OさんがFBで友人が亡くなったという話を書いていた。そこで今回は「死を受容する方法」について書いてみたい。

Oさんは、「宗教があれば死を受容できるのではないか」と書いていた。それは、半分は当たりだが、半分は外れである。

そもそも、人が死を受容できずに「つらい」と感じるのは、それが「不条理」だからである。人は、死に限らず、不条理なものを受け入れがたい。逆に、条理のあるものは受け入れやすい。

例えば、昨日まで健康だった若者が、突然亡くなった――これは「不条理」に感じる。だから、「つらい」。
しかし、100歳の身体が弱り切った老人が、とうとう老衰で亡くなった。これを、人は「条理」と感じる。だから、ほとんど「つらい」とは思わない。

そんなふうに、「つらい」の根底にあるのはいつも「不条理」なのである。不条理こそが「つらい」を生み出している。

だから、「つらい」を軽減するには、まず「不条理」を軽減することである。では、どうすれば軽減できるか?

方法は二つある。一つは、道理を理解すること。もう一つは、物語を用いることだ。

では、道理を理解するとはどういうことか?
例えば、若者が突然バイク事故で死んだとする。それだけ聞くと不条理に思えるが、そこに「普段から無茶な運転をしていた」という情報が加わると、とたんに「道理」が見えてくる。あまり不条理とは感じなくなる。

そういうふうに、世の中のほとんどのことには「道理」がある。実は、不条理なことはほとんどない。だから、道理の理解度を深めれば、不条理を感じなくなり、従って「つらい」も軽減される。

ただ、人間が厄介なのは、「つらい」を感じなかったら感じなかったで、それを「寂しい」と思うところだ。人間は、「つらい」も含めた刺激に飢えている。だから、道理の理解度が増していくと、不条理の刺激が少なくなり、それを寂しいと思うのだ。

人は誰でも、子供の頃は道理を理解していないから、世の中は不条理に溢れている。だから、「つらい」もとても多い。
しかし老人になると、道理の理解度は深まるので、不条理は感じにくくなる。ある種の老人が「達観」するのはこのためだ。

そして、宗教というのはこの「達観」を、道理の理解度を深めずに手に入れる方法だ。
例えば、若者の突然の死には、「天国で幸せに暮らしているさ」といった、物語(嘘の道理)が与えられる。すると、人はその物語の力を借りて、不条理に感じることを少なくできる。

ただし、これはあくまでも「嘘」なので、本質的に「つらい」が軽減されたわけではない。いうならば目をそらした状態だ。

人は、つらいことがあると「目をそらす」こともある。目をそらすと、つらさはかなり軽減できる。これはほとんど無意識に行われる。

宗教も、これと一緒である。物語の力を借りて、不条理やそれによって生まれた「つらい」から目をそらしているだけなのだ。

だから、ふとした折にその物語が取り払われると、とたんに不条理を感じ、つらくなる。例えば、「天国ってどんなところ?」や「幸せって何?」という疑問が芽生えたとき、それへの答えがうまく見つからないと、次第に嘘を信じられなくなる。そうして、目をそらすことが難しくなるのだ。

おかげで、今は宗教が廃れつつある。科学の発達で、そういう嘘が暴かれるようになったからだ。

しかし一方で、哲学や思想が注目を集めるようになった。特に孔子や釈迦が注目を集めるようになった。

例えば釈迦は、「つらさを感じるのは執着からだ」と考え、まず執着を取り除くことで、つらさを軽減しようとした。しかしこれは、多くの人には理解が難しい。また、理解できても、実践はなおさら難しい。なので、なかなか広まらない。

あるいは、道理の側からのアプローチも進んでいる。最近の科学は、「全ての現象が物理的に説明できる」という考えが一般的になっている。それまでは神秘的に思えていた現象も、科学を突き詰めると神秘的ではなくなるという事例が増えているからだ。この世界から、不条理の数は確実に減っている。

不条理の数が減ると、それだけ「つらい」も少なくなる。そういう方向から、死を受容できる人も、少数ながら増えている。