「どうすればクリエイティビティが身につくのか?」というのはぼくの積年の課題だ。というのも、クリエイティビティを「持って生まれた才能」で片付けてしまう人があまりにも多いからだ。
ぼく自身は、幸いなことに自分のクリエイティビティに疑いを抱いたことがない。しかしながら、それを「持って生まれた才能」で片付けられてしまうと釈然としない。それは、何の努力もしていないように聞こえるのが嫌だということもあるが、それ以前に、ぼく自身の実感とも大きくかけ離れているからだ。
ぼく自身、自分に「持って生まれた才能」があると思ったことがない。ただ、クリエイティビティを身につけるための環境には恵まれたと思っている。さらには、自分自身もその環境を構築するのに、一生懸命取り組んできた。
だから、クリエイティビティというのはほとんど「環境」によって決まるのではないかというのが、ぼくの見解なのだ。つまりそれは、才能ではなく「後天的な要素」で決まると考えているのである。
だとしたら、クリエイティビティは大人になってからも育むことができるのではないか?
いつからか、そのことがぼくの中での大きなテーマとなった。
なぜかといえば、ぼく自身がクリエイターとして自分の才能をもっと伸ばしたいということもあったが、同時に、ワタナベコメディスクールというお笑い芸人の養成所で講師をする中で、若者たちをクリエイターとして育てるという課題にも取り組んできたからだ。
その取り組みの中で、ぼく自身がそれまで茫洋としかとらえきれていなかった「どうすればクリエイティビティが身につくのか?」ということの輪郭が、さまざまな勉強や実践、あるいは試行錯誤を重ねる中で、おぼろげながらも姿を現してきた。今回は、そのことについて書きたい。
ぼくが、「どうすればクリエイティビティが身につくのか?」ということを考える中で、二つ、大きなヒントになった言葉がある。
一つは、手塚治虫さんが言った「才能とは記憶のことである」という言葉だ。
手塚さんは、クリエイティビティというのは「換骨奪胎」に他ならないと語った。過去の知識を組み合わせ、いかに新しいものを作り上げるのかが才能である――と。
そのため、前提として過去のすぐれた作品群を「記憶」しておかなければならないという。それがなければ、とてもではないがクリエイトはできないというのだ。
実際、手塚治虫さんの作品は過去の名作にインスパイアされて作られたものがほとんどだ。代表作である「火の鳥」はストラヴィンスキーのバレエ組曲のタイトルをそのまま借りたものだし、「アドルフに告ぐ」や「陽だまりの樹」は実際の歴史を基にしている。「ネオ・ファウスト」に至っては、名作文学をそのまま現代風にアレンジしたものだ。
手塚さんに限らず、多くのクリエイターは記憶力がいい。モーツァルトは、一度聞いたメロディは二度と忘れなかったというし、秋元康さんは、「とんねるずの石橋貴明さんはタレントとしてどこがすぐれているのか?」と問われたとき、真っ先に「記憶力」と答えていた。
もう一つヒントになったのは、藤原正彦さんが言っていた、「すぐれた数学者の生まれ故郷は、どこも美しい風景が広がっている」というものだ。ニュートンやガウス、ラマヌジャンや関孝和に至るまで、どの人物の故郷も、美しい景観に満ちている。
藤原さんによると、数学者には「美的感覚」が必要不可欠なのだが、それはどうやら幼い頃に見た景色の美しさによって育まれるのではないか、ということだった。美しい景色を見て美的感覚を研ぎ澄ませた人だけが、本当に美しい数式を編み出すことができる。
これと同じ話は、ぼくが私淑する桜井章一さんからも聞いたことがある。
桜井さんは、自分の勘が鈍ってくると、よく自然の中に行って、それに触れることで、自分の勘を再チューニングしたという。また、落ちている石や葉っぱをポケットに忍ばせ、それに触れることで、感覚を研ぎ澄ませていた。
人間というのは、知識だけがあってもクリエイティビティが身につくわけではない。それらを組み合わせ、新しいものを作り上げてこそクリエイトといえるのだが、その組み合わせをどうするか考えるとき、どうしても美的感覚や勘といったものが必要になってくる。
多くの人は、この美的感覚や勘を「才能」と思っているのかもしれないが、藤原さんや桜井さんは、美しいものに触れることによってそれを養える、あるいは取り戻すことができると考えている。
そこでぼくは、クリエイティビティを身につけるために必要なのは、この「記憶」と「美的感覚」だという考えに辿り着いた。まず、古今の名作に数多く触れることで、記憶量を上げていく。
そのうえで、美しいものに触れることで美的感覚を養い、それに基づいて記憶同士を組み合わせ、新しい作品を作り上げていく。
そうすれば、クリエイティビティは後天的に身につけることができるのではないか?
