それは、一つには自分の小説が認められて嬉しい、それもドラッカーを翻訳された上田先生に認められた――という感激があっただろう。しかしながら、ぼくは、ぼく自身が認められるとか、褒められるということに関しては、もうずいぶんと昔にすっかり諦めてしまっていて、だいぶんすれて懐疑的になっているところがあった。だから、そんな自分が褒められたくらいでそんなに泣くだろうかと、少々訝しく思ってもいたのだった。
そんな折、ふと気づいたのは、「もしかしたら、上田先生は『もしドラ』を読んで、とても嬉しかったのではないか。自分は、そのことが分かったから、上田先生の気持ちに感情移入して、思わず泣いてしまったのではないか」ということだった。
上田先生は、きっと嬉しかったに違いないと、ぼくは後になって確信を抱いた。何が嬉しかったかといえば、「伝わった」ことが嬉しかったのだ。上田先生がドラッカーから託されたバトンが、ぼくに伝わったことが嬉しかった。そして、ぼくを通じて、世の中の多くの人に伝わっていくだろうことが予想されて、そのことが嬉しかった。
それは、裏を返せばドラッカーの言葉は、これまでそれほど伝わってこなかったという忸怩たる思いが、上田先生の中にあったということだ。後で聞いた話なのだが、『もしドラ』が出る前、ドラッカー学会においては、ドラッカーをどうやってもっと世の中に広めていけばいいか、さんざん議論が重ねられていたということだった。特に、若年層に対する認知度が著しく低かったため、そこへどう伝えるかというのが、大きなテーマだったらしい。
そこで、何度も企画としてあがってきたのが、子供向けのドラッカー教則本を作ってはどうか――ということだった。というのも、上田先生の訳されたドラッカーの本は、子供にはもちろん、大人でさえ難解なものが多かった。その難解さが、ドラッカーが世の中に広まっていくことの大きな妨げになっていた。だから、その教えを易しく解説した本を作れば、もっと広まっていくのではないかという思いが、学会の中にはあったのだ。
しかしながら、上田先生は、それに対して頑として首を縦には振らなかったのだという。それは、
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上田氏と『もしドラ』は、『もしドラ』の程高野球部でいう加地誠と北条文乃のような関係になったということでしょうか。
(著者)
>>1
そうですね。そうだったのかもしれません。