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古墳!

2016/02/02 19:47 投稿

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古墳とは大昔の日本人が作った偉い人のお墓である。

一般的に3世紀中頃〜7世紀の古墳時代と呼ばれる時期に築かれた墳丘を古墳と呼び、その中でも天皇や特定の皇后が埋葬されているものを陵墓や天皇陵という。

陵墓は巨大であれば巨大であるほどに権力者の力を支配民にも敵対者にも誇示することができる。この考えは世界中にあるのだが、日本の古墳は世界的にみてもトップクラスの大きさである。日本最大の古墳である仁徳天皇陵(大仙陵古墳)はエジプトのクフ王 のピラミッド、中国の始皇帝陵と比べても遜色ない大きさであり、これら3つ合わせて世界最大墳墓と呼ばれている。権力者は朝鮮半島や中国の人が来た時に大型の古墳を見せて、来訪者に自分たちの力をアピールしていたと考えられている。

古墳造営の工事はまず立地の選定から行われる。集落に近い場所や、渡来人の目につきやすい港の近くの場所が選定されると、最初に土地を平坦にならし、古墳の形を地面に描く。その後、周りに壕を掘り、そこからでた土を用いて盛り土が行われる。盛り土の完成後は、斜面に石が敷き詰められ、同時に周りの斜面に窯が築かれ埴輪が焼成されていく。最後に円丘部の頂上か、前方部に埋葬のための穴が掘 られて石室が置かれる。そこに被葬者が埋葬されるのだ。施工中は工事全体を見渡すため に、少し離れた場所に櫓が立てられ、そこから監督者が指示をだしていたようである。大型の古墳になると一日2000人が働くとしても15年以上もかかる大事業であった。

日本にある古墳というのは意外に数が多く、トップスリーの兵庫県の16,577基、千葉県の13,112基、鳥取県の13,094基をはじめ、全国には約160,000基の古墳が存在する。古墳は日本のいたるところに存在するので、知らないだけであなたの家の近くにも存在するかもしれない。

首長を埋葬した古墳で行われた祭祀は、亡きリーダーの霊を鎮魂し、その霊を次世代の首長が継承するというのがこれまでの定説であった。しかし近年の研究では、人間が肉体と霊魂から成り立っているというその考えは五世紀後半になってようやく日本に生まれたものだと指摘され、この考えに無理があることが分かった。現在では、死した首長が共同体を守るカミとなるために、首長の肉体を墓に閉じこめ封じ込めるための儀式が古墳で行われたという説が唱えられている。古墳に埋葬される首長は3、4世紀の間には銅鏡や玉、腕輪など祭器的なものが多く、司祭者的なリーダーであり、5世紀の古墳時代中期になると副葬品に武具が目立ち、大王が武人化したことが伺える。

古墳の種類

古墳はその形から大きく4種類に分けられる。

  • 前方後円墳
前方後円墳は3世紀中頃に成立した形で、大王やその一族、地方有力豪族が埋葬されていると考えられている。最上位の形である前方後円墳は200mを超えるものもあり、後述するように単なる大王の示威を越えた強い政治的な意味合いをもつ形態であった。
前方後円墳の独特な形には昔から色々な説が唱えられてきた。一つには何かの形を由来とする形象説がある。あの形は貴族の乗った宮車だ、いや盾だ、壷だ。果ては男根のメタファーだとも叫ばれた。もう一つには実務的な意味をもった機能説がある。あの形は祭壇や神殿に使うのに適しているという説であるが、今のところは決定的な通説は存在しない。


(大仙陵古墳、仁徳天皇陵。大阪府堺市)

  • 前方後方墳
前方後方墳は3、4世紀に東海地方をルーツに流行した形であるが、5世紀になると概ね姿を消し、代わりに帆立貝式古墳が築造されるようになった。その後の前方後方墳は出雲に一部建造されるのみとなる。


(大安場古墳。福島県郡山市)

  • 円墳
円墳と方墳は首長に直属する人の墓と観られており、群衆墳に多く観られる。円墳は数ある墳形の中でももっとも数多く作られた形であり、全古墳全体の9割を占める。それだけ作るのが簡単だったのだろう。サイズは小さいものが多いが、埼玉県の丸墓山古墳のように100mを越える巨大なものもあった。前方後円墳は大和政権の許可がなければ作れなかったため、大和と関係は薄いが有力な豪族がそのような大きな円墳を作ったのだろうとされる。