そう考えたぼくは、お笑い養成所で毎週「映画を見る」という宿題を与えた。それは、知識と美的感覚、その両方を一気に養おうという考えからだ。
まず知識の方は、すぐれた映画はすぐれた物語を持っているので、それを記憶することは、何かをクリエイトするための強力なデータベースになる。
また美的感覚は、すぐれた映画はすぐれた映像美を持っているため、そこで養える。
そうして授業では、主にその映画の何を記憶したらいいか、あるいはどのような美を味わったらいいのかということをレクチャーした。すると、ぽつぽつとではあるが次第に成果が現れるようになった。多くの生徒がクリエイティビティを養い始めたのである。
そこでぼくは、その取り組みをさらに押し進めようと、今度は私塾を開講し、一般の人々にもクリエイティビティを養う術を伝えることはできないかと考えた。そうして企画したのが、「岩崎夏海クリエイター塾」だ。
そこでは、さまざまな人にクリエイティビティを伝えていきたいと考えている。締切は今月(2014年6月)末で、定員は20名なのだが、現時点で14名の方からご参加表明をいただいた。
もう6名加わっていただければ、授業を開くことができる(定員に満たない場合は、残念ながら中止とさせていただく。この授業は、ある程度の人数が集まり、お互いに刺激し合いながら進めていくことで、強い効果を発揮するからだ)。
詳細は、以下のリンクか動画に詳しい。もしご興味がおありの方は、ご覧いただけると大変嬉しい。
岩崎夏海クリエイター塾(詳細と連絡先)
岩崎夏海クリエイター塾2014年7月開講(紹介動画)
ぼく自身は、幸いなことに自分のクリエイティビティに疑いを抱いたことがない。しかしながら、それを「持って生まれた才能」で片付けられてしまうと釈然としない。それは、何の努力もしていないように聞こえるのが嫌だということもあるが、それ以前に、ぼく自身の実感とも大きくかけ離れているからだ。
ぼく自身、自分に「持って生まれた才能」があると思ったことがない。ただ、クリエイティビティを身につけるための環境には恵まれたと思っている。さらには、自分自身もその環境を構築するのに、一生懸命取り組んできた。
だから、クリエイティビティというのはほとんど「環境」によって決まるのではないかというのが、ぼくの見解なのだ。つまりそれは、才能ではなく「後天的な要素」で決まると考えているのである。
だとしたら、クリエイティビティは大人になってからも育むことができるのではないか?
いつからか、そのことがぼくの中での大きなテーマとなった。
なぜかといえば、ぼく自身がクリエイターとして自分の才能をもっと伸ばしたいということもあったが、同時に、ワタナベコメディスクールというお笑い芸人の養成所で講師をする中で、若者たちをクリエイターとして育てるという課題にも取り組んできたからだ。
その取り組みの中で、ぼく自身がそれまで茫洋としかとらえきれていなかった「どうすればクリエイティビティが身につくのか?」ということの輪郭が、さまざまな勉強や実践、あるいは試行錯誤を重ねる中で、おぼろげながらも姿を現してきた。今回は、そのことについて書きたい。
ぼくが、「どうすればクリエイティビティが身につくのか?」ということを考える中で、二つ、大きなヒントになった言葉がある。
一つは、手塚治虫さんが言った「才能とは記憶のことである」という言葉だ。
手塚さんは、クリエイティビティというのは「換骨奪胎」に他ならないと語った。過去の知識を組み合わせ、いかに新しいものを作り上げるのかが才能である――と。
そのため、前提として過去のすぐれた作品群を「記憶」しておかなければならないという。それがなければ、とてもではないがクリエイトはできないというのだ。
実際、手塚治虫さんの作品は過去の名作にインスパイアされて作られたものがほとんどだ。代表作である「火の鳥」はストラヴィンスキーのバレエ組曲のタイトルをそのまま借りたものだし、「アドルフに告ぐ」や「陽だまりの樹」は実際の歴史を基にしている。「ネオ・ファウスト」に至っては、名作文学をそのまま現代風にアレンジしたものだ。
手塚さんに限らず、多くのクリエイターは記憶力がいい。モーツァルトは、一度聞いたメロディは二度と忘れなかったというし、秋元康さんは、「とんねるずの石橋貴明さんはタレントとしてどこがすぐれているのか?」と問われたとき、真っ先に「記憶力」と答えていた。
もう一つヒントになったのは、藤原正彦さんが言っていた、「すぐれた数学者の生まれ故郷は、どこも美しい風景が広がっている」というものだ。ニュートンやガウス、ラマヌジャンや関孝和に至るまで、どの人物の故郷も、美しい景観に満ちている。
藤原さんによると、数学者には「美的感覚」が必要不可欠なのだが、それはどうやら幼い頃に見た景色の美しさによって育まれるのではないか、ということだった。美しい景色を見て美的感覚を研ぎ澄ませた人だけが、本当に美しい数式を編み出すことができる。
これと同じ話は、ぼくが私淑する桜井章一さんからも聞いたことがある。
桜井さんは、自分の勘が鈍ってくると、よく自然の中に行って、それに触れることで、自分の勘を再チューニングしたという。また、落ちている石や葉っぱをポケットに忍ばせ、それに触れることで、感覚を研ぎ澄ませていた。
人間というのは、知識だけがあってもクリエイティビティが身につくわけではない。それらを組み合わせ、新しいものを作り上げてこそクリエイトといえるのだが、その組み合わせをどうするか考えるとき、どうしても美的感覚や勘といったものが必要になってくる。
多くの人は、この美的感覚や勘を「才能」と思っているのかもしれないが、藤原さんや桜井さんは、美しいものに触れることによってそれを養える、あるいは取り戻すことができると考えている。
そこでぼくは、クリエイティビティを身につけるために必要なのは、この「記憶」と「美的感覚」だという考えに辿り着いた。まず、古今の名作に数多く触れることで、記憶量を上げていく。
そのうえで、美しいものに触れることで美的感覚を養い、それに基づいて記憶同士を組み合わせ、新しい作品を作り上げていく。
そうすれば、クリエイティビティは後天的に身につけることができるのではないか?
そう考えたぼくは、お笑い養成所で毎週「映画を見る」という宿題を与えた。それは、知識と美的感覚、その両方を一気に養おうという考えからだ。
まず知識の方は、すぐれた映画はすぐれた物語を持っているので、それを記憶することは、何かをクリエイトするための強力なデータベースになる。
また美的感覚は、すぐれた映画はすぐれた映像美を持っているため、そこで養える。
そうして授業では、主にその映画の何を記憶したらいいか、あるいはどのような美を味わったらいいのかということをレクチャーした。すると、ぽつぽつとではあるが次第に成果が現れるようになった。多くの生徒がクリエイティビティを養い始めたのである。
そこでぼくは、その取り組みをさらに押し進めようと、今度は私塾を開講し、一般の人々にもクリエイティビティを養う術を伝えることはできないかと考えた。そうして企画したのが、「岩崎夏海クリエイター塾」だ。
そこでは、さまざまな人にクリエイティビティを伝えていきたいと考えている。締切は今月(2014年6月)末で、定員は20名なのだが、現時点で14名の方からご参加表明をいただいた。
もう6名加わっていただければ、授業を開くことができる(定員に満たない場合は、残念ながら中止とさせていただく。この授業は、ある程度の人数が集まり、お互いに刺激し合いながら進めていくことで、強い効果を発揮するからだ)。
詳細は、以下のリンクか動画に詳しい。もしご興味がおありの方は、ご覧いただけると大変嬉しい。
岩崎夏海クリエイター塾(詳細と連絡先)
岩崎夏海クリエイター塾2014年7月開講(紹介動画)
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