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嫉妬心について――森鴎外の人生――

2014/03/02 19:32 投稿

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 古今東西、「嫉妬」が歴史を形成してきた、といっても過言ではない。

 こと文学の世界で嫉妬に人一倍敏感だったのは、かの森鴎外である。

 鴎外は、陸軍に任官してからというもの、同期の人間との猛烈な出世争いにしのぎを削ってきた。

 鴎外は当時の医学先進国たるドイツへの留学を目指していたが、成績が8番とふるわなかったため、念願の文部省給費留学生(いわゆる特待生のことだ)にはなれず、失意の底にあった。その頃、同級の者たちは次々と陸軍に入っていたのである。

 失意の鴎外を救ったのは、同級の小池という青年である。

 一足早く陸軍に入っていた彼は、上司である軍医本部次長の石黒なる人物に手紙を書き、鴎外の陸軍行きを推薦してくれた。この同期とはいえ八歳年長の者から受けた恩を、鴎外は後に仇で返すことになる。

 嫉妬深かったのは、なにも鴎外だけではない。

 とくに谷口謙たる人物は頭一つ抜けた嫉妬深い男であったそうだ。仲間の身持ちの悪さを上官に告げ口し帰国させるような陰険さを持ち合わせていた。当然、鴎外もその陰険さのターゲットになった一人であった。

 鴎外はこの谷口の妨害により、医学研究を断念し、軍医の実務を学ぶはめに立ち至ったのである。プライドの高い鴎外としては、並みの軍医なら誰でも出来る軍医実務に不満たらたらであった。

 それでも、同期生で昇進競争を勝ち抜いたのは、鴎外と鴎外を引き抜いてくれた小池であった。彼らは二等軍医正、軍医学校教官とほぼ前後して出世の階段をのぼっていった。

 二人の友情に亀裂が生じたのは、明治26年だったといわれる。

 石黒(鴎外を陸軍に入れてくれた人)は、医務局長を辞することを決意し、小池を後任とするレールを敷いた。これは、かたや小池は将来の局長を約束されたことを意味し、かたや鴎外が陸軍の中枢ラインから外されたことをも意味する。

 繰り返すようだが、鴎外は実に嫉妬深い人物である。当然、この手の人事も屈辱ととる男である。ゆえにこの事件についての激情は、すぐさま『舞姫』という文学作品にて吐露されることになる。


 官長はもと心のままに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想を懐きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。


 鴎外周辺の人間模様を知る者ならば、すぐにこの文章中の「官長」は石黒であり、自在に動く「器械」は小池であることに気づく。

 軍部に身を置きながら文学活動もしている鴎外を気に食わない連中は多かったが、鴎外はこの手の文学上の復讐を何度もしている。

 はっきりいって、こうした公私混同はフェアではない。なぜといって、小池たち官僚は、立場上、人事の真相を明かすことができなかったからだ。仮に抗議すれば、登場人物が自分たちであることを認めてしまうことになる。ここに文学者の強みがあり、官僚の弱みが存在する。

 こうなると小池たちは、どうやったら鴎外の舌鋒を切り抜けて彼を苦しめることができるか、そこに知恵を絞るようになる。

 そこで彼らは閃く。

 官僚の世界には人事権がある。これを利用すればよいのだ。

 こうして鴎外は1899年の6月に、第十二師団軍医部長に命じられた。この東京の近衛師団から小倉の二桁番号への転勤は、どう贔屓目に見ても「左遷」と言ってよい。彼らの心情をまとめれば次のようになるだろう。

 ――嫌ならば陸軍を去るがよい。好きな文学活動に専念して、今後一切軍部の人事に不満を持たなければよい。

 しかし、そこは鴎外もバカではない。当時の愛読書だったクラウゼヴィッツの『戦争論』の中の一節“弱国の受動的反抗”を手本に取りながら、小池一派の勢力が衰える日を忍耐強く待ったのである。

 この辛抱強さを嫉妬と呼ばずになんと呼ぶのだろうか。

 その後も小池らからの妬みによる下策をたびたび切り抜けながら、鴎外もついに勝負に出た。

 明治陸軍の大立者山形有朋への接近である。常盤会という歌詠みの集まりに出席し、山形の機嫌を取り、彼の圧力を借りて小池一派らを制圧しようと画策したのだ。

 やがて鴎外は山形との縁もあって、総理大臣や陸軍大臣とも手を組むことに成功する。さすがの小池も不承不承鴎外を後任として認めざるを得なくなる。しかも鴎外は不遜にも小池の人事に関する要望をすべてはねつけたのである。まさに鴎外の嫉妬が実を結んだ瞬間であった。

 周知の如く、この後鴎外は挫折を経験し、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という孤独な遺書を残して最後の瞬間を迎えることになるのだが、ここには欲しかったものが得られなかった無念さと共に、この期に及んでもなお懲りない嫉妬心を抱いていたことが見受けられるのであるから、まこと嫉妬心とはげに恐ろしいものと言わざるを得ない。


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