えぇと、まず宣伝です。
『WiLL Online』様で書かせていただいております。
暇空茜の件、『トランスジェンダーになりたい少女たち』の件、松本人志の件とタイムリーな話題を斬っております。
ぶっちゃけ今回ランキングが伸びてないので、是非見てみてください。
それと動画も。
さて、noteの方はフェミニズムが生み出す「冤罪」についての記事を再録。五年前、2018年11月30日に発表された記事です。
フェミニズムとは冤罪そのものであることを、本記事でご理解いただクコとを望みます。
では、そういうことで……。
* * *
というわけでテラケイ師匠ご推薦のフェミ本読書会、今回は中盤を採り挙げます。
前回をご覧になっていない方は、そちらから読んでいただくことを、強く推奨します。
レイプなど、「性暴力」が話題にされているのですが、まあ、基本は前回の「セクハラ」といっしょ。なので今回は軽く済ませることにします。
さて、この問題を語るにおいて、牟田師匠はノン・ストレンジャー・レイプという言葉を乱発します(86p-)。要は(一般的にレイプは見知らぬ者からなされるとの神話があるが、そうではなく)知りあいからなされるレイプのことであり、知人間でのそうした揉めごとはなかなか性犯罪であると認識されない、だからこそそちらの方がより深刻である、ということですね。もちろんそれ自体は正論ですが、それはボーダーライン上に置かれてきたものを性犯罪化せよとの告発でもあります(師匠が「女性がその時はそう思わなくとも、後からレイプと思ったら、レイプだ」などと真顔で書いている人物であることを、みなさんゆめゆめお忘れなきよう*1)。
何しろ師匠はこんなことまで言い出すのですから。
セクハラ事件では、(中略)セクハラを訴えられた加害者による被害者への逆告訴がしばしばなされている。
(中略)
しかし「逆告訴」の手口は、勇気を奮い起こして告発した被害者に対するきわめて悪質な恫喝だ。
(106p)
師匠は逆告訴を、事実の歪曲や保身が目的であると全否定します。どうも男性は告訴してはならないようです。女性からのスラップ訴訟はおkなんでしょうが。
何しろ師匠は性犯罪において、女性側を責める「風潮」に激おこです。といっても、それは変質者に追われた女性に母親が「だから早く帰ってくればいいのよ」と言ったり、性犯罪を見聞して「だから女の一人暮らしは危ないのよね」と言ったりすることも含まれます。
気持ちの良い夜風に吹かれ夜のとばりをひとり楽しむこと、一人旅の冒険のよろこびとそれがもたらす人間としての成長、そうした可能性を女性たちは想像もしないうちに奪われている。性暴力犯罪は、そして性暴力にあった被害者を責める意識は、そのよろこびとチャンスも奪っていることに私たちは気づかねばならない。
(119p)
「強姦神話」を支えてきた、男性中心主義的な貞操観念には、「女は嘘をつく」、セックスに関して女の話は信用できない……、そんな思いが詰まっている。合意でセックスしたのに、あとで心変わりする女。自分も楽しんだくせに罪悪感にかられて「無理矢理された」と申し開きする女。そんな女の嘘で男が陥れられることがあってはならない……、こんな、心の奥深く潜む猜疑が、「抵抗するに困難なほどの暴行や脅迫」があったことが証明されなくては強姦罪にはあたらない、とする法解釈を支えてきたのはまちがいない。
(120p)
そんなこと言ったって、裁判って「疑う場」なんだから、猜疑的になるのは当たり前、そうじゃなきゃ困るでしょう。
ちなみに本書、白饅頭師匠が大絶賛してます。
そもそも「女は嘘をつく」ものなのかは知りませんが(「女のレイプの訴えの六割は嘘」「DV冤罪には大変に虚偽が多い」「バーで女性の酒に睡眠薬を入れてレイプするドリンクスパイキングにあったとの女性の被害の訴えはほぼ、虚偽である」といったデータ*2はひとまず、出さないであげるとしても)まず師匠自身が上のような「申し開き」を続けてきた女であるのは間違いのないところです。
