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トイレの底の手記

2013/09/25 22:35 投稿

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 お久しぶりです。
 どれくらいぶりの露出か、僕自身わかりかねますが、いずれにせよ、僕はなんとか生きておりました。
 ところで、この一文はいわゆる踏み絵のような役割を果たすことになるでしょう。というのも、これから取り返しのつかないことばかりを書くつもりだからです。
本音を書けば他者から嫌われ、本音を隠せば自分から嫌われる。
 けれども、この場所は僕自身の場所なのだから、本音を書いてたっていいでしょう。というより、本音を隠すほど有名人でもないのだった、ああ、バカらしい、なんのことはない、一言で言えるじゃないか、今の僕は読みたい人だけが読めばいい、という自暴自棄なスタンスなのだ。
 離れる人は離れるがよい。
 後述するつもりですが、僕は現在岐路に立たされております。だから、こうした素っ気無い態度も致し方のないことなのです。

 さて、早速、本題に取り掛かりたいと思います。
 僕は現在、うつ病にかかっています。
 いや、正確に言うと、もうずっと長いこと、うつ病だけではなく、さまざまな精神疾患を煩っております。知っている人は、知っていることでしょう。
 ただ、今はうつ病の症状が主なので、以下にうつ病の特徴を抜粋しておきたいと思います。


・抑うつ気分

・思考力の低下

・意欲の低下

・不眠

・食欲の低下

・疲労感・倦怠感

・性欲の低下


 見事なまでに、これら全てに当てはまっています。
 本当はこうして文章を書くのもしんどいのですが、自殺念慮がないだけ、まだマシかもしれません。
 ところで、こうして羅列してみると、うつ病が精神的(観念的)な病気に思えるかもしれませんが、むしろ本当のうつ病は徹頭徹尾「身体的な症状」なのです。
 心ではなく、体そのものが、とても、しんどいのです。
 ここは、誤解して欲しくないところです。
 おそらくこれは“言葉の綾”が原因で、例えば、自殺も「飛び降り自殺」と表記すれば、何やら精神性を帯びた行為に思えるかもしれませんが、それを「脳みそがこぼれ落ち、内臓が破裂した状態の、醜い肉の塊になる行為」と具体的に言い換えてみれば、その「本質」がわかってくるでしょう。
 俗に“精神的”とコーティングされているものは本来、とても即物的な性質なのです。

 現状をざっと申し上げますと、週4でバイトをやっていますが、それ以外の時間はほとんど廃人のような生活を送っております。休日など、一歩も外へ出られません。また、文章を書くどころか、パソコンを立ち上げることすらできず、ただただしんどく、泥水のように横になっている日々が続いております。当然、煙草と、酒と、精神薬の量はかさむ一方です。こんな状態ゆえ、今の生活形態がいつまで続くのかは、僕にもわかりません。
 『風立ちぬ』というポエトリーリーディング内でも言いましたが、僕は今年の7月に一度ぶっ倒れ、近くの総合病院へ緊急搬送されました。
 しかし、別段これがはじめてというわけでもなく、以前も2回ほど、突然てんかんのように倒れて、病院へ救急搬送された経験を持っています。
 医者たちは不審顔で、「ちょっと原因はわかりませんけど、レントゲンには異常は見当たりませんでしたので」と言って僕を放逐するわけですが、その実、僕自身はその原因を知り過ぎるほど知っているんです。
 全て、僕のメンタルが限界にきた時(あるいは、薬の飲みすぎた時)にぶっ倒れているんです。
 そして前回、北里東病院に通院したとき、適応障害とうつ病を診断され、自立支援制度とやらを受ける運びにもなり、医者からも「とにかくね、君はとても疲れている。今は、休みなさい」と念を押されていたのですが、なにせお金(僕の預金も実家の蓄えも含めてです)が一切ないゆえ、切羽詰った中でも仕事を見つけなければならず、継続的な通院も許されず、事態は悪化する一方という、負のスパイラルに陥っておりました。
 これが9月になり、夏の暑さが下火になれば、徐々に雰囲気も変わってくるのではないか、運気も上がってくるのではないか、とぼんやり思っていたのですが、一向に風向きが変わる気配はなく、むしろどんどん悪化の一途を辿っているようで、僕の心には絶望の虫が集り始め、繰り返しになりますが、僕は現在、ある種の岐路に立たされているのを強く感じております。

