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『オナニーマスター黒沢』論――「他者」とは何か?――

2015/02/11 21:10 投稿

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              敬愛する伊瀬勝良くんへ



 まず、僕はこの論文で、自分と「共通の規則」を共有しない者を「他者」とする。

 逆に、私から見て相対的に存在する一般的な「他者」(「共通の規則」を共有する者)を「他者」とは呼ばないことにする。

 また、自己対話(モノローグ)、あるいは、自分と「共通の規則」を共有する者との「対話」を、「対話」とは呼ばないことにする。
 勿論、そこには「他者」がいないからだ。

 
 ところで、哲学は「内省」からはじまる。

 それはつまるところ、自己対話(モノローグ)から始まる、ということを意味する。

 このことは、例えばプラトンの弁証法(共同で真理を追究する)において典型的に見られる。

 プラトンの弁証法は、「対話」の形式を取っているけれども、「共通の規則」に則っている以上、「対話」ではない。そこには「他者」がいないからだ。

 こうして、「他者」を無視したところでは、「他者」との会話は「自己対話」(モノローグ)になり、「自己対話」(モノローグ)が「他者」との「対話」と同一視されることになる。

 これを「独我論」と言い換えてもよい。

「独我論」ときくと、僕たちは「私が存在しているのであって、世界が存在しているのではない。だから、私が死ねば、即ち、世界も終るのだ」というような定義に落ち着きがちだが、僕の文脈では「私に言えることは万人に当てはまるのだ」というような、「他者」を排除した考えをも含むのだ。

 ここまでの話をまとめると、「他者」とは、絶対的に非対称(理解し合えない)な関係のことを指す。


 ここで、少し哲学者ウィトゲンシュタインの話をしたい。

 前期のウィトゲンシュタインは、「この世のあらゆる問題は、記述(言語)が論理的に正確であれば簡単に解決できる」と考えた。

 つまりそれは、裏を返せば、「『言語』には一定の規則(ルール)がある」ということを、知らずのうちに「自明性」の中に入れ、疑っていない、ということを意味する。

 後期ウィトゲンシュタインは、外国人や子供(つまり他者)を対象にし、「『言語』には一定の規則(ルール)がある」という「自明性」を疑っていく。

 ウィトゲンシュタインは、次のように言う。


『われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない……。』


 つまり、我々はお互いの言語の意味を共有し合っている、ということを証明できない。それは所謂「幻想」なのではないか? というような問いである。

 さらに話を進めれば、相手によっては、こちらの言語が意図してない形の意味で伝わったり、あるいは、そもそも意味さえも伝わっていないかもしれない、という問いが生まれる。

 話ここに到って、僕たちの文脈でいう「他者」(「共通の規則」を共有しない者)の存在に立ち返ることになる。

 つまり、言い換えれば、こちらの言語が意図してない形の意味で伝わったり、あるいは、そもそも意味さえも伝わっていない状態においてこそ「他者」は出現するのである。


 さて、ここまで述べて、僕たちはようやく『オナニーマスター黒沢』の議題に入る下準備が整ったことになる。

 小説の中盤まで、主人公である黒沢には、「他者」が存在しない。

 従って、小説の大半が(形式的にも内容的にも)「自己対話」(モノローグ)に終始している、といってよい。

 その証拠に、黒沢と北原との関係を見るがよい。

 一見すると、支配的な関係の黒沢と北原の会話は「対話」に見える。

 しかしその実、黒沢と北原は、同じ「日陰者」同士という、「共通の規則」の元で、「対話」をしている。
 その時点で、黒沢にとって、北原は「他者」ではない。

 むしろ、北原という存在は、全編を通して黒沢の「自己意識」の延長としての役割を与えられているに過ぎない。

 だから、黒沢と北原の「対話」は、広範的にいって「自己対話」(モノローグ)に回収されるのである。

 しかし、物語にある転機が訪れる。

 それは、嫉妬に狂った黒沢が、悪事の腹をすえて、滝川マギステルの教科書やノートに大量の精液をぶっかけた後、抜け殻状態になりつつも、ほとんど事務作業かの如く次の「悪事」を働こうとして、無人の教室に入ったとき目にした事実である。


