野球道とは負けることと見つけたり:その9(1,791字)
1950年、文也は東急フライヤーズに入った。背番号は16。見合い結婚したばかりだったが、新妻は郷里に残してきた。東急フライヤーズは日本ハムファイターズの前身で、本拠地は東京にあった。
文也の背番号は16だった。二軍の練習場所は読売ジャイアンツと同じ多摩川グラウンド。だから練習していると巨人の16番と間違えた子供たちが、よく群がってきたという。そして文也の顔を見ると「ちぇ、川上じゃないのかよ」と言った。これが滅法応えたという。
文也はピッチャーとして入ったが、成績はパッとしなかった。なにしろ肩がもう限界だったのだ。全徳島に入ってからは無茶な投げ方をしていた。昔のことだから、連投連投が当たり前だったのだ。それ以前は戦争で心身をすり減らしてもいた。その頃に覚えた酒も続いていた。
だから27歳にして体が悲鳴を上げていた。文也の体はもうプロ野球選手のそれではなかった。あまりにも球速が遅く、打たれてば
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