 思い起こせば、去年の9月がすべての始まりでした。
 永年務めていたバイトを辞め、なんの風の吹き回しか知りませんが、正社員になりたく思い、東京で就職活動を二月ほどしましたが、結果、何一つうまくいかず、もう、正社員などどうでもいい、バイトでいい、やはり精神の自由が一番だ、などと思い直し、さまざまなバイトの面接に行きましたが、今ではバイトすらロクに受からない有様で、月日は経っていくのに、自分の椅子が見つかる気配は全然なく、預金残高はぐんぐん減る一方で、僕の不安は増大していくばかりでした。
 今年の4月には僕の預金はとうとう5万を切り、焦りの余り狂うようになり、そこへきて父が癌を宣告されたものですから、僕のストレスも一気に極限に達し、とうとうぶっ倒れてしまったのです。
 別段、父の身が心配だったからではありません。
 自分は未だ定職についていなく、また、仕事にありつけるかどうかすらわからず、また、万が一仕事にありつけたとしてもパニック発作を起こしてすぐ辞めてしまうかもわからない、そんな状況で父が亡くなれば、年金も遺族年金に変わり(支給額が今の半額になり)、いよいよ僕たちは暮らしていけなくなるだろう、と思われたからでした。

 今はもう、なんでも正直に話すつもりです。

 なぜ、僕がこのような生き方になってしまったのか。
 それを一言で言うには圧倒的に言葉が足りないし、それを言葉で網羅するには絶望的なほどに神経が足りません。
 ただ、焦点を絞れば、以下の3点になるかと思います。
 社会不適合者であること。
 お金がないこと。
 孤独であること。
 ところで、悲しみ方には二種類あると思われます。
 一つは、個別の事象を悲しむこと。
 もう一つは、そんな事象が起こる世界そのもののあり方を悲しむことです。
 いわば、前者は「人間目線」で、後者は「世界目線」と言えるでしょう。そこには当然、価値観の差異が存在するわけです。
 この次元において、「この世はどれだけ努力する価値があるのか?」も決定されていきます。後者ならば、「努力しなければならないこの世そのものが空しい」となるので、努力の価値をさえ認めなくなります。
 どうやら僕は後者のようです。
 何より一番大きいのは、「僕の中に僕を支えてくれるものが存在しない」ということです。
 月並みな言い方になりますが、僕は「なぜ生きていかなくてはならないのか?」ということが、28才にもなって、やはり全然わからないのです。それは仕事を変えようが、恋愛をしようが、どうしても発見できないことでした。
 にこやかに話をした後にふと死にたくなる。
 この極端から極端への心理的運動は、やはり自分という存在を支えるものが何もないということを強く意識させる事象だと思います。
 僕はこの不安定さを、「所属」の問題だと看做しています。
 これが、なんらかの「コミュニティー」(家族や会社)や「役割」に所属できていたならば、話は違っていたかもしれない、と思うことがあります。
 親という役割。
 会社員という役割。
 バンドの一員という役割。
 なんでもいいですが、僕にはこのなんらかの「役割」に“所属する”という感覚がとても薄く、幼少から今まで過ごして参りました。
 従って、唯一「所属」しているのは、「自分が存在している」という永遠に変わらない疎外感だけで、この地点から一歩も進めずにいるのを強く感じております。余談ですが、僕のブログの「自我.com」というタイトルは、こういう思いから取られております。
 それは仕事に関しても同じことで、「所属感」が一切ないので、「いつでも降りられる」という隙間風が常に吹いており、しばしば12日で仕事を辞めてしまったり、あるいは、何の連絡もなくバックレて先方を仰天させたり等、最近では人間関係においてトラブルメーカーになりつつあります。仕事だけでなく、これまでの人生において、僕は一度も「所属感」を持ったことはありません。
 しかし、Twitterでも少し触れた通り、僕は演じられるところまでは演じる性格らしく、仕事においても、プライベートにおいても、“所属しているフリ”を演じられるところまでは演じ、それが堪えられず、破綻したときに、忽然と姿をくらますようです。
 そして、一度破綻した人間関係と目を向け合おうとは、一切思わないようです。

