神(あらひとがみ)となり、まるで古くからの土着の神であるかのように化けるのかを見てみよう。
1778年、英国海軍士官のジェームズ・クックは、ハワイ諸島のカウアイ島に上陸した。巨大な船であらわれたヨーロッパ人の姿に、ハワイの人々は驚いた。翌年、ハワイを再訪したクックは、現地で〝神〟として迎えられた。ハワイ人にとっての神は、海の向こうからやってくる〝まれびと〟だった。彼らは〝平和と豊穣の神〟がいつか再訪すると信じていた。
クックにとって、神として歓待されるのはめずらしい体験ではなかった。航海のさなかに訪れた島々で、原住民に〝来訪神〟と見られることはよくあった。そこでクックは島民たちの幻想を尊重し、神であるかのようにふるまう演技を忘れなかった。島民はクックに〝神の嫁〟として島の女を差し出し、喜びの宴を催した。しかし、島民のなかには疑問を持つ者もいた。
やがてクックは島を去ったが、暴風雨に遭って船が故障し、またハワイに引き返すことになった。傷ついた船を見た原住民の間で、クックが神であることへの疑念が広がった。島民に船の修理を要請する水兵たちの態度は、あまりにも人間くさいものだった。
ある日、クックの船に積まれていたボートを島民たちが強奪した。怒った船員と島民の間に険悪な空気が流れ、トラブルは小競り合いに発展した。やがて戦闘となり、多数の島民がクックと船員を拘束した。クックは全身をめった打ちにされ、船員とともに惨殺された。
ある日、クックの船に積まれていたボートを島民たちが強奪した。怒った船員と島民の間に険悪な空気が流れ、トラブルは小競り合いに発展した。やがて戦闘となり、多数の島民がクックと船員を拘束した。クックは全身をめった打ちにされ、船員とともに惨殺された。
米国の人類学者マーシャル・サーリンズは次のように述べている。
ハワイ人は、クックを彼らの歳神、すなわちとりわけ農業の実りを司る神として知られている〝ロノ神〟の再来と受け取ったのである。
このことは、1779年2月14日に彼を殺害する妨げとはならなかった。
しかし殺害されるや否や、クックはハワイの支配首長らによって、神格を持つかつての王として祀られることになったのである。
どこからともなくやってきた外来王は、力を失って殺されることで、あらためて祀りなおされた。ここに外来神は晴れて土着の神となったのだ。おそらく時間が経てば、この〝土地の神〟の起源を語る物語は、遠い過去の時代にさかのぼるものとして記憶されることになるだろう。新しく作られた神話が、あたかも太古の事実のように語られる日は近いのである。
ハワイ人が信仰する〝ロノ神〟は、平和と農耕の神であり、作物の実りを左右する気象の神、すなわち天神でもあった。キャプテン・クックがハワイに来たとき、島民は偶然、ロノ神の祭りのさなかだったとも言われている。それでクックを神もしくは神の使いと思ったらしいが、日本でも来訪神は、天の船でやってくる。水平線のかなたは空と海の区別がなくなるゆえに、信仰の上で、天と海がくっつくのである。そこで〝天(アマ)〟と〝海人(アマ)〟は同じ語となる。天孫族と海人族の融合が神話の鍵となるのである。
ハワイの原住民は、大昔にポリネシアから海を渡って移住した。日本列島に流れ着いた南方種族と同じ海人族である。すると日本列島の先住民にとって、北方から来た扶余族は、武力にすぐれた神にたとえられたに違いない。神に女性を差し出して首長の権威を得るのはポリネシアの風習である。古代日本でも同様で、この慣習は8世紀の律令制度で明文化されている。
古代の後宮職員令では「凡諸氏ハ氏別ニ女ヲ貢セヨ。皆年三十以下十三以上に限ル」と規定されている。諸氏族は13歳から30歳までという年齢制限で娘を朝廷に貢ぐことが義務化されていた。朝廷に貢がれた女性は〝采女〟(うねめ)と呼ばれ、天皇や皇后などのお世話をする女官となった。神の嫁として天皇に仕えたのは、折口信夫が言う〝水の女〟すなわち海人族の娘であった。天人と海人が融合して日本の秩序が作られたのである。
古代の後宮職員令では「凡諸氏ハ氏別ニ女ヲ貢セヨ。皆年三十以下十三以上に限ル」と規定されている。諸氏族は13歳から30歳までという年齢制限で娘を朝廷に貢ぐことが義務化されていた。朝廷に貢がれた女性は〝采女〟(うねめ)と呼ばれ、天皇や皇后などのお世話をする女官となった。神の嫁として天皇に仕えたのは、折口信夫が言う〝水の女〟すなわち海人族の娘であった。天人と海人が融合して日本の秩序が作られたのである。
