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論文『ポスト・メディア論から見る「キンプリ」ブーム(応援上映)の異常性について』

2016/04/14 13:21 投稿

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まず、先に断っておくと、この記事は『キンプリ』という映画を「単独」に批判しているわけではない、ということだ。


むしろ、『キンプリ』など、現在の日本のポスト・メディア的状況(背景)が生み出した「一例」に過ぎない。


ゆえに、以下に記すのは、「今、我々はどのようにメディアと付き合っているのか?」という「メディア論」が主眼であり、その「視点」から『キンプリ』ブームを「分析」してみる、ということがこの記事の「目的」である。



さて、「今、我々はどのようにメディアと付き合っているのか?」という「メディア論」を語るに差し当たって、我々は、次のような「疑問」からはじめなくてはならない。

以下の長文は、僕のTwitterからの引用である。


やくみつるでも、誰でもいいが、今のトレンド解説屋の「視点」には、今の時代の「大衆」は、あらゆる「ニュース」(社会的事象)に対して、「適応する」(理解する)ことを「諦めている」くせに、「組織化された無知」=「国民全員で知っているようなフリをしている」という「根本」にある「病理」を見る「視点」が抜けている。



例えば、テレビは「まったく違う時期」に「まったく違う場所」で起きた「同じような事件」を「同列」に流したりする

この時点で、僕たちは、「あれ、このニュースって、最近起きた殺人の方? それとも、数年前にあった事件だっけ?」とまでは「思考」するが、その次に「バトミントン選手の不祥事」という別の「文脈」を流された時点で、我々の頭の中の「時系列的思考」は崩され、もう頭の中ではニュースに「適応する」(追いつく)のを諦めている


こうして、次々流れるニュースに「適応する」のを諦め、「曖昧な理解」のまま、「時代」は過ぎ去っていくのだが、皆、「分かったフリ」をして「笑っている」のである。

これが、松岡正剛氏の言う、「組織化された無知」である。

「無知」でも「全国民が知っているフリ」を装えば、なんとなく「時代」を「皆共通で理解している」ように見えてくる「トリック」だ。
弱いシマウマが大勢で固まっているとひどく強い動物に見えるカラクリと似ている。


この「組織化された無知」に加え、最近、台頭しているのが「組織化された無知のイベント化」である。

実質、この時代に何一つ「新しい意味」などない、という「事実」を「無視」し、とにかく「イベント」(お祭り)を起こし、それを大勢の人が「体験」(組織化)することで、何やら「新しい風潮が起きてる!」と「錯覚」させる手法である。


『キンプリ』とかいう『劇場アニメ』における、「大勢の人」(組織化された無知)が「イベント型」の「体験」をする、という「イベント」(お祭り)の光景こそ、「組織化された無知のイベント化」の最たる例であろう。

彼らは体で「体験」したこと「のみ」が、「意味」(価値)と「なる」と思っているのである。

だが、その「体験」について、誰も立ち止まって「解釈」(意味づけ)などしない。

しかし、「誰も立ち止まって「解釈」(意味づけ)などしない」連中が、「組織化」(集合)すると、何やら「新しいブーム(意味)なのではないか?」という「錯覚」に陥るのである。



ずっと前に「マス・メディア」は、常に「新しい意味」=「スター/流行」を「ねつ造」し続けなければならない、ということをTwitterで呟いたことがある。

「なでしこジャパン」などは、最たる例である。

彼女たちが「新しい意味」=「スター/流行」になる「必然性」などどこにもない。「暗い日本に希望を与えてくれる存在」なら他の何かでもいいわけで、それは「取り換え可能」なものに過ぎない。


事実、現代のサブ・カルチャーにおいて、「新しい意味」など「ハード」(形式)面においてかろうじてあるだけで、「ソフト」(内容)自体は、なんら新しいものではなく、「過去の焼き直し」に過ぎないのである。

それは、「音楽シーン」を観れば一目瞭然であろう。

まったく異質の者たち(例えば「アイドル」×「演歌歌手」など)が「コラボする」という「ハード」(形式)が変わっただけで、歌っている歌自体は90年代の歌だったりするのだ。

我々は、よく「90年代後半は・・・」云々と回顧しがちだが、本当は、90年代の音楽シーンは「失われた記憶」ではなく、「薄まった記憶」に過ぎないのだ。

まだ、ずるずると地続きにそれを断ち切るターニング・ポイント(意味)が見いだせていない、という確固たる「自覚」を誰も持っていないゆえ、そういった「倒錯」した感覚に陥るのである。


昔のトレンド解説屋は、よく「90年代後半は・・・」という「決まり文句」を十中八九言っていたものである。
しかし、「現在」は、どうだろうか?

