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著作紹介『国家と革命』レーニン

2015/09/17 23:37 投稿

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国家と革命』はウラジーミル・レーニンが1917年に著した国家論である。

まずは本書におけるレーニンの課題と目的を確認しよう。

課題:国家と労働者はどのような関係にあるべきか? を考察する。

目的:マルクス主義を歪曲する日和見主義者[1]を批判する事。また国内に向けての政治マニフェストの提示

『国家と革命』を著した時期のレーニンは革命を直前に控えながらも、ロシア一国で革命が成し遂げられるとは考えていなかった。革命の成功のためには、どうしてもヨーロッパ諸国。とりわけマルクス生誕の地であるドイツの協力が必要だったのである。しかし当時のドイツでは、日和見主義者、修正主義者[2]、社会民主主義者[3]が跋扈し、マルクス主義の本質を歪めて人々の間に広めてしまっていた。そこで、誤解されたマルクスの国家論を修正しようとしたのが、この『国家と革命』である。マルクス主義の本来を取り戻すという目的のため、レーニンは本書においてマルクスとエンゲルスの著作からの引用をふんだんに行いながら、マルクス主義国家論と革命論を解説していく。

この書の課題である「国家と労働者の関係」についての答えを一言でいうと「労働者の解放により、国家は死滅する」ということになる。この「国家は死滅する」という国家観はマルクス主義の本質でありながら、日和見主義者たちはこれを理解していなかった。レーニンはこの書を通じて、来るべき革命とその後の社会がどうなるか。またその各々の段階において労働者がいかなる役割を持つかを具体的に描きだす。

国家が死滅するまでの過程を簡単にまとめると以下の3つのプロセスに要約される。

①ブルジョワ国家はプロレタリアの暴力革命によって「廃絶」される。

②ブルジョワ国家にとって代わるのは、武装市民によるプロレタリア独裁国家である。

③しかしやがてプロレタリア独裁国家も必要ではなくなり、ついには国家そのものが「死滅」する。

以上を踏まえて、レーニンが思索した共産主義社会の実像と、そこに至るまでの道のりについて詳しく見ていこう。


序文

レーニンは『国家と革命』の序文においてまず「国際プロレタリアートは国家に対していかなる姿勢をとるべきか?」という課題を読者に提示する。

当時の世界的社会主義運動は労働者の側のふりをしながらブルジョワの利益に立つ日和見主義がはびこっていた。イギリス、フランス、ドイツなどの先進ヨーロッパ諸国の日和見主義者は「植民地と戦争は我が国の利益なのだ」と臆面もなく叫び、社会主義者を名乗りながら帝国主義戦争に賛同するのである。そんなブルジョワ的固定観念を打破し、ブルジョワジーの支配から労働者を救い出すためには「プロレタリアートの社会革命と国家の関係性」ついて検討をする必要があるのだとレーニンは考えた。


第一章 階級社会と国家

第一節 階級間の抜きがたい対立の産物としての国家

まずレーニンはエンゲルスの著作『家族、私有財産、国家の起源』を引用しながら、そもそも「国家」とはいかなるものなのか? という問いに答える。それによれば、国家とは階級の対立が解消できず、階級が固定化した結果生まれる機構。より簡単に言えば「国家とは階級闘争のための道具」なのである。この国家観はマルクス主義の本質と言っていい。にも関わらず、日和見主義者とカウツキー(社会民主)主義者はこの考えを2つの点で歪曲してしまう。

まず第一に日和見主義者は「国家とは階級闘争を和解させるための機関である」と言う。これはマルクスの国家論の真逆であることは明らかだ。カウツキー(社会民主)主義者による第二の歪曲はこれよりも更に巧妙である。彼らは「国家が階級闘争の道具」であることは理論的に否定しない。しかし彼らはその道具をプロレタリアによって掌握し、プロレタリア国家による政治を目指す。彼らの主張はマルクス主義のように見えて、まったく違うものである。マルクス主義は国家権力の死滅を目指すが、社会民主主義者は国家権力を存続しようとするのである。

国家の権力が階級闘争から産まれたものであるのなら、国家権力とは人間社会からとめどなく疎遠になっていく権力である。それゆえに抑圧された階級(プロレタリア)を解放するためには、暴力革命による国家転覆だけでなく、「ブルジョワ的国家権力機構を廃絶する」ことは必要不可欠である。だが、カウツキー(社会民主)主義者はこの点をうやむやにし、官僚や議会、警察などブルジョワ的国家権力機構をプロレタリア国家でも用いようとする。その結果、彼らの主張は本来のマルクス主義からはかけはなれたものになってしまっているのだ。

第二節 武装した人間の特殊部隊、監獄、その他

国家権力は社会から生まれながらも、社会の上に立ち、社会から疎遠になっていく権力概念である。国家権力は特殊特殊部隊である常備軍と警察を、さらに人民を閉じ込めるための監獄を持っている。これらは全て国家権力が被支配階級を抑圧するための道具である。常備軍や警察といった武装集団は、本来社会が持つべき、自主的に作られた武装集団とは直接に一致しない。仮に、被支配階級階級が自分たちを抑圧する警察や常備軍に対抗して、後者のような武装組織を結成し、自らの階級に属させようとしたとき、階級闘争は武力衝突に発展していくのは間違いない。しかし実際に存在するのは国家権力による武力のみである。被支配階級(プロレタリア)は国家権力に属する警察や軍隊に今も抑圧され続けている。こうして肥大化した国家権力の持つ武力は、19世紀から拡張を重ね、20世紀に入ると侵略戦争は大幅な前進を遂げることになった。

第三節 抑圧された階級を搾取する道具としての国家

国家権力は社会に対して徴税をすることによって、社会機構でありながら社会の上に立つ存在となる。そしてまた、その国家権力の実行者である官吏には法的に特権が与えられ、彼らもまた社会の構成員でありながら社会の上に立つ存在となる。しかしここで、国家権力や官吏が社会の上にたつ根拠とは一体なんであろうか? という問題提起をすることが可能であろう。その答えはマルクスの国家論を思い出す事ができれば自ずと想起されるはずだ。マルクスによれば、国家とはある階級が別の階級を抑圧し、搾取するために生まれた道具なのだ。とすれば国家権力が社会の上に立つ根拠とは、経済的優位性に他ならない。経済的優位を持った階級(ブルジョワ)は、国家権力と権力と結びつき、政治的優位をも得て、更なる抑圧と搾取を開始する。例えば民主共和制[4]であれば、国家権力を直接買収したり、あるいは国家権力と同盟するという方法が挙げられる。実をいうと普通選挙による民主共和制はブルジョワにとって非常に都合のいい政治体制なのである。日和見主義者やプチブルジョワ民主主義者[5]は、普通選挙は民衆に意思で政治を決める制度であると信じているが、その実、普通選挙とはほとんど何ももたらさないとエンゲルスは言う。

エンゲルスによれば国家とは、人類の経済発展と共に階級の分化が起こり、その結果必要となった社会機構なのである。しかし、いまや階級は経済にとって有害なものになった。となれば階級と国家が死滅することは必然であろう。その次の社会では人々は自由で平等な協力をしながら経済を営んでいくことになる。

第四節 国家の「死滅」と暴力革命

エンゲルスの『反デューリング論』によれば、国家は「死滅」するのであって、無政府主義者のいうように自然に「廃絶」されるものではない[6]。確かにエンゲルスは「国家の廃絶」についても言及している。しかしここでいう国家とは、国家一般ではなくブルジョワ国家の「廃絶」を意味している。ブルジョワ国家は「死滅」するのではなく、プロレタリアートの革命によって「廃絶」される。この革命の後、(プロレタリア)国家は順次「死滅」するのである。冒頭で書いたマルクスの国家死滅の三段階のプロセスを思い出そう。

そもそも社会主義革命とは、ブルジョワがプロレタリアを抑圧するために使っていた権力を、逆にプロレタリアがブルジョワを抑圧するために使うようになることである。社会主義革命によってブルジョワ国家がプロレタリア国家に置き代わったという意味で国家は「廃絶」している。だがここではまだプロレタリアによる「国家」は存続している。ブルジョワ国家が「廃絶」しても、国家一般は「死滅」していないのである。国家一般が「死滅」するのはプロレタリア国家誕生のその後である。

国家が死滅するときには、今日最高の政治制度と思われている「民主主義」も国家に殉じて「死滅」することになる(この点に関しては三章、四章で詳しく説明する)。プロレタリア国家といえど、国家である限り、それは人民を抑圧する権力である。故に国家は死滅しなければならない。

ところで『反デューリング論』には暴力革命に関する評価も言及されている。エンゲルスによれば、「ブルジョワ国家の廃絶」と「暴力革命」と渾然一体の概念である。彼は暴力は悪であると同時に革命の道具と断言する。社会主義をなすためには暴力革命は不可避なