兵頭新児の女災対策的随想

赤田祐一の「ショックのパー」な言い訳

2021/08/22 17:55 投稿

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(2021/09/03追記:書いて随分経ってから、本文中で主題である「ロボパー」について丸きり解説していないことに気づきました! アホです。そんなわけで「*」マークで囲った部分に加筆しておきました)

 はい、もうどれだけかぶりのオリジナル記事です。
 例の「小山田圭吾」事件について、随分と語らせていただきました。



 さらに、一応最終回となる第三回目が、発表されました。

「サブカル」と「オタク」の関係性が、「フェミニスト」と「弱者男性」の関係性と「完全に一致」しているというのがぼくの変わらぬ主張であり、前者はいずれもが弱者ぶって、ないし弱者の味方ぶっていながら、「弱者バッヂ」をつけていない弱者、即ちオタクであり弱者男性には平然と刃を向け、殺戮する。
 その、殺戮の快楽に寄っている時のエクスタシーの表情こそが、彼ら彼女らの素顔なのだ――ということは「いじめ紀行」の中で「沢田君」と呼ばれる障害児をいじめた思い出を語りつつ、へらへら笑っている小山田や北尾たちを見れば明らかでしょう。
 そんなインタビューにも同席して笑っていた『クイックジャパン』の元編集長、赤田祐一が言い訳を発表していました。
 こうなると黙っておれず、久々に書き下ろしを発表させていただくことになりました。

 この醜悪な言い訳記事、「「いじめはエンターテイメント」ではない」は(スマホでは拡大すると字が見切れてしまい、大変見づらいのですが)まず、ジョージ秋山の『花のよたろう』の話題から始まります。
 学年の成績がビリから二番のよたろう、そして彼につきまとうタア坊。よたろうはタア坊をこき使い、「おまえみたいなカスといっしょにするな」と罵倒しつつも、彼との交流を続ける――そんな漫画のことを、彼は紹介するのです。
 が、ぼくはこの辺りで赤田の幼稚さと愚劣さ、独創性のなさに嫌気が差し、一度ページを閉じてしまいました
 もう、結論はみなさんおわかりですね。

 小山田はこのよたろう同様、沢田君をいじめもしたが、可愛がってもいたのだ。

 これはモロ、北尾の苦しい言い訳の丸パクリです。
 北尾の言い訳についての反論は、既に上の記事でさせてもらっているので繰り返しませんが、能なくそれを繰り返す赤田の態度はいよいよ呆れます。
 単にネタがないと言うより北尾の妄想に縋り、積極的にそれに取り込まれに行っているという感じです。これはカルトで教祖の妄想に信者が取り込まれるのと同じではないでしょうか。

 しかし北尾の言すら、ある意味ではオリジナルとは言い難いのです。

*     *     *

 ヘッダとして掲げた小山田の写真をもう一度ご覧ください。
 彼がいじめていた障害児のことを「ロボパー」と呼んでいるのがわかりますね。
 加筆ついでに書いておきますとタイトルの「ショックのパー」はロボパーの決め台詞です。
 このロボパーは、『がんばれ!ロボコン』のキャラクターであり、『ロボコン』は1974年に放映された、東映制作の特撮ドラマ。様々なロボットが人間社会に出現するという『オバQ』の実写版とも言うべき作品です。

がんばれ!!ロボコン 第01話[公式]

 悪ガキ的キャラクターのロボワル、ガリ勉のロボガリ(……と書いて、ひょっとして「ガリ勉」自体が通じない言葉かもと思い立ちました。勉強ばかりしている者のことを、昭和の時代はこう呼んだのです)、といった人間のキャラクター性をカリアチュアライズしたロボットたちが多数登場し、その中にまさに「パー」をロボット化したキャラとして「ロボパー」がいたのです。
 純朴だが何もできない、しかし子供たちの人気の集まったキャラクターです。
(後、以下に雑誌のカラーページにロボパーのグラビアが載った、と書いていますが、どうもこれ、ぼくの記憶違いのようです。小山田の描いたクッソ下手なロボパーのイラストが添えられているだけでした)

*     *     *


『クイックジャパン』の問題の号ではカラーページにこの「ロボパー」のグラビアを掲載し、面白がるというゴミ雑誌にふさわしい振る舞いをしていました(同作の脚本家、上原正三氏が存命なら、どこかが取材に行ってほしかったところです)。

