1936年12月、石原莞爾のはしごが武藤章によって密かに下ろされ始める。そうしてこれ以降の数年間が、石原にとって一つの「受難の時代」となっていく。

その石原の受難を見る前に、まず当時の内閣の動きから確認したい。石原と武藤の一件から3ヶ月後の1937年2月、時の広田内閣が総辞職した。

広田内閣は、二・二六事件の責任を取って解散した岡田内閣に代わり、11ヶ月前の1936年3月に組閣された内閣だった。首相は外務省出身の元外務大臣、広田弘毅である。

岡田内閣解散後、最後の「元老」(明治以来の「元老制度」はまだ残っていたが、在任者が亡くなると新任は決めず、元老が全て亡くなったら制度そのものを廃止するというのが既定路線だった。ちなみに山懸有朋も元老の一人だった)として、天皇のブレーンを務めていた西園寺公望に、新しい首相の任命が託される。

そこで西園寺は、貴族院議長であった近衛文麿を推挙する。ところ