(長文ですが読んでいただければ幸いです)
使徒パウロは、「肉に属するクリスチャン(肉的な人)」は「ただの人(救われていない未信者)と同じ」と言っています。
肉に属する人というのは、霊は与えられているのに、霊に従って生きることができておらず、この世の考え方や価値観に影響をうけて生活しています。つまり、クリスチャンとして霊的に幼い状態にとどまっている人です。
この「肉」という言葉は誤解され乱用されているケースも少なくありません。
たとえば、「お酒を飲む人は欲があって肉的」「タバコがやめられない人は肉的」「豊かに暮らしたい人は肉的」「恋愛したい人は肉的」など、表面的なことだけ取り上げて批判するのは誤りです。
「肉的」の意味はそれだけではありません。律法主義や心の伴わない善行も含まれるのです。
もし、お酒を飲む人が肉的と非難されるならば、コーヒーを毎日飲む人も肉的と言えます。(※コーヒーは依存性があり、アドレナリンの分泌を促すためテンションがあがります)
人が人を肉的と決めつけて裁くのは神様のみこころでしょうか?
「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか」(Ⅰコリント3章3節)
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5章9節)
霊的に成長した人々は「一致に向かう傾向」があります。
教会はキリストのからだです。その各部分が愛のうちにしっかりと結び合わされていきます。独りよがりな信仰や分裂分派とは対照的です。
批判されるとムキになって言い返す、なにごとも自分の考えや思想や感情を優先し、その言い訳に「霊的な意味」という言葉を多用する、自分を不愉快にする人をたやすく排除する、そういった愛のない行いに「一致」があるでしょうか?
「一致」といっても、ここで気をつけたいことがあります。
誤った教えや解釈に盲目的に「アーメン!」と同調することは一致ではありません。
肉的な人の信仰の特徴は、「クリスチャンはこうあるべき」「こうでなくてはならない」という自分で作った律法でがんじがらめになります。
いうなれば「律法的な信仰」です。
「御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」(ローマ人への手紙8章4節)
ここにある真理があります。
努力のみで神の律法の要求を満たそうとしていませんか?
私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、律法からは完全に自由にされました。「罪と死の原理から解放された」わけです。
神の愛、イエス・キリストの十字架と復活を信じているのに、罪悪感に苦しむ人もいます。そこから抜け出せないならば、それは「御霊に属する人」でなく「肉に属する人」として歩んでいるからです。
欠点だらけの自分自身がイエス・キリストによって100%受け入れられているという恵みを信じきれていない状態ですが、厄介なことに自分ではそれを意識していません。
神様からの恵みや祝福を受けきれていない、他の人のように証がほしいという強い欲求から、ぽっかり開いた穴を何らかの形で埋めようとし、その結果、律法的な信仰に陥ることになります。
パリサイ人や律法学者は、人の表面的なことに執拗なまでに固執し、心は神の御旨から離れていました。
たとえば、隣人を愛さなければと思っているのに妬み、不満、怒りなどのネガティブな感情を感じることがあるとします。そういったときに、何をするかというと自分が作った律法を守ることに力を注ぎます。
自分で作った律法とは、たとえば、毎日決めた時間にしっかりとディボーションしたり、聖書を最低1章は読むとか、伝道者ならば毎日きまった時間に伝道をし、それが無事にできれば、「今日は祝福がある」と安心するのです。
その自分の律法を遵守するためには、途中で来客や電話があったり急用が入っても、自分がすべきと確信していることを優先します。そのため、人との関わりをないがしろにする、そして愛よりも自分の律法を大事にするのです。
何かを守れば祝福されるという考え方こそ、律法的な信仰そのものということに、なかなか気づけないのです。
そのような自分で作ったきまりで自分を縛るのは、強迫性障害にも似ています。
自分の律法に固執して生きていくと、必ずといっていいほど他人を裁くようになります。
「自分は知識がある」「自分は霊的だ」と思っているクリスチャンほど、他人を見て「あの人は未熟だ」「あの人は肉的だ」などと裁きます。
そういう感じ方をすることは、キリストの心から離れています。
人の一部分しか見えないのに決めつけたり、自分より劣ると見てしまう高慢さを神様はもっとも嫌います。
「人はうわべを見るが、主は心を見る」(第一サムエル16:7)
霊的に成長しているクリスチャンは、自分のものさしで測って他の教会やクリスチャンの悪口を軽々しく言わないものです。
また、「自分こそが油注ぎがある」などと吹聴しません。
自分で自分を褒めて高ぶるものは神様によって低くされるのです。
自分なりの律法を守り他人を裁く、それはもう「御霊の一致」とは反対方向に向かうのは当たり前です。
こんなふうに書くと反論もあるでしょう。「こうしなければというものがないと、人間は自分を甘やかして楽な方に向かってしまう」と。
でも、そうではありません。
「こうでなくては」と縛りつけて自分や人をコントロールすることこそが肉的なのです。
「こんなにも自分を愛してくれている神様の御心にそって仕えたい」と心の奥底から思い、喜んで自然にそうできるのが、御霊に属する人の姿です。
ベビークリスチャンのころはそれでも仕方ありませんが、10年、20年と律法的な信仰のままではいつまでも霊的成長はないでしょう。
「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」(ローマ人への手紙12章2節)
人間関係は常に平穏ではありません。誤解されたり中傷されたりすることもあります。そんな時に自己中心的な心で見てしまうと、傷ついて心のバランスを崩します。
「信じていたのに裏切られた」、「自分はクリスチャンなのに怒ってしまった」「赦さなければならないのに赦せない。自分はダメなクリスチャンだ」「神様は信じるけれどクリスチャンは嫌い」と結論づけてしまうとしたら、これは肉の心で見た自分です。
では、キリストの心で見るとどうなるでしょうか。
神様に受け入れられていると信じているので動揺しません。ただ、事実と原因に心が向き、どう行動したらよいか知恵が与えられます。
自分を嫌っている人がいると知っても、神様には愛され守られていることを知っているので心が平穏でいられます。
「こうでなくてはならない」という考え方を持って信仰生活を送っているのであれば、それは苦しいものとなるでしょう。
主がいつも共にいて下さり、ありのまま愛して下さっているのに、なぜ苦しむのですか?
聖書の本質をつかみましょう。
律法的な信仰は捨てましょう。御霊にしたがった健全な信仰であるために。