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 これですね、ロボパー。
 実は小山田問題の渦中、恐らくそれに関連して、ツイッター上で「ロボパー」を話題にしている人がいました。柴田英里師匠のRTで見て、元を辿ると、それは初見健一氏によるもの。
 その主旨は「ロボパーはその無能ぶりを馬鹿にされ、見下されている一面もあったが、それでも排除されることなく、ロボット仲間の一員として存在していた。その共生こそが昭和の豊かさであったのだ」。
 記憶で書いているのですが、何か、そんな感じのことでした。
 リベラル寄りの御仁がよく言うことですよね、これ。
 ちなみにこの初見氏、昭和の庶民文化(駄菓子など)についての著作の多数ある人物で、ぼくも愛読者の一人なのですが、そして上の意見にも一応首肯したいのですが、しかし、です。
 それは「うまくいった場合」にしか言えないことです。例えばロボット仲間には泥棒ロボット「ロボドロ」というのもいました。「何か、根はいいヤツなので共生もして、最終的に更生しました」というオチがつきますが、「根はいいヤツ」なのはそれがドラマだからです。
 ぼくは「懐かしネタ」に対する、冷笑的なツッコミ、「本当は怖い『三丁目の夕日』」的な物言いは、必ずしも好みません。当時がいいことばかりでなかったのは確かでしょうが、懐かしむ側には懐かしむだけの理由があるからです。
 しかし「ロボパー」が、「タア坊」が「健常者」と「共生」していたから小山田が正しいのだとするのは詭弁以外の何物ではありません。
 初見氏については単に「ロボパー」について語っていただけで、そこに小山田問題との関連は読み取れませんでしたが、「ロボパー」そのものは認められても、当たり前ですがやはり、小山田は絶対に認めてはならないのです。
 彼のやったことは一歩間違えれば相手が死んでいたようなことなのですが、仮に死んでいたとしても、赤田や北尾は「共生だから素晴らしいのだ」とマスターベーションを続けるんでしょうか。
 いや、むしろそう言わないことには、平仄にあわないでしょう。
 事実、当記事でも赤田はただ、読むだけで目が腐りそうな甘言だけを書き並べます。

 タア坊を拒否せずに遊ぶよたろうの姿から、子どもどうしの友情、心の通い合いのようなことを学ばされたようです。
 私は音楽家・小山田圭吾さんを、ジョージ先生が少年漫画で描き続けてきたような“隅の人”と関わり合うことを厭わないタイプの人――と認識する立場に立ちます。


 ……あぁ、はいはい。
「サブカル」とはもちろん言うまでもなく「権威主義」の英訳ですが、しかしそれにしても、大御所漫画家の作を持ち出して、自分たちの振る舞いを正当化するというやり方には頭が下がります。ジョージ秋山氏が既に物故しており、死人に口なしという計算があるのもポイント高いです。いや、本人に聞いたら「たまたまだ」と言い張るでしょうが。
 それ以降も「いじめが起こる度にワイドショーで語られるタテマエ論などには何の意味もない」とか、「「いじめ紀行」は全体を読まれず、断片を切り取られて語られている」とか、基本書いてることは他人の言ったことの繰り返し。前者は村上清が「いじめ紀行」で書いていたこと、後者は北尾の言(これは全くのウソなのですが)そのままです。ご当人、自分では文章を書けない人なのかもしれません。

 さて、ぼくは動画において「サブカルはマッチョだ」「ヒエラルキーに拘泥している」と指摘しました。
 この下町の上下関係のいい面ばかりを見ようとする赤田の感性もまた、それに準じたものであるのは言うまでもありませんが、ぼくは書いていてふと、大槻ケンヂのエッセイを思い出しました。
 大槻氏と言えば誰もが「サブカル」であると認めるであろう、ミュージシャンです。アニメ版『さよなら絶望先生』の音楽を担当するなどオタクにも縁が深く、ぼくも彼のエッセイの愛読者なのですが――そのエッセイで、非常に印象的な箇所がありました。
 彼は格闘技マニアで、様々な格闘技の達人に話を聞きに行くのですが、そこで「誰も彼もがいじめを必要悪と主張していた」というのです。何しろ取材協力してくれた相手なので批判もできず、大槻氏は「少し寂しい気がした」と感想を漏らすに留めています。
 ここからは「弱者」が自分の糧となることに疑問を抱かない「体育会系」(体育会系の全員がそうなのかについては、もちろん知りませんが)、そしてその体育会系にどこか憧れる「サブカル君」、という図式が、どうしたって浮かび上がってきます。
 それでも疑問を呈した大槻氏は立派ですが、その疑問を失ってしまった時、人は小山田に、北尾に、赤田になってしまうのです。 

 小山田の通学していた和光学園、その「共同教育(障害者と健常者を同じ場で学ばせようというもの)」について、ぼくは批判的な記事を書きました(今日発表された『WiLL』様の最終回です)。
 全否定はしないけれども、薄っぺらな理念だけでお気楽に実行すべきものではないと。
 それは言うまでもなく、現実には「よたろう」ばかりがいるわけではなく、「小山田」がいるからなのです。
 赤田は小山田の振る舞いを一切合切スルーして、しかしその理念はよたろうと同じなのだから正しいのだ、と強弁しているだけなのです。
 それは丁度、和光学園の学長だか何だかが本件について責任を追及され、目の前でいじめられている障害児をスルーしつつ「しかし我が校の理念は正しいから、我々は間違っていないのだ」と居直っているような姿です。

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