ひらめさんの徒然話

No.005 日食と戦と海外の記録

2017/05/30 12:30 投稿

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前々回から古事記・日本書紀についてご紹介しながら、年代のズレや天皇の長命について調整を行おうと試みています。
前回の神功皇后の時代では、日本書紀の朝鮮半島の記事とあちらの史書の記事を突き合わせることで、日本書紀のズレを割り出しました。

今回は調整の基準となる歴史的事実について述べていきます。

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そもそも何故、年代のズレが生じるのか
「神功紀での120年のズレ」の問題は享年の長い神功皇后・仁徳天皇の時代でそれぞれ干支1周分(計120年分)時代を下らせることで数字的には辻褄が合いました。

本来なら神功皇后・仁徳天皇それぞれの時代の各記事についても解釈をし直したり、誤りとして削除するなど評価を加える必要があると思いますが、その作業は膨大で困難を伴いますので、なんとか年表の数字の上での操作でどうにかそれらしい調整が出来ないものか試行錯誤したいと考えています。

しかし、そもそも何故、記紀には年代のズレが紛れていたり、天皇が異常な長命の持ち主として扱われたりしているのでしょうか?

編纂時にはすでに正確な年代が不明になっており、年代を古く見せることで権威を高くしようとしたのでしょうか?

それもあると思いますが、ならば、ちょうど干支1周分ずらす理由が分かりませんし、そもそも干支を使う理由が不明です。

筆者にはどうも本来の年代に復元できるようワザとヒントを与えているように思えてなりません。

本来の歴史の年代を過去に遡らせることで、過去から存在するように見せるのであれば、各天皇ごとに不規則に在位年数と享年を割増して、復元可能なヒントが残らないようにすべきでしょう。

海外の歴史書などと照らし合わせて、規則的に足し引きすればもとに戻るのであれば、そもそも改変する意味がなくなってしまいます。

何故復元可能な形で改変が行われたのかについては、宗教的な理由があったと思うのですが、それはまたの機会にしたいと思います。

記紀の編纂者がそのように復元可能な形での改変を行ったのであれば、改変自体は例外なく規則的な形で行われたはずです。

前置きが長くなりましたが、このあと紹介する基準を頼りに、最小限の規則で年代の復元を試みてみましょう。

日食と戦争の記録1~狗奴国との対立

以下は魏志倭人伝(魏志東夷伝倭人条)の正始8年(西暦247年)の有名な記事になります。


図1:魏志倭人伝正始8年の項「https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝」より

邪馬台国の要請により魏の役人である張政が派遣され、張政が送還されるとともに、貢物を魏の皇帝に献上したところまでがこの年の記事なので、墓を作る、男王が即位する、騒乱が起こり多くの死者が出る、台与が共立され騒乱が収まるという一連の流れが西暦247年に生じたことが分かります。
そうでなく張政の帰還が翌年以降になるなら、別の年の記事になるかと思います。

また、収まるまでの騒乱(狗奴国との対外戦争なのか内乱なのか明示無し)が短いものだったことが分かります。
女王国と狗奴国の不和が男王から台与への切り替えで収まるとは思えないので、国中遂定とありますが、狗奴国との対立はそのままでしょう。
この文章は魏の威光と使者の効果を過大に表現しているように思えます。

「卑弥呼以て死す」の下りが「卑弥呼は死んでいたので(墓を作っていた)」のか
「(告諭した内容が影響したので)卑弥呼は死んだ」という説があるようですが、筆者は中国語の表現に疎いので、文の流れから前者の立場を取ります。
つまり、247年中の張政が来日するまでには卑弥呼は死んでいたと仮定することにします。
卑弥呼の死を事実として簡潔に扱っているだけで、墓の規模や殉葬者など見聞きしたであろう様子と比較して扱いが軽いから、というのが一応の根拠です。

ちなみに、240年にも魏の使節が邪馬台国に派遣されていて、この時に親魏倭王の金印を受けています。この時点で漢委奴国王印と合わせて(私たちの知るところで)2つの金印があるということです。

もう一つ、魏志倭人伝には書かれていませんが(三国志自体には記述がある)、247年にはイベントがあります。日食です。

専門家の研究がありますので、詳しくはそちらを参考にしてください。『天の磐戸』日食候補について247 年 3 月 24 日の日食について

卑弥呼は日巫子あるいは日御子であり、天照大神のモデルもしくは本人で、天の磐戸伝説は日食を象徴しているという説があります。
つまり、日食と前後して(もしくは因果関係があって)卑弥呼がなくなったことを天の磐戸に天照大神が隠れたこととして、台与が共立されたことを天照大神が天の磐戸から出てきたこととして語り伝えているのだという説です。
これに相当する日食が後漢書などの歴史書に記載されており、シミュレーションによっても247年3月24日(旧暦2月1日、日食は新月のときに起こるので太陰暦だと1日になる)に畿内から北九州にかけて発生しうることが確認されています。(先程の論文)

ここでは天の磐戸伝説に相当するかどうかは脇においておきます。

長くなりましたが、まとめます。
  • 西暦247年皆既日食
  • 前後して卑弥呼死去
  • 内乱の発生
  • 新女王として台与共立
  • 狗奴国との対立はそのまま(その後の戦争が予想される)
そうそう、対応する記紀の年代も当たりを付けておかないとなりません。卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命や神功皇后にあたるのではないかという説があります。神功皇后の年代は前回の試算で西暦320年あたりとなりそうなので、倭迹迹日百襲姫命の年代になるかが指標になりそうです。倭迹迹日百襲姫の死亡記事が崇神天皇の時代にありますので、崇神天皇の御代ということになるかもしれません。
日食と戦争の記録2~倭国大乱

同じような構図は他にもあります。

図2:魏志倭人伝倭国乱「https://ja.wikipedia.org/wiki/倭国大乱」の魏志倭人伝の項目より


図3:後漢書東夷伝倭国大乱「https://zh.wikisource.org/wiki/後漢書/卷85」より

魏志倭人伝のほうの其の国とあるのは邪馬台国のことです。書き出すと
「邪馬台国は元々70~80年ほど男王が支配していた、その後、後漢の桓帝から霊帝の時代(146-189年)に倭国内で戦争が発生し数年間に渡った、女王卑弥呼が共立され収まった」

この時代の卑弥呼は247年死去した卑弥呼とは別人でしょう。共立されていることから考え、カリスマではなく、血統も高く各氏族によく知られており、協調を大切にする人物だったはずです。(後の卑弥呼がそうではないとは言ってない、、、)

ここで倭国と邪馬台国が使い分けられていることに着目します。
古代中国から見れば、日本列島の倭人が住む領域が倭国で、邪馬台国はその一地方政権に相当します。
邪馬台国を含む倭国内の数か国を巻き込む戦争が発生し、其の国々の中で制覇する男王が生じず、女王を共立することで争いが収まったと解釈できます。
つまりこの時点で、連合国家が誕生したとも解釈できるのです。

脇にそれますが、魏志倭人伝のほうでは邪馬台国の経緯まで把握しているところが興味深いですね。もっと詳しく書いてくれればよかったのに、、、それと、男王が7~80年続いたとありますがその前はどうだったのでしょう?其の頃建国されたと見るのが妥当でしょう。

さて、ここでまた日食があります。
部分日食も含めると日食は結構頻度が高いですが、場所と程度を限定すると頻度は低くなりますし、結局首長が日食と戦争を紐付けるかどうかにかかってくるので、日食があったから戦争があると言うわけではないのですが、仮説を立てたり年代を限定する参考にはなるはずです。

前掲の資料の中では158年の日食が臭そうです。

まとめます。
  • 西暦158年皆既日食
  • 西暦146-189年頃、邪馬台国を含む倭国内の数か国を巻き込む戦争が発生
  • 卑弥呼を共立して争いが収まった
西暦200年前後に出雲において銅鐸の時代が突然終了し、銅鐸が丁寧に地中に埋められた状態で発見されていますが、そのことと倭国大乱を絡める説があります。また、孝霊天皇が出雲に遠征する伝承が山陰地方にあることからこれに絡める説もありますし、孝霊天皇の娘が倭迹迹日百襲姫命でこの方が卑弥呼であるという説もありますので、この時代とむすびつくかもしれません。

日食と戦争の記録3~東征開始と日食だんだん恣意的な感じがしてきますが、あくまで試算のためのパラメータや見込み感のためなので、もう一つお付き合いください。
神武天皇の即位年を720年(干支12周分)繰り下げた場合の年表です。

西暦53年 日食(奴国で皆既?)
西暦54年 甲寅の歳東征の開始 (日本書紀の干支を720年繰り下げ)
西暦56年 日食(日向で皆既?)
西暦57年 漢委奴国王金印受領(後漢書)
西暦58年 (大和)攻略開始 (神武天皇前紀5年記事を720年繰り下げ)
西暦61年 神武天皇即位(神武天皇元年記事を720年繰り下げ)

金印を受領して他国を攻めるというのは、邪馬台国の卑弥呼のときと同じです。今後行う記紀の年代調整で720年繰り下げで辻褄があうのであれば、この年表が導かれることになりますが、金印受領後にどの国を攻めたのでしょうか?

この場合、結果は神武天皇の即位ですが、日御子の即位ということで締めたいと思います。

まとめ
  • 年代の見込みをつけるために3つの時代をピックアップしてみた。
  • 年代は後漢書や三国志の記事がベース
  • 日食を絡めると年代を特定しやすいが、日食と戦争の因果関係が証明できないのであくまで状況証拠としてピックアップ
  • 例1:西暦247年前後、崇神天皇、倭迹迹日百襲姫の時代
  • 例2:西暦146-189年頃、孝霊天皇、倭迹迹日百襲姫の時代
  • 例3:西暦57年前後、金印受領の時代
  • 日食→戦争→天皇・女王の即位というパターンが見られますが実際どうなんでしょう?
倭の五王も年代特定の要素になるんですが、そちらは後の機会にしたいと思います。
(今回、分量が多くなってしまったため)

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【次回予告】
今回ピックアップした例を参考にしながら、規則的に日本書紀の年代を調整し、数値的な矛盾点や発見について考察していきたいと思います。




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