上に続き、師匠は「女はNOと口にしないことを規範とされてきた(大意)」と称します。もっとも、それでは「YESの時もNOと言う」ことを強いられているも同然で、「男たちに深層心理学を学ぶことでも要求しなくてはならないのか。(121p)」とも言っており、ここはなかなかいいと思いました。問題は結局師匠自身が、本書の中で既に、それに近しい、いやそれ以上の要求を男性に幾度も幾度もしていることなのですが……。
いえ、それでは足りないでしょう。師匠はそもそも「女にNOという言葉はない(大意)」とまで言い出すのですから。痴漢などの現場において女性が「やめてください」と訴えても、そんな言葉は「お願い」であり「NO」ではないのだそうな。これは、「女性はNOと言っているわけではない」との意味ではなく、「女言葉」には最初から「NO」を意味する言葉が用意されていない、と師匠は言っているのです。で、もし女が「やめろ!」と(男のように)怒鳴ったら、被害者として案じられるより「非常識な女」だと思われるのだそうですよ。
また、師匠は女言葉というのは近代社会において生まれてきたものだと言っており、あれ、ということは中世以前だとレイプはなかったんですかね。
そしてまたこれ以降、師匠の言は男女ジェンダーの持つ厄介さとでも称するべきものに話題を移します。女性がセクハラと感じても、それを行っていた男性が、女性側の気持ちにはなかなか思い至れない。それをマッキノン師匠の主張を引用し、強調します。
さて、では、男側に悪気がないのであれば、どのようにすればいいのか。
それを(引用者註・相手の女性が嫌がっているのだと)わからないのが「鈍感だ」と責めても問題解決には近づかないだろう。
(124p)
まさにその通り!!
まさに至言。ぼくはフェミニストの著作で、こうした相手側の立場に立った発言を、初めて目にしました。では、どうすればいいのか。
「ジェンダー規範を認識しよう(大意)」。
あ、もういいです。
結局「ジェンダー規範を認識しよう」って「女を慮れ」ってことですよね。そして師匠の言う慮り方は、繰り返しますが「女性がその時はそう思わなくとも、後から思った以上、レイプであった」とか、そういうレベルのことです。
ちなみに本書、御田寺圭師匠が大絶賛してます。
*1「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)」、「部長、その恋愛はセクハラです!(発動編)」
*2 レイプについては「男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問」を、DVについては米国のキャンベル国務次官補がDVから逃れてアメリカから帰国する日本人の元妻らがいるが、「実際に暴力があった事例はほとんど見つからない。相当な誤認だ」と語ったということから、ドリンクスパイキングについては『女性専用車両の社会学』を参照。
そしてそれ以降、牟田師匠は一度した上の主張に続いて、しかし性暴力を憎むあまり女性を性から遠ざけると、家父長制に近づく云々みたいな物言いを始めます。
また、フェミニズムの言説自体がある種、女性の受動性を前提としているのが問題だとも言い出します。つまり、女性をもっと能動的な存在として捉えよ、と。しかし、女性が(ことに恋愛の場において)受動的であることが程度普遍的である以上、そりゃあ前提にする以外仕方ないだろ、と思います。大体、「女はノーと言えないんだから慮れ」と言っていたその舌でこういうことを言うんだから、もうメチャクチャとしかいいようがありません。
ちょっと煩雑になりすぎるので、前回は採り挙げなかったのですが、実は前半の「セクハラ」について書かれたページでも、近い主張がなされています。
そこではアメリカのフェミニストの警句が紹介されていました。セクハラ対策は、場合によっては女性の自由な性を規制する、女性へ貞淑を求める方向、即ちパターナリズムにも進み得るぞと(68p-)。
同時に、セクハラという言葉が軽く扱われることで、重篤な性犯罪までが軽い印象を持たれるといった危惧も、再三書かれていました(7pなど)。新語には常について回るジレンマではあるのですが、あらゆる性にまつわるものごとを女性差別として断罪してきたお前が言うな、という感じです。
