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「久田将義責任編集 ニコ生タックルズマガジン」

日本で一番危ないWEBマガジンが創刊!
『実 話ナックルズ』『ダークサイドJAPAN』元編集長の久田将義が、インターネットを通して新たな「アウトローメディア」を始めました。その名も「久田将義 責任編集 ニコ生タックルズマガジン」。編集長の久田氏をはじめ、様々なアウトロー著者陣営がどの既存メディアでも露出できない記事をお届けします。(毎週金曜日に はその週のまとめ記事を配信)


《今後の生放送予定》



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藤木TDC 寄稿記事
ジャーナリズムを作った「トップ屋」の時代と内情


 「トップ屋」という言葉を意識する読者はこのブロマガを読む中にどのぐらいいるだろう。ジャーナリスト志望であったり、出版業界の歴史に興味がある人ならば、その意味を知っていたり憧れを抱いたりするかもしれないが、若い方たち、だいたい30歳代よりも下の年齢層には死語ではなかろうか。しかし「トップ屋」の系譜は今も脈々と生き続けている。もちろん、ネット情報の中にもその血脈はある。

 「トップ屋」とは1950年代、日本に週刊誌ブームが起きた時に登場したフリーランスの記者、もしくは記者集団のことを差す。日本の週刊誌は1922年刊行開始の朝日新聞社「週刊朝日」や毎日新聞社「サンデー毎日」など新聞社系が先行した。この時は新聞からスライドした社員記者が取材執筆をうけもっていた。

 戦後になり紙やインクなど物資調達が回復すると文芸出版社も週刊誌の発売を企画する。その最初が56年創刊の「週刊新潮」で、大物作家の連載小説が大きな売り物であったが、週刊誌である以上、ルポルタージュ記事も載せねばならない。ところが文芸出版社に政治や事件の取材経験をもつ記者は、当然いなかった。そこで新聞社を退職した記者や、取材力や企画力のある作家志望者をフリーランスとして起用したのが「トップ屋」の発祥とされる。

 フリーランスゆえ背景の怪しさ、倫理観の欠如などから新聞社の社員記者よりも格下と見られ、それゆえに「トップ屋」=トップ記事を売り歩く商売人と揶揄されたのがその名の由来だ。名付け親は50年代に「週刊朝日」を100万部雑誌に成長させた名物編集長・扇谷正造で、ある時、新宿のバーで飲んでいた人気のフリージャーナリスト梶山季之を酔った扇谷が「トップ屋さん、元気か」と冷やかしたのが最初ではないかと言われている。梶山はこの時のことを「トップ屋戦士の記録」(83年季節社刊、93年徳間文庫)に書いている(発表当時は坂出淳名義)。
「私はウカツにも“トップ屋”という言葉を知らなかったが、ちょうどその日、仕立て下ろしの背広を着ていたので『ハハア、トップ・モード野郎という意味かな』などと考えニヤニヤしたものである」

 ここまでは洒落っ気ある記述だが、同書徳間文庫判の岩川隆(直木賞候補になった有名作家だが、出自は梶原門下の有名トップ屋である)の巻末解説には、梶山が扇谷に冷やかされた直後に「トップ屋なんぞと言いやがって」と憤慨したのを聞いたと書いている。

 梶山はトップ屋時代に今上天皇、当時の皇太子明仁殿下の妃候補をすっぱ抜いたことで有名だが、彼の無署名記事を集めた「トップ屋戦士の記録」を読むと、政治社会ネタばかりでなく赤線廃止後の性風俗状況やルバング島残留兵士小野田寛郎の素性と中野学校、戦後の新橋での戦勝外国人と日本人ヤクザの激闘(いわゆる新橋事件)など、今日の実話雑誌が掘り起こしてネタにしていることをすでに書いているのが面白い。ネオ実話誌と呼ばれる雑誌は、実は50年代に「トップ屋」がすくいあげたゴシップのリイシューともいえるのだ。

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 初期の「トップ屋」といえば先の梶山のほかに草柳大蔵、北川衛、三田和夫などが有名どころであるが、彼らの来歴については、現在は入手しづらいが「首輪のない猟犬たち」(72年 産報)が面白い。グループを組織して取材活動をしていた前出の人々のほかにも、竹中労、清水一行、猪野健治などの一匹狼のトップ屋の成果や素性を扱っている。筆者は知らなかったが、同書には「ノストラダムスの大予言」を書いた五島勉も60年代のトップ屋のひとりだったとある(『微笑』などに風俗記事などを書いていたらしい)。取材記事で身を立てられなくても、「大予言」のようなオカルト書籍のベストセラーで成功する方法もあるのだなあと、フリーライターには参考と励みになる記述であった。

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「首輪のない猟犬たち」では「週刊新潮」創刊時の編集システムの作られ方も記載されている。取材記者を社員として採用せず、あくまでも外部スタッフとして出来高の原稿料で雇ってきた。しかも個人の才能に全てをまかせず、複数のデータマン(取材者)とアンカーと呼ばれる最終執筆者によって記事がつくられるなど、今日の週刊誌と同じシステムがこの時作られたことがわかる。

 参考までに同書にある週刊誌の記事の製作順序を以下に引用しておこう。これは今もまったく変わっていない定着したスタイルだ。

・編集長、編集次長、デスク級編集部員(以上正社員)、そしてプロデューサー級の社外記者が集まってトップ記事やサブ・トップ(第二特集)の企画会議を開く
・企画が決ったら各プロデューサーの担当を決め、モノによっては取材員を各プロデューサーに割り振る。
・プロデューサーは、指揮下に入った取材記者に適当な指示を与え、取材に出発させる。
・プロデューサーは取材記者から刻々はいってくる情報をきいて、必要な処置をする。
・十分にデータが集まってたら、取材記者にデータ原稿を書かせる。
・データ原稿をリライター(アンカーともいう)に渡す。リライターの手がふさがっている時は、プロデューサー自身が完成原稿を書く。
・できあがったものを編集長や編集次長が目を通し、気に入らなかったら書きなおす。
・編集整理マンが原稿の割りつけをしてして印刷工場におろす。

 予算の少ない雑誌はデータマン、アンカーを分けずにすべてひとりのフリー記者に放り投げることがあるし、編集整理マンは現在ならデザイナーということになろうが、週刊誌はだいたいこの順序で作られている。かつて「トップ屋」は新聞社系週刊誌の社員記者の代替策として生まれたが、現在では「週刊朝日」も「サンデー毎日」もフリー記者に取材させる形式だ。「トップ屋」は新聞社に勝ったのだ。

 最後に「首輪のない猟犬たち」にはトップ屋の原稿料も記載されているので、参考までに紹介しておこう。