敬愛する伊瀬勝良くんへ
まず、僕はこの論文で、自分と「共通の規則」を共有しない者を「他者」とする。
逆に、私から見て相対的に存在する一般的な「他者」(「共通の規則」を共有する者)を「他者」とは呼ばないことにする。
また、自己対話(モノローグ)、あるいは、自分と「共通の規則」を共有する者との「対話」を、「対話」とは呼ばないことにする。
勿論、そこには「他者」がいないからだ。
ところで、哲学は「内省」からはじまる。
それはつまるところ、自己対話(モノローグ)から始まる、ということを意味する。
このことは、例えばプラトンの弁証法(共同で真理を追究する)において典型的に見られる。
プラトンの弁証法は、「対話」の形式を取っているけれども、「共通の規則」に則っている以上、「対話」ではない。そこには「他者」がいないからだ。
こうして、「他者」を無視したところでは、「他者」との会話は「自己対話」(モノローグ)になり、「自己対話」(モノローグ)が「他者」との「対話」と同一視されることになる。
これを「独我論」と言い換えてもよい。
「独我論」ときくと、僕たちは「私が存在しているのであって、世界が存在しているのではない。だから、私が死ねば、即ち、世界も終るのだ」というような定義に落ち着きがちだが、僕の文脈では「私に言えることは万人に当てはまるのだ」というような、「他者」を排除した考えをも含むのだ。
ここまでの話をまとめると、「他者」とは、絶対的に非対称(理解し合えない)な関係のことを指す。
ここで、少し哲学者ウィトゲンシュタインの話をしたい。
前期のウィトゲンシュタインは、「この世のあらゆる問題は、記述(言語)が論理的に正確であれば簡単に解決できる」と考えた。
つまりそれは、裏を返せば、「『言語』には一定の規則(ルール)がある」ということを、知らずのうちに「自明性」の中に入れ、疑っていない、ということを意味する。
後期ウィトゲンシュタインは、外国人や子供(つまり他者)を対象にし、「『言語』には一定の規則(ルール)がある」という「自明性」を疑っていく。
ウィトゲンシュタインは、次のように言う。
『われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない……。』
つまり、我々はお互いの言語の意味を共有し合っている、ということを証明できない。それは所謂「幻想」なのではないか? というような問いである。
さらに話を進めれば、相手によっては、こちらの言語が意図してない形の意味で伝わったり、あるいは、そもそも意味さえも伝わっていないかもしれない、という問いが生まれる。
話ここに到って、僕たちの文脈でいう「他者」(「共通の規則」を共有しない者)の存在に立ち返ることになる。
つまり、言い換えれば、こちらの言語が意図してない形の意味で伝わったり、あるいは、そもそも意味さえも伝わっていない状態においてこそ「他者」は出現するのである。
さて、ここまで述べて、僕たちはようやく『オナニーマスター黒沢』の議題に入る下準備が整ったことになる。
小説の中盤まで、主人公である黒沢には、「他者」が存在しない。
従って、小説の大半が(形式的にも内容的にも)「自己対話」(モノローグ)に終始している、といってよい。
その証拠に、黒沢と北原との関係を見るがよい。
一見すると、支配的な関係の黒沢と北原の会話は「対話」に見える。
しかしその実、黒沢と北原は、同じ「日陰者」同士という、「共通の規則」の元で、「対話」をしている。
その時点で、黒沢にとって、北原は「他者」ではない。
むしろ、北原という存在は、全編を通して黒沢の「自己意識」の延長としての役割を与えられているに過ぎない。
だから、黒沢と北原の「対話」は、広範的にいって「自己対話」(モノローグ)に回収されるのである。
しかし、物語にある転機が訪れる。
それは、嫉妬に狂った黒沢が、悪事の腹をすえて、滝川マギステルの教科書やノートに大量の精液をぶっかけた後、抜け殻状態になりつつも、ほとんど事務作業かの如く次の「悪事」を働こうとして、無人の教室に入ったとき目にした事実である。
ここで、今一度ウィトゲンシュタインの問題を思い起こして欲しい。
僕は前述の通り、こちらの言語が意図してない形の意味で伝わったり、あるいは、そもそも意味さえも伝わっていない状態においてこそ「他者」は出現する、と言った。
その意味でいえば、黒沢はこの時点でようやく「他者」を発見することができた、といってよい。
それが言い過ぎならば、「他者」の「他者性」を実感を持って理解することができた。
そして、これを境に黒沢の態度は変わっていく。
「他者」という“深淵”を垣間見た黒沢は、自分自身も、他人から見れば「他者」であることに自覚を持ち(というより全員の前でカミングアウトし)、なんとか「他者」との通路の回復を試みるために、自己改革の道を突き進んでいく。
勿論、前述に沿って考えれば、「他者」とは絶対的に非対称(理解し合えない)な関係である以上、通路の回復など矛盾している。
しかし、今では黒沢も、そして、クラスのみんなも、同じ「他者」であるという「共通の規則」を共有している状態なのだ。
ここに『オナニーマスター黒沢』の「転回」がある。
つまり、「他者」に対して「他者」を立てることにより、「他者」を脱構築したのである。
そして、一見すると、物語的には、私から見て相対的に存在する一般的な「他者」(「共通の規則」を共有する者)同士の関係に落ち着いた、というのが『オナニーマスター黒沢』の帰結に見える。
が、実はそうではない。
それは、私から見て相対的に存在する一般的な「他者」と、「他者」と「他者」同士であるという前提において相対的に存在する「他者」とは質的に違うからだ。
いささかパラドックスめいた言い方になるが、「共通の規則」を共有し(非他者的)ながらも、「他者」と「他者」同士の関係ならば、「対話」を生むことが可能になるのである。
ここにも、『オナニーマスター黒沢』の「転回」がある。
この「転回」は、今でも画期的なことであると僕は思う。
まとめると、この小説は、『オナニーマスター黒沢』というタイトルが暗に示すように、「独我論」から抜け出せず、即ち、そこには「他者」が存在せず、「自己対話」(モノローグ)の中に生きていた主人公黒沢が、「他者」を発見し、かつ、自分も「他者」になることによって、「他者」と「他者」同士の関係という、新たな関係性の可能性を示唆した小説だ、と言えるだろう。
最後に余談だが、黒沢の性癖はバタイユの『エロティシズム』とほぼ同系のものである。興味のある方は、ぜひバタイユの『エロティシズム』を読んでみるといい。
それでは、これで『オナニーマスター黒沢」論を終わりとする。