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小説『ひとつになるとき』あとがき

2015/07/15 21:03 投稿

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この『ひとつになるとき』という中編小説における主なテーマは、2つあります。


1つ目は、それぞれの「3.11」があった、ということです。


言い換えると、3.11」的な天災が、不幸だったと思う人もいれば、(言い方が悪いですが)皮肉にも幸福な出来事だったという人もいた、という事実です。


例えば、作中でも出てきますが、長年引きこもり生活を続けていた青年にとっては、外の世界に出るチャンスを「天災」によって与えられたわけですから、これは後者の「幸福な出来事」と取れるわけです。


あるいは、防災シェルターを開発した会社員の人にとっては、出世できるチャンスなわけですから、これも後者の「幸福な出来事」に属すると思われます。


・・・というように、様々な立場の人から見た「3.11」的天災を描きたかった、というのが1つ目のテーマです。


2つ目のテーマは、「最後の最後において、誰を生き延びさせるべきか?」です。


このテーマは、現在の社会を観察していて、以前から(それこそ『人はパンのみにて生くるにあらず』から)僕に通底している「問題意識」の一つでした。


現在の社会は、――すいません、ざっくり言わせてもらいますが、「少ない席の奪い合いをしている」社会だと思うのです。


表面上は、震災から4年経ち、「東京オリンピックを成功させる!」という目標を掲げ、「経済活動」が活発化しかけており、ちょっと和気藹々な「お祭りムード」も国民たちに戻ってきています。


がしかし、その実情は、そのへらへらした「お祭りムード」に隠れて、やっぱり「少ない席の奪い合い」をしているように思うのです。


それは、経済界でもそうでしょうし、雇用の問題でもそうでしょう。


例えば、雇用の問題でいえば、消費税が上がって、傾きかけた会社で真っ先に首を切られるのは外国人の方だ、というエピソードをとある社会学者の方が話しておりました。


人々は「少ない席の奪い合い」をし、「自分の席」をゲットしたものは、安堵の笑みを浮かべ、そこからはもう、「他人」のことなどどうでもよく、自分の「家庭の幸福」のために毎日「笑顔」で生きていく。。


僕は、そんな人間たちの「自分さえ良ければいい」というふるまいは人として最も醜いものだ、とずっと思っていました。


本来、救われるべき人が救われず、本来、救われるべきではない人が救われている。


宇多田ヒカルさん的に言えば、“誰かの願いが叶う頃 あの子が泣いてるよ 願いは 同時には 叶わない”不条理な世界なわけです。


そこから派生して、「最後の最後において、誰を生き延びさせるべきか?」というテーマが浮上してきたのだと思います。


そこで、僕が参考にした本のある箇所があります。


それは『現代倫理学入門』(加藤尚武著)の第三章「10人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか」です。


著者は、「10人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか」問題において、次のような選択肢をあげています(ちなみに、次の選択肢は、小説中でも形を変えて物語の終盤の会話で出てきます)。


くじ引きで決める(平等的判断)。

社会に最も貢献しそうな人にあげる(功績主義的判断)。

一番高額な金を払う人にあげる(経済的判断)。

犯罪によりエイズになってしまった可哀想な少女にあげる(道徳的判断)。

みんな死んでもいいから均等に分ける(これは一概に言えません。人によって、さまざまな解釈があると思います)


さて、貴方ならば、どの「選択肢」を選びますか?


ちなみに、僕はこの小説『ひとつになるとき』では、残念ながら(?)、⑤を採用しました。


全員死んで欲しい、と思ったのです。


しかし、全員死んだからといって、全員が救われなかったか・どうかは、また別の問題です。


作中、確かに全登場人物が死にますが(というか、8章では死人も出てきますが)、僕の考えでは、救われなかった人もいれば、救われた人も確実にいるのです。


というわけで、この『ひとつになるとき』という小説の中で、「いったい誰が救われたのか?」を考えるのもまた、面白いのではないでしょうか。


その「答え」は、ぜひご自身の目で読んで確かめてみてください。


以上です。


追記


これは余談ですが、僕はなぜ今回「天災」に「」を選んだのか、自分でも疑問だったのですが、最近になって、なにか、わかってきたように思います。


一つは、僕の頭の中にある「終末」のイメージは、決して「核一発でドーン!」というものではなく、ずっと淡々と長雨が続き、「いつのまにか」、みんな死んでいく、というものだったからです(ここらへんは森鴎外の歴史小説の影響でしょう)。


もう一つは、――これは個人的な話ですが、僕は「」の中に「」のイメージを、そして「」の中に「母性」のイメージを連想していき、さらにそれを、執筆当時の僕自身の心にあった「胎児回帰願望」(お母さんの子宮の中に戻りたい願望)に繋げていったからだ、とも思っています。


地上の全てが水で沈んでしまい、その水中に多くの死人たちがビルの狭間でたゆたっている。――それはまるで母体に包まれているような安堵感を感じませんか? …なんとなく。


というわけで、この「あとがき」を持って、小説『ひとつになるとき』もまた、「滅亡」します。


参考にした作品として、『旧約聖書』内の「ノアの方舟」(これは当然ですが)、『現代倫理学入門』(これもさっき紹介しましたが)、鳥居みゆき『方舟』(舞台DVD)、いとうせいこう著『想像ラジオ』を挙げておきます。


また、この作品の宣伝に携わってくれた多くの皆さん、本当にどうもありがとうございました。


2015715日 ともなりたかひろ


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