つまり、上のパターナリズム批判はそれと同じ、「放火魔が自宅にまで延焼させてしまいブチ切れている」だけのことだったのです。こういうのはマッチポンプ、否、自分で火は点けたけれども他人に消させるのですから、差し詰め「マッチ&駄々」でしょうか。
リベラル君が、こうした箇所をこそ「抜きどころ」にしていることは想像に難くないのですが、どうして彼らはこうした「マッチ&駄々」の「駄々」の面だけを恣意的にすくい取り、そこに「勇ましい女傑」というトンデモない妄想で脚色を施してまで、彼女らに「欲情」を続けるのでしょう*3。
結局、フェミニズムとは「女性よ、強くあれ」との口先だけのマニュフェストであり、そうした「戦闘美少女」から「美」と「少」を引いた謎の存在に欲情する者を、日本語では「リベラル」と呼ぶのですね。
*3 以前、「ピルとのつきあい方公式」師匠がぼくの批判に対して「発言の一つだけを採り挙げて批判するとは何ごとだ」とわけのわからない言い訳をしていたことがあるのですが、どうもこの人たちは「自分たちの主張は自分たちにとって好ましいところだけを恣意的にすくい上げ、自分たちの都合のいいように解釈されて当然だ」と素で思っているのではないでしょうか。
さて、本書では章と章の間にいくつか、軽めのコラムが挿入されているのですが、この中盤では「Suck My Dick――『GIジェーン』の楽しみ方」といったものが挟まれています。面白すぎるので、これの紹介を今回の締めにしましょう。
てか、『GIジェーン』、ぼくは未見なのですが、まあ『GIジョー』のパロディなのでしょう。言ってみればフェミが「教育目的」で作った『桃太郎』ならぬ『桃子ちゃん』の童話のようなもので、タイトルだけでおなかいっぱいです。
ここでは女性軍人が男性軍人から苛め抜かれる様が描かれるそうです。それこそ久米泰介師匠の本で扱われそうなミサンドリームービーですね。
日本の似非アンチフェミは「欧米のフェミは軍隊に入りたがって、エラい」などと言います。牟田師匠もここでは戦争という「男のせいで起こる悪(に、フェミニストには見える)」に女性が加担するのはどうかなどと迷う素振りは見せるものの、
しかし、しかし、である。この映画の中でデミ・ムーアは、かなりかっこよくもあるのだ。(中略)あまたある戦争映画やアクション映画でヒーローたちがかっこいいと思ったことはあまりないが、GIジェーンはかっこいいのだ。
(109p)
などと大はしゃぎ。GIジェーンはいびり……というより、あからさまな暴力の限りを受けるのですが、そこで彼女は上官に「Suck My Dick!(おれのチンポコをしゃぶりやがれ!)」と絶叫するのです。
この場面に師匠は大喜び。男性性を模するのは愚かしくもあると留保しつつも、「それでもやっぱりかっこいいんだなあ。スカッとするんだなあ!(110p)」と小躍りを始めます。
『テルマ&ルイーズ』*4にも言及し、「でも、そんな暴力願望があってどこが悪いの、って気もする。(111p)」などと居直り、(あくまで想像の中のことだ、と言い訳しておいて、その後で)「ステレオタイプのジェンダー幻想に足を取られず、創造的に平和を守るにはやっぱり女も力をつけなくっちゃ。(111p)」との能天気な言葉で、コラムを終えます。
どうなってるんでしょう。
ぼくは上の映画、未見(だし、心の底から見たくない)なので、よくわからないのですが、師匠のコラムを読む限りは「Suck My Dick!」がクライマックスのよう。これ、上官にさらなる暴行を加えられるだけなんじゃないでしょうかね、この後、どうなって話が終わるんでしょう? 例えばこの後、ジェーンが上官をブッ殺すのであれば、むしろそこに言及するでしょうし、これ以上の描写があるとも思えません。
結局、この種のしょせんフィクションで、女性が格好よく振る舞うだけで拍手喝采できる感受性が、ぼくにはさっぱりわかりません。プリキュアと現実の女性は全然違うのに、彼女らはそれがわかっていないのではないでしょうか。
てか、ジェーンはペニスを持っていない以上、フェラをさせることは原理的に不可能。それでも立場が逆転した時にそう言ってみせるのであれば、見せ場としてそれなりに映えるシーンになるでしょうが、ピンチの時にただ言ってみせただけって、何じゃそりゃとしか思えません(或いは映画ではそう言われただけで、軍人たちが思わぬ女からの逆襲に恐れおののき、彼女にひれ伏すのかなあ?)。
