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論考的小説『「小説」に「ドキュメンタリー」はあり得るのか?』

2016/03/12 13:26 投稿

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本当に、お久しぶりですね、皆さん。

たぶん、これが新年初のブロマガの記事になると思われる。

実際は、年が明けてからもニコニコ動画やYouTubeの方に「動画」はupしていたし、時事ネタや芸能ネタは、僕自身のもう一つのブログ『ともなりたかひろ.com』http://fanblogs.jp/muryokukoushi/で書いてはいたのだが、以前も言った通り、このブロマガは僕自身の「芸術家的記事」しか書かないことにしているので、こんなに「今年初のブロマガの記事」の執筆が遅くなってしまった。

理由は、もう一つある。

それは3月末締切りの中編小説の執筆で忙しかったからである。
実際は、丸々1年もの猶予があるのだから、ゆったり書き進めていけばよいものだが、僕自身の性格が、れいの「夏休みの宿題をギリギリまでやらない」タイプゆえ、結局は、あれこれ違うこと(音楽制作や動画制作)に浮気している間に、結局、1月下旬からケツに火をつけられたかのようにやる気が出てきて、2月、3月中旬という、物凄く余裕のない時間の中で、141枚の中編小説を書かざるを得なくなったのである。

その小説の出来栄えについては、――言わない。しかし、一つ言えるのは、結局僕の書いたその141枚の中編小説は、「物語」であって、「小説」ではない、ということだ。

「物語」とはただの「パターン」である

「小説」とは、フライという批評家の説に従えば、「物語」、「告白」、「アナトミー」(百科辞書的な知識の羅列)、その全ての要素を含んだ、「ジャンルの混合体」だという。

その意味でいえば、芥川龍之介は「物語」(パターン)しか書かなかったという点で、「物語作家」であり、「小説家」ではない。
そして、晩年の芥川と対立した谷崎潤一郎も、膨大な量だが、「物語」しか書かなかったという点では、同じく「物語作家」である。

そして、晩年の芥川さんが志賀直哉の小説を「純粋な小説」として評価した、という視点は、言い換えると、「小説」というジャンルにおいて「ドキュメンタリー」はあり得るのか、という問いになるのではないか、と思われる。

例えば、「映像芸術」と「小説」を比較してみたとき、

コップがある。

という表現でさえ、全く「表象の範囲」(その一つの事・モノ・言葉で表している現実の範囲)が違うことが分かるだろう。

映像芸術の場合は、「コップがある。」という「事態」の、「背景」(そのコップがどこにあるのか、また、そこは部屋なのか、また、その部屋には誰かいるのか、など)まで「共時的」に(その時間に同じ空間にあるすべての事物を含め)「描写」されているのである。

しかし、小説の場合は、勝手が違う。小説というジャンルは「線的」だからである。
一行だけでは、その一行に関する「共時的」な(その瞬間に存在している他の全ての事物)「背景」までは分からない。
後は、「線的」に、続けて描写していく他ないのだ。

こう考えると、「小説」における「ドキュメンタリー」など、やはり「不可能なのではないか」という諦めが、自ずと浮かんでくる。


そうなのだ。事実、不可能なのである。例えばさっきの、

コップがある。

という一文を考えてみよう。

これを「ドキュメンタリック」=「共時的」=「映像的」に表現するには、まず「コップがある。」という一文の「コップ」という単語を、あらゆる「言い換え」をしなければならないのだ。

コップ」という単語は、およそ次のように「言い換え」られる。

1【外見】「ガラス」「壊れやすいもの」

2【用途】「手に持つもの」

3【原始的な別名】「入れ物」「容器」

4【公的別名】「商品」

5【私的別名】「思い出のもの」

この「言い換え」から、次は「シュチュエーション」(筋書き)を考えていかなければならない。

例えば、1【外見】「壊れやすいもの」に即して考えれば、次のような展開になるだろう。



コップがある。机ギリに置かれており、落ちそうだ。



あるいは、2【用途】「手に持つもの」ならば、



コップがある。他に、携帯電話と、タバコがある。

となる。



3【原始的な別名】「入れ物」「容器」ならば、



コップがある。ポカリを入れようと思っている。



4【公的別名】「商品」ならば、



コップがある。――この商品に関する会議がいよいよ始まる。



というシュチュエーション(背景)も可能性として浮かんでくる。



最後の、5【私的別名】「思い出のもの」ならば、



コップがある。――だが、あの人はもう、いない。



という、まったく別の物語性をすら浮かんでくるのだ。

・・・という具合に、「コップがある。」という一文を「ドキュメンタリック」=「共時的」=「映像的」に示すには、これだけの「注釈」が必要なのである。

やっぱ、無理かもしれんね。


最後に、関係ないが、震災から5年ということで、2012年にニコニコ動画にupした、詩『3.11』を置いておく。





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