(野田院古墳。香川県善通寺市

  • 方墳
方墳は五世紀の畿内では陪塚として大王の陵に付随するケースが多くみられる。しかし7世紀になって前方後円墳が廃れると、円墳や方墳が大王や有力首長の墓として採用されるようになった。かの有名な蘇我稲目や蘇我馬子もこの方墳であったとされる。

(作山3号墳墓。京都府加悦町)

上から順に埋葬されている人物のヒエラルキーは上位になり、畿内の大和政権との距離も近くなっている。

また、以上の4つを基本形に多種多様な古墳が今までに発見されている。

  • 2基の円墳を連結した双円墳 
  • 方墳の上に円墳が乗った上円下方墳 
  • 円丘の両側に方型の突出部をもつ双方中円墳 
  • 方墳が二つ連結した双方墳墓(大阪府太子町の二子塚古墳の一基のみ) 
  • 帆立貝の形をした帆立貝形古墳(前方後円墳の亜種) 
  • 方丘に二つの方丘が繋ぎ合わせられた双方中方墳(三重県津市の明合古墳のみ)
  • 飛鳥時代に天皇家が用いた六角墳
  • 奈良時代に使われた八角墳
さらに古墳の中には内部に彫刻や彩色が施されたものがあり、これを装飾古墳と呼ぶ。装飾古墳の分布は福島県や佐賀県など北九州が中心であり、朝鮮半島の影響をつよく受けていたものだと推測されている。装飾には死者の乗り物であったり、僻邪のために武器が描かれており、とりわけ高松塚古墳とキトラ古墳の壁画はきわめて豪勢であり、前者には玄武・青龍・白虎・朱雀の四神と男女16人の人物像、天文図。後者には同じく四神と十二支群像と天文図がカラーで描かれていたのである。これらの古墳は仏教が伝来する以前の日本の死生観が描写されており、古代史上最大の発見とも言われる。

           
         高松塚古墳壁画          キトラ古墳壁画
   

古墳の歴史

              
            卑弥呼              箸墓古墳

古墳の起源は弥生時代(紀元前10世紀〜紀元3世紀)にまで遡る。弥生時代の日本で水稲耕作が始まると開田や水路の維持などにおいて共同作業が行われ、また同時に有限である土地や水を巡って他集落と争いが起きるようになった。こうして社会状況の中で人々は共同体を統治する首長の存在を必要としだしたのである。共同体の拡大によって首長の権力が高まると、やがてこの首長のための墳丘墓が築かれるようになった。3世紀になると奈良盆地に大和政権の首都、纒向(まきむく)が出現する。 纒向遺跡には前方後円墳が次々と築造され、弥生時代の終わりと古墳時代の幕開けを告げた。

中国の魏志倭人伝には2、3世紀の倭国は邪馬台国の卑弥呼が鬼道によって人々を治めていたと記されている。卑弥呼が没したとされる247年頃に築造されたと考えられている奈良県桜井市の箸墓古墳は、それゆえ卑弥呼の墓ではないかと言われているが、この箸墓古墳をきっかけに古墳時代が始まり、そのすぐ北の大和(おおやまと)や柳本古墳群には、西殿柄、渋谷向山(しぶたにむこうやま)、行燈山など巨大古墳が4世紀中頃までどんどんと築かれていった。

4世紀になると中国では五胡十六国の大混乱時代が始まり、中国の歴史書で日本のことが分からなくなってしまう(空白の時代、そのため古墳は当時の日本を探る有力な手がかりとなったている)。古墳時代も時代が進むと(4世紀後半)、奈良盆地北部の佐紀と南部の馬味の地に、また5世紀には大阪平野の古市と百舌鳥でそれぞれ大型古墳の建造ラッシュが始まった。そうした中で大王陵も大和から佐紀へと移り、続いて古市、百舌鳥へと移動していく。これは大和政権の中枢の大和では古墳のための土地不足になったのにくわえ、佐紀、古市、百舌鳥、馬味の首長が輪番制で大王を補佐し、大王の古墳を築造していったと推測されている。