 こういう風に考えてみますと、人生とは耐えること以外の選択肢がないゲームに思えてきます。
 そこに僕の人生観も加わり、いつも「逃げる」ことばかり考えております。
 酒や、薬や、性的逸脱は、僕の貴重な逃げ場所であり、空っぽな自分を支えてくれる大切なものです。
 特に、女のひとの存在は、きわめて重要な支えと言えるかもしれません。
 僕は母性を強く希求しています。
 それは、前述の通り、どこにも所属できない不安がそうさせるのかもしれません。
 ただ、よくマザコンといえば「実の母親を求める」と解釈されがちですが、僕の場合そうではなく、自分の「理想の(原型としての)母性」を求めているだけなのです。ミケランジェロの描いた「最後の審判」の聖母みたいなものです。と言っても、まったくわからないでしょうが(僕自身も、よくわかっておりません)。
 僕は母性に包まれて、一度でいいからゆっくり休んでみたい、鎧を脱いでみたい、という夢を強く抱いております。それは、良い作品を書きたいという願望よりも、遥かに強い願望となっております。
 おそらく男のひとの中には、「好き・嫌いのレベル」とは別に、「本能的に求めているレベル」が存在するのではないでしょうか。
 僕は、口うるさく、理屈を滔々と述べるような女のひとを「嫌い」じゃありません。それはそれで面白い人だな、と思います。あるいは、勝気で、男勝りで、例えば和田アキコみたいな人が嫌いかと言えば、別に嫌いではありません。そのシュチュエーションにおいては、頼もしいなぁ、と思うかもしれません。
 しかし、それは「好き・嫌いのレベル」の判断であって、決して僕が「本能的に求めているもの」ではないことも事実です。
 母性を感じさせるような女のひとが、最近少なくなってきているようで、その点、大変がっかりしております。
 芸能界でいえば、以前、テレ東の大江麻理子アナに母性を感じていましたが、しかし、と同時に、こんな薄汚れた僕にあんな素晴らしい人を好きになる資格はない、汚らしい、という卑屈な思いも強く感じております。
 などと、だいぶ話が逸れてしまいましたが、ともかく、一時の慰め欲しさに人生を生きている、ということは、これは歴然たる事実のようあります。

 以上のようなことから、僕の人生観はなかなか厭世的なものとなっております。
 まず、長生きしようだとか、結婚しようだとか、子供が欲しいだとか、そういった「一般的な幸福」をまったく望んでいません。
 望んでも得られないから諦めたのでは? と突っ込まれそうですが、事実そうでもなく、元々なかったといって差し支えないように思われます。
 そもそも、「一般的な幸せ」という考えに所属できないこと自体が不幸だ、ということは、繰り返すまでもないことでしょう。
 ゆえに、クズだとか、底辺だとか、そういった言葉たちに落ち込むこともありません。と同時に、モラルにも、非常に鈍いところがあるように思います。気にする気にしない以前に、あまりモラルにのっとった考え方をしない人間のようです。
 僕は、自殺や、落伍者になることを、なんら否定していません。むしろ、現代社会においては本能的な選択なのではないか、とすら思っているんです。
 根本的に、「どうしたら幸福に生きられるか」という思考ではなく、「どうしたら幸福のまま逃げ切れるか」という思考なのです。
 例えば「薬物なんてダメだ」と言われても、僕はなんとしかして合法的に薬物を得ようとするでしょう。それは決してモラルに反発しているわけではないのです。ただ、僕にはそんなモラルがどうのこうのと議論している余裕はない、と言いたいだけなのです。
 そういう性格上、ゲスいことも平気で考えるようです。
 例えば、犯罪者でもとても美男子だったら全国民から許されるのではないか、という妄想も、真剣に考えていたりするのです。
 そういう意味では、いわゆる思想犯的な一面があるのかもしれません。

 前にも申しましたように、僕が何らかの形で作品を残すのは、やはりいつ死んでも悔いがないようにするための下準備と言えそうです。
 ことに小説は僕の遺書のようなものです。
 精一杯の言葉たちです。
 それは時代の否定面ばかりを拾い上げているので、そこを毛嫌いする人が大半なのも仕方のないことだ、と思っております。だから、僕が今後一般的な意味で著名人になることはないでしょう。ただ、今は別段社会的野心にこだわりがあるわけではないので、それでもいい、とも思っております。
 僕はただ、僕と同じく、「社会の異端者」と指呼されている人々に対して、少しの慰めになってくれたらいい、と思っているだけなんです。
 というより、僕には前述のような「病的な自分」と付き合うのに精一杯で、そんな野心をうまく扱うだけの余裕がない、というのが本当のところかもしれません。
 「仕事」という言葉を、「経済的な結果を伴うもの」ではなく、「この世における自分の使命」と訳すとすれば、「ものを書き残すこと」が「僕の仕事」だと思うところもあり、その点、まだ「僕の仕事」は残っているとも思うのですが、ことほどさように、気分の偏重が激しく、才能が一定ではないので、一貫した才能の発揮が難しいということも、「僕の仕事」の完成を困難なものにしております。