時々書くことですが、バブル期はトレンディードラマの中で女性から男性へと「セックスしよう」と誘ったというたった一つだけのケースを根拠に、犬も杓子も「女性が性に積極的になっているのだ」と絶叫を続けておりました。
そしてまた、これは腐女子が「心にチンコがある」「○○君、犯したい!!」と「詐称」することをも連想させます。基本、BLとは受けを、つまり女性役を美少年に演じさせることで自らの感情移入を容易にする、「シスヘテロ女性」のためのポルノです。しかし、彼女らは「自分のプライドを守るため」、私は責めに感情移入しているのだ、と強弁する傾向にあります。
いや、まあ、腐女子の言は罪のないものですが、それにもぼくはいささかばかりの苛立ちを覚える。それはまさに「男性ジェンダー」を安全地帯から形ばかり模して、そして本当に、ただそれだけで自分が偉業でも成し遂げたかのような顔をしていることに対してのもの、ということが言えましょう。
ここでの師匠の言も、それとまるきり同じであり、そしてまたそれを「フェミニズム」というイデオロギーで装甲している時点で、腐女子の何千、何万倍も非道いわけです。
ちなみに本書、「お気持ち案件」の批判者が大絶賛してます。
そう、リベラル君の牟田師匠への「欲情」ぶりは、師匠の『GIジェーン』への「欲情」ぶりと、「完全に一致」していると、これを読むとよくわかりますね。
いつも書くことですが、ネット上の左派寄りのオタク、漫画やアニメの表現規制について活動している、ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような人々は近年、フェミニストによるエロの規制に非常な勢いで噛みつく傾向にあります。しかし彼らはフェミニズムについての根本的な知識が欠落しており、また同じリベラル仲間ということでフェミニストのことを心の底では深く深く、深く深く深く深く深く深く深く深く愛しています。近年のいささか度を越したフェミ攻撃は、むしろストーカー的逆切れであると言えます。
そして、彼らの持つフェミニスト像はこの、『GIジェーン』的なものなのです。
ぼくはリベラル君たちからぞっとするような「ミソジニー」を感じることがあります。彼らのフェミニストへの「欲情」は丁度それの逆で、仮初めの「男性ジェンダーを有した女性」への「欲情」であると思えるのです。フェミニストがミソジニーの権化であり、フェミニズムが「男性ジェンダーを有した女性であるワタシ」という嘘まみれのマニフェストであることはもう、指摘するまでもないでしょう。
結局テラケイ師匠の牟田師匠への妄讃は本書の中から、そうした『GIジェーン』的な箇所を恣意的に抜き出した、本書を脳内でニコニコ動画に上げられている「セーラー戦士エロシーン集」的なものへと「編集」した上でのものだった、ということがいえようかと思います。
結局、フェミニズムは男性ジェンダーのネガティビティは全てオミットし、そのメリットだけは無批判、無反省、無制限にモノにしたいという運動でした。
リベラルとは、暴力性、攻撃性、憎悪、弱者への侮蔑といった自らの中に渦巻いている人間の闇の部分の発露を、フェミニストという「怪獣兵器」に代行させ、その怪獣兵器が暴れ回る様を眺めつつ、マスターベーションをする者のことでした。
テラケイ師匠が、青識師匠が、借金玉が、本書にいたく「欲情」していたのは、そここそが理由でした。
彼ら彼女らを総称する、ステキな呼び名をここでご提案したいと思います。
「パターナリスト」です。
*4 何かもう、ご説明するのも大儀なのですが、要はアメリカンニューシネマを女性が「パロって」みせた映画、と言えばおわかりになるでしょうか。ごく普通の女性二人組がドライブに出かけるのですが、何か、モノの弾みで銀行強盗とか殺人(男)をしでかし、男へのフェミニズム的怨嗟を吐きつつ、自滅していくロードムービーで、当時フェミニストは本作に大はしゃぎして上映会など開いていたそうです。バッカじゃねーの。