能力のある采女のなかには、皇后に準ずる権力を持つ女性もあらわれた。皇位継承者の乳母となることで政治力を蓄積し、天皇の信頼を得て政策を左右するようにもなった。藤原不比等の後妻となった県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)もそのひとりである。
キャプテン・クックが〝来訪神〟としてハワイの住民に崇拝され、神通力を失って惨殺されるまでの経緯には、奇しくも日本の遠い過去の残像が見え隠れしている。ちなみに、クックが殺された2月14日というのは、平将門が殺された命日でもある。シンクロニシティはそれだけではない。将門の母親は県犬養春枝女(あがたいぬかいのはるえのむすめ)という素性の知れない女性であるが、県犬養氏というのは、前述の県犬養三千代の同族である。
県犬養三千代は元明天皇から〝橘〟の姓を賜って、橘三千代となる。采女から始まった女官としては破格の出世をした人である。藤原不比等との間に授かった娘は、聖武天皇の妃となって、後に光明皇后となる。三千代の前夫の息子である橘諸兄も政権トップに上り詰めた政治家だったが、後ろ盾だった光明皇后が亡くなると、橘氏の勢力は衰退する。必然的に県犬養氏も没落するが、その庶流の末裔が関東にいて、娘が平将門の妻になったのだ。
県犬養三千代は元明天皇から〝橘〟の姓を賜って、橘三千代となる。采女から始まった女官としては破格の出世をした人である。藤原不比等との間に授かった娘は、聖武天皇の妃となって、後に光明皇后となる。三千代の前夫の息子である橘諸兄も政権トップに上り詰めた政治家だったが、後ろ盾だった光明皇后が亡くなると、橘氏の勢力は衰退する。必然的に県犬養氏も没落するが、その庶流の末裔が関東にいて、娘が平将門の妻になったのだ。
この時代の結婚は婿入りである。姓は父系継承であるが、地盤は母系継承である。したがって系譜だけ見ると男系でつながっていても、表の記録にあらわれない部分は女系である。この双系システムからすれば、社会的実態についてはむしろ母方の系譜が重要になる。天智系王朝に反旗をひるがえした将門の母親が、過去の天武系王朝で力を持った県犬養氏から出ているというのは意味深長である。
東国武士が源頼朝を担いだのも、頼朝の母方家系が、海人族の尾張氏だったことに鍵がある。頼朝亡き後に北条政子がカリスマとなったのもしかりである。北条氏もまた平氏の名を借りた海人族だった。彼らにしてみれば、頼朝は〝外来王〟である。キャプテン・クックの例でもわかるように、外から来る者は常に現地人より少人数である。また女性をともなっていないことが多いから、必然的に来訪した土地の女性と婚姻することになる。
仮にキャプテン・クックがハワイの神として君臨したとしても、神の系譜を続けるためには島民の娘の家に頼るしかない。地盤はあくまで娘を差し出した〝家〟にある。系譜としてはクックの男系子孫が〝神〟の座を継承するが、実態的には母方の家が力を持つ。つまり、来訪する神はいずれ土着島民のお飾りとならざるを得ず、至極当然のなりゆきとして母方が重要になる。いまの日本ではよく女性の社会進出が足りないと言われるが、裏で糸を引く役割が表に出てくるときというのは〝危機〟の場合であることを忘れている。
仮にキャプテン・クックがハワイの神として君臨したとしても、神の系譜を続けるためには島民の娘の家に頼るしかない。地盤はあくまで娘を差し出した〝家〟にある。系譜としてはクックの男系子孫が〝神〟の座を継承するが、実態的には母方の家が力を持つ。つまり、来訪する神はいずれ土着島民のお飾りとならざるを得ず、至極当然のなりゆきとして母方が重要になる。いまの日本ではよく女性の社会進出が足りないと言われるが、裏で糸を引く役割が表に出てくるときというのは〝危機〟の場合であることを忘れている。
天皇の外戚が権力を持つというのは、藤原氏以前に蘇我氏がやっていたことだが、これも誰かの発明というよりは、必然的にそうなったにすぎないだろう。そしてキャプテン・クックが神でないことがばれたときに生け贄にされたように、古代の天皇にも断絶と再生がある。その再生のときに女帝が立つ(vol.35参照)。国史に天皇として記録されなかった飯豊天皇(飯豊青皇女/いいとよあおのひめみこ)もその例であり、天武系王朝で皇統の整合性を保つために女帝の即位をもって説明装置としているのも同じことである。単に過去に女性の天皇がいたから、いまでも女性天皇がいてもいいだろうというような話ではないのである。
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