「ゼロ年代前半は・・・」

と、その「時代」を「通時的」に(連続した歴史として)語れるだろうか?



――さて、この「地点」から、昨今の『キンプリ』ブームについて言及しなければならない。

それにはまず、現代のオタク系文化の「おさらい」からせねばなるまい。


まず、オタク系文化において、「オリジナル」と「コピー」の「区別」はない。

なぜならまず「原作」自体が、「深層」にある「データベース」物語のパターン世界観の設定キャラの類型萌え要素などのデータ)を「参照」して、その「データベース」内の「データの組み合わせ方」で「原作」を作っているからだ。

この時点で、「一から俺が作ったオリジナルな『原作」だ!」と「原作者」は言えるわけがない

その出来上がった「原作」は、「オリジナル」ではなく、「『データベース』(諸要素)から取り出してきた『コピー』の『組み合わせ』」に過ぎないのだから。

専門用語を使えば、「シミュラークル」(根拠のない見せかけだけのオリジナル)に過ぎない。

だから現在、オタク系文化において、漫画にしても、アニメにしても、大量の「よく似たような作品」=「シミュラークル」(根拠のない見せかけだけのオリジナル)が氾濫している。

そして、今や「原作」「二次創作」も、どちらも「『データベース』(諸要素)から取り出してきた『コピー』の『組み合わせ』」に過ぎないので、「等価値」で「消費」されている。


さらに、『動物化するポスト・モダン』において、東浩紀氏は、「ポスト・モダン」(ここでは、『現代の日本の状況のこと』、としておく)以降、オタクたちは「シミュラークルの水準で生じる小さな物語への欲求とデータベースの水準で生じる大きな非物語への欲望」へと移行した、と言っている。
この表現、少し、難しいかもしれない。
これを、分かりやすく言うと、例えば、ノベル・ゲーム「消費」において、オタクたちは、作品の「表層」である「小さな物語」(萌え要素を含むドラマ)と、作品の「深層」である「データベース」(システム)を分ける志向を持っている、ということである。

前者は、文字通り、「萌え要素」の組み合わせによって実現される効率のよい感情的な満足を望んでいることを指す。

後者は、そんな素敵な作品を一旦「データベース」に還元し、その「新たなデータベース」から、また「新たな組み合わせ」の「作品」(シミュラークル)を創ってくれることを望んでいることを指す。


さらに、東浩紀氏は、オタクたち「動物的」消費行動について、こう書いている。

「デ・ジ・キャラット」に萌え「Air」に泣いているオタクたちの消費行動もまた、「動物的」という形容にまさに相応しいように思われる。彼らは、感情的な満足をもっとも効率よく達成してくれる萌え要素の方程式を求めて、新たな作品をつぎつぎと消費し淘汰している

そして、

『そのようなオタクたちの行動原理は、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる』

オタク系文化における萌え要素の働きは、じつは抗精神薬やテクノ・ミュージックとあまり変わらない』

と言及している。

その理由を、

その情熱を鎮めるための「大きな物語」が存在しないからだ』

と言っている。


――どうだろうか。

ここまでの文章内の、「デ・ジ・キャラット」「Air」というを、『キンプリ』に置き換えれば、昨今の『キンプリ』ブームに熱狂しているオタクたちの消費行動に一から十まで当てはまる。

さらに付言するならば、『キンプリ』ブームに乗っかっているオタクたちの「人生」には「大きな物語」(意味)がないゆえに、「イベント」(お祭り)という「意味」にコミットしたがる、という「逆説」も成立するようだ。

「組織化された無知のイベント化」加わることで、なんとか「人生」に「意味」を見出そうとしているのである。

悲しいことであると思う。

(了)


PS.
・・・と、ここまで堅苦しいことを書いておいてなんだが、『4月限定』で発表している、「電力自由化」をテーマにした、ともなりたかひろの「2016年初」の短編小説『いまはまだねむるこどもに』(「縦書き文庫/無料」)を、最後に宣伝しておく。

4月いっぱいで「消す」つもりなので、読むのなら今のうちです、とだけ言っておく。



短編小説『いまはまだねむるこどもに』(7ページ)→http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/19054





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