 ところで、こうしてざっと自己分析してみますと、「なんだかんだ深刻ぶっているが、おまえは単なる子供なのではないか?」とも思えてきます。
 たしかに、あらゆる束縛から逃げたい、という思いや、それらに対する責任感覚の欠如は、他でもない、子供の感覚なのです。
「自分はなぜこの場所にいるのか?」
「自分はなぜ生きていかなくていけないのか?」
 こういう哲学的な地平は、誰だって所持しているものです。特に思春期の青年はそうかもしれません。しかし、それを生活の多忙さの中で誤魔化していくのが所謂「大人」なのではないでしょうか。しかし、僕は未だに哲学的な地平に立っています。よって、以前ポエトリーリーディングで使用した「周回遅れ」という言葉がぴったりくるのです。
 僕は以前の生放送で、藤圭子さんの自殺を咎めたりしましたが、本当は彼女のことを責める資格など僕にはないのです。
 僕だって「自分一人の幸福」しか考えられないから、こうして喘ぎ、苦しんだりしているのですから。これが、少しでも他者のことを思いやれる人間だったり、ボランティア精神が豊富な人間だったり、それこそ所属感を持っている人間だったならば、逆に「私だけ勝手に死ぬわけにはいかない!」と思い直すはずでしょう。
 自分だけ勝手に死ねるというのは、やはり自分一人の幸福しか考えれない、他者との通路が絶たれてしまった、視野の狭い、くだらない人間なのでしょうけれど、僕はこれまで、どうしても、この考えを回心させてくれる機会(人間)にめぐり合うことが出来ませんでした。
 人間を嫌い、人間から嫌われる。
 どちらも悪いのならば、どちらも悪くないのです。だから、これはもう、僕の生まれ持った「因果」とさえ言えるかもしれません。

 さて、このように洗いざらいぶちまけて、何人の人が残るでしょうか。
 以前の僕は、コミュニティーメンバーが一人減っただけで、奇妙に傷つくような人間でしたが、今はもう、別に離別は恐怖はありません。
 繰り返します。
 離れる人は離れるがよい。
 僕は現在岐路に立っており、もうそこまで選択を迫られているのです。
 例えば、僕のTwitterのフォロワーの多くは年下で、ラノベ的な思考停止をしています。本当のことを言えば、あまり尊敬していません。あんな低脳な奴等とは付き合い御免だ、と思うところもあります。それはいつぞやのTwitterでも述べました。しかし、これまで協力関係を続けてきました。それはひとえに僕の利益のためでした。が、つい先日、拙作『人に迷惑をかけるな』の宣伝の際、大して利益にならないことがわかってきて、一切がどうでもよくなりました。利益にならないのに我慢するのは、いかにも不合理なことです。
 ああ、僕が僕の作品を有料化したとき、どれだけの人がそれを購入するだろうか?
 この選択は、僕にとって「命がけの飛躍」と言えるでしょう。
 恥ずかしい結果になる可能性がきわめて高いことは重々わかっていながら、それでも、僕が僕らしく生きていくためには、とても重要な決断のように思えるのです。
 少なくとも、これからは作品をupしても、こちらから大々的に宣伝はしないつもりです(長編などの定期宣伝は除きますが)。見たい人だけが見ればよい。至極簡単、それだけの話です。
 ただ、これまで僕のことをかばって、僕の作品を積極的にRTして下さった方々には、本当に感謝しています。この場を借りて、お礼させていただきます。
 僕はもう、これからは少数の「理解ある人たち」に向けて表現するだけなのです。
 以上です。
 お達者で。
 これが永遠のお別れなら、永遠にお達者で。


コメント

しづき
No.1 (2013/09/25 23:56)
いろいろここに書こうかと思いましたが、うまくまとまらないのでやめにします(情けない)。
私とよく似ていると思わせるところ、かけらほどにも似ていないところ(飽くまで私の読解力の限りで、ですが)が交互に書かれている印象があって、ごく個人的に面白い文章でした。……という感想が失礼にあたらないかと心配しつつ。
これからの活動も1読者、1リスナーとして見ていきたい。
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