今、ワタナベコメディスクールというお笑い養成所で、芸人を目指す若者に教えている。
といっても、ぼくが教えているのは「お笑い」そのものではなく、「そもそもエンターテインメントとは何か?」ということや「どうすればプロフェッショナルになれるか?」といったことだ。

それで、ほとんどの若者は「面白い漫才やコントをできるようになればプロになれる」と単純に考えているのだが、ことはそう簡単ではない。お笑いが面白いということと、プロとして生きていけるということは、また別の話である。それには「回路が開いているかどうか」が決定的に重要になってくる。

そこで生徒たちには、そもそも「回路とは何か?」ということや、「どうすれば回路が開けるか?」ということについて話している。今回は、その「回路」について書いてみたい。


まず、「回路」の話をする前に、概念的なことから話したい。
人間は、生まれたときは裸だ。それは、物理的な意味に加え、心的な意味でもそうである。
心が裸で無防備なのだ。だから、純粋で無垢である一方、傷つきやすく脆い状態である。

そのため、そこから長い歳月をかけて心に鎧をまとっていく。心が傷つかないようにするためだ。
例えば、公園に遊びに行ったとき、友だちにオモチャを貸したら返ってこなかった。それで、大変に傷ついた。へとへとになるまで泣き暮れた。
そういう目に遭った後、子供は心に鎧をまとうようになる。「他人にオモチャを貸すとろくなことがないからもう貸さないようにしよう」とか、「返ってこなくても傷つかないように初めから他人を信用しないようにしよう」といった、心の予防線を張るようになるのだ。

また、親もさんざん鎧をまとうよう強制してくる。
大声で泣いていたら「泣かないの!」と言われ、爆笑していたら「口を開けるな、みっともない」と言われる。激怒したら「怒ってはいけません」と言われ、感情的になれば「感情を表に出さないの」と言われる。
特に日本人は、感情を強く抑えるよう教育される。それは、いちいち喜怒哀楽を露わにしていたら生きにくくてしょうがないからだ。
そうして子供たちは、家でも学校でも、心に鎧をまとうようさんざん指導を受けるのである。

その結果、大人になる頃には鎧で心をがちがちに防御した人間になっている。ただ、それ自体は問題ないのだが、そこからエンターテイナーになろうとすると、大きな問題が発生する。
それは、エンターテイナーとは心の鎧が少ない人がする職業だからだ。
人は、心の鎧が少ない人を見るために、お金を払うという習性がある。もっといえば、お金を払ってでも「裸の心」を見たいと思っている。裸の心に関心を示さずにはいられないのである。

例えば、駅のホームでカップルが喧嘩をしていたとする。すると、その場にいる全員が、問答無用でその喧嘩に興味を抱く。
ぼくはこれまで、他人の喧嘩に興味を示さなかった人間を見たことがない。街でチンピラが喧嘩をしていると、とたんに人だかりができる。喧嘩をしている当人は、「見世モンじゃねえ!」と粋がるが、喧嘩ほど見世物としてクオリティの高いものは他にないのだ。

では、なぜ人は喧嘩に興味を示すか?
それは、心の鎧が取り払われた状態だからだ。その人の「怒り」がむき出しになっているからである。
あるいは、人はサッカーのゴールシーンが好きである。彼らはそこで何を見ているかというと、ゴールに突き刺さったボールの軌道ではなく、それによって喜びを露わにする選手の顔だ。なぜならそれは、心の鎧が取り払われ、感情がむき出しになった状態だからである。

エンターテイナーというのは、そういう裸の心を見せる商売なのだ。いうならば心のストリッパーなのである。だから、心の鎧が頑丈な人には務まらないのだ。
そのため、エンターテイナーは心の鎧を取り払わなければならないのだが、しかし心の鎧を取り払うと、とても危険である。喜怒哀楽をいちいち爆発させることになるので、心が幾つあっても足りない。すぐに気が狂って、まともな社会生活を送れなくなる。

そこで重要となってくるのが「回路」なのだ。心の鎧を完全に取り払うことは不可能なので、肝心なところでだけ開けるように回路をつなぐのである。そうしてそれを開け閉めして、舞台の上でだけ裸の心を観客に見せられるような状態を作るのだ。

ただしこれも、危険が全くないわけではない。上手く運用しないと、すぐに回路が開かなくなったり、あるいは逆に開きっ放しになったりする。
芸能人が深甚なトラブルに巻き込まれたり、あるいは薬物に手を染めたりするのは、ほとんどの場合、この回路の開け閉めが上手くいかなくなることが原因である。

一方、長く成功しているエンターテイナーというのは、押し並べて優秀な回路の持ち主である。だからぼくは、どうすれば優れた回路を構築し、それを円滑に運用できるかということを、若者たちに教えているのだ。