石原莞爾は事変がなった後、満州での参謀の職を解かれ、日本に戻される。このとき、事変において上司に無断で自らが兵を動かした責任を取り、陸軍の除隊を申し入れる。が、慰留された上に大佐に昇進までさせられて、踏みとどまった。
このことで分かるのは、石原は満州事変がなった瞬間から、それに必ずしも満足してはいなかったということだ。特に事変がなった直後、さまざまな政治勢力が介入し、混沌とした状況に陥った。だから石原自身は、それを計画・実行した首謀者とはいえ、離れられて少しホッとしたところがあったろう。
この後、石原は事変をよく知る者として、松岡洋右全権に随伴して国際連盟が行われたスイスのジュネーブまで行く。ただし、このとき日本の方針はすでに陸軍上層部や政府などによって決定していたため、石原の意見が求められることは一度もなかった。
おかけで石原も、同行はしたものの会議そのものには関心を示さず、もっぱら自分
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