――滝川のロッカーを、調べてみよう。
彼女がどんな絵を描いたのか興味があった。(中略)
絵の具を乗せすぎて不自然な凹凸ができた画用紙を、目の前に広げる。
すると、そこには。
遊園地の中に笑顔で並んでいる、五人の男女が描かれていた。
真ん中の男女は、手を繋いで糸みたいに目を細くして笑っている。
背の高い男のほうは、ブロッコリーみたいな天然パーマで。
彼と手をつないでいる女性は、どう見ても滝川マギステル自身だった。
二人の脇には、少し太めの男の子と、眼鏡をかけた背の低い女の子。
そして一団の端っこには、個性のない格好で、文庫本を片手に似合わない笑顔を浮かべて立っている、僕とそっくりな男の子が描かれていた。
彼らの頭上にそびえる観覧車のプレートには、英字でユニバーサル・スタジオ・ジャパンと書かれている。
見覚えがある。こんな光景に。
僕は、画用紙の下にセロテープで貼られている白い紙に視線を落とした。絵を描いた生徒の氏名と作品のタイトル、作品に込めた想いを綴る、葉書サイズの薄い紙だ。
美しい筆致で描かれたこの絵のタイトルは『修学旅行』。
タイトルの下の説明文には、「私がこの三年間で一番楽しかったイベントは修学旅行。卒業したら、またみんなで行きたいな」という、滝川の小さな夢が添えられていた。(中略)
「滝川……」
水彩画で描かれた五人の笑顔を見ていると、心が皺だらけになった。
滝川は、どんな気持ちでこの絵を描いたのだろう?
正体不明の影に怯え、クラス全体を巻きこんだ事件の被害者にされて……それでも彼女は、この絵を描いた。
かつて人とうまく接することのできない暗い小学生時代を送った少女の小さな夢が、この絵に集約されている。どんなつらいことがあっても、彼女が失いたくなかったもの。
今、僕の手によって汚された滝川は、この絵の中にいる彼女のようには笑わなくなった。
彼女の心に影が落ちている。
その影を落としたのは、僕だ。
彼女が思い描いた夢の中には、彼女と並んで笑う僕の姿が、あったのに。
「ごめんな、滝川……」
気がつくと僕は泣いていた。


 ここで、今一度ウィトゲンシュタインの問題を思い起こして欲しい。

 僕は前述の通り、こちらの言語が意図してない形の意味で伝わったり、あるいは、そもそも意味さえも伝わっていない状態においてこそ「他者」は出現する、と言った。

 その意味でいえば、黒沢はこの時点でようやく「他者」を発見することができた、といってよい。

 それが言い過ぎならば、「他者」の「他者性」を実感を持って理解することができた

 そして、これを境に黒沢の態度は変わっていく。

「他者」という“深淵”を垣間見た黒沢は、自分自身も、他人から見れば「他者」であることに自覚を持ち(というより全員の前でカミングアウトし)、なんとか「他者」との通路の回復を試みるために、自己改革の道を突き進んでいく。

 勿論、前述に沿って考えれば、「他者」とは絶対的に非対称(理解し合えない)な関係である以上、通路の回復など矛盾している。

 しかし、今では黒沢も、そして、クラスのみんなも、同じ「他者」であるという「共通の規則」を共有している状態なのだ。

 ここに『オナニーマスター黒沢』の「転回」がある。

 つまり、「他者」に対して「他者」を立てることにより、「他者」を脱構築したのである。

 そして、一見すると、物語的には、私から見て相対的に存在する一般的な「他者」(「共通の規則」を共有する者)同士の関係に落ち着いた、というのが『オナニーマスター黒沢』の帰結に見える。

 が、実はそうではない。

 それは、私から見て相対的に存在する一般的な「他者」と、「他者」と「他者」同士であるという前提において相対的に存在する「他者」とは質的に違うからだ。

 いささかパラドックスめいた言い方になるが、「共通の規則」を共有し(非他者的)ながらも、「他者」と「他者」同士の関係ならば、「対話」を生むことが可能になるのである。

 ここにも、『オナニーマスター黒沢』の「転回」がある。

 この「転回」は、今でも画期的なことであると僕は思う。

 まとめると、この小説は、『オナニーマスター黒沢』というタイトルが暗に示すように、「独我論」から抜け出せず、即ち、そこには「他者」が存在せず、「自己対話」(モノローグ)の中に生きていた主人公黒沢が、「他者」を発見し、かつ、自分も「他者」になることによって、「他者」と「他者」同士の関係という、新たな関係性の可能性を示唆した小説だ、と言えるだろう。

 最後に余談だが、黒沢の性癖はバタイユの『エロティシズム』とほぼ同系のものである。興味のある方は、ぜひバタイユの『エロティシズム』を読んでみるといい。

 それでは、これで『オナニーマスター黒沢」論を終わりとする。


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