5世紀になると中国では南北朝時代が始まり、再び日本のことが歴史書に記されるようになる。それによれば倭国では大和政権が数多くの遠征の果てに、統一国家を築いたとされる。大和政権は古墳を用いて中央ー地方の関係を築いて日本を治めていた。まず大和政権は征服した地方首長に前方後円墳を築く許可を与え、地方の首長はその許可のもとに古墳を築き、自らの地方支配の正当性を示した。それは同時に大和政権が朝鮮半島の新羅や伽耶から独占的に入手する貴重な鉄資源を分配するシステムでもあった。つまり地方豪族たちは鉄を安定して手に入れるために、前方後円墳国家の一員、つまり大和政権の支配下に入らなければならなかったのである。

また大和政権=前方後円墳国家の興隆の裏には時代の国際化の波があった。当時の日本は倭の五王(讃、珍、済、興、武)が中国に貢物を送ったり、朝鮮半島では高句麗が南下して百済と新羅を圧迫し、渡来人が日本にやってきたり、逆に日本が朝鮮半島に兵を送ったりもしていた。そんなグローバル社会の中で日本は国家を統一する必要性に追われ、また同時に自国の権威を見せつけるために、巨大で堂々とした古墳を築く必要があったのだと言われる。


        
       厩戸皇子(聖徳太子)         室宮山古墳

5世紀から6世紀にかけて大和政権で権力を握ったのが葛城氏や平群(へぐり)氏である。葛城氏は朝鮮での戦争や外交にも活躍したが5世紀末に雄略天皇によって滅ぼされ、また平群氏は6世紀中頃、大伴氏によって失脚させられた。その後、大伴、物部の大連(おおむらじ)時代を経て日本は仏教を受容し、渡来人と密接な関わりをもつ蘇我稲目、馬子が台頭を果たす。そうした中、それらの大豪族の古墳もまた残っていく。御所市から葛城市に広がる南郷遺跡群には葛城氏の拠点が存在し、全長200m級やそれ以上の前方後円墳が造営されている。その中でも仁徳天皇の皇后、磐之媛(いわのひめ)の父にあたる葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の墓とされる室宮山古墳が有名である。政権を握った豪族には大王と同レベルの古墳を作る権利があったことが分かる。また6世紀から7世紀にかけて活躍した蘇我氏の本拠地の飛鳥には都塚古墳や石舞台古墳が築かれている。

507年に即位した継体大王は強い指導力で大和政権の中央集権を進めた。その流れを受け継いだのがこの継体のひ孫にあたる厩戸皇子。かの有名な聖徳太子である。593年に推古天皇の摂政となった皇子は冠位十二階などの制度で豪族の世襲制を防ぎ、十七条憲法で豪族に天皇への服従を誓わせた。これによって畿内の前方後円墳は徐々に規模が縮小し、6世紀後半には築造は終焉を迎える。東国ではその後も大型古墳が作られるもそれも7世紀はじめには終わり、350年続いた前方後円墳の時代は終わりを告げた。

最後の大物豪族である蘇我氏も大化の改新の乙巳の変で滅亡し、天智天皇の後に壬申の乱で勝利した天武天皇は古墳に使うエネルギーを産業や開墾へと傾けていった。646年には薄葬令が発せられており、豪族による古墳の建造は停止。大王の墓も前方後円墳から方墳や円墳。そして7世紀の中頃には中国の政治思想に影響された八角墳が大王陵として採用されるようになった。7世紀末になると仏教思想に基づいた火葬が採用され、文武天皇が火葬後、八角墳に葬られたのを最後に古墳築造は完全に終焉を迎えた。

以上が古墳終焉の定説であるが、最近は6世紀に死後に遺体と魂が分離するという霊魂観が成立し、前方後円墳の宗教的根底が崩れ、その後に7世紀、朝鮮半島の戦争の影響を受けて日本の中央集権化が進んだ結果に古墳文化が失われたという説も有力とされ始めた。

古墳時代はきわめて史料が乏しくそのためあやふやなところが多い。

参考文献『知識ゼロからの古墳入門』広瀬和雄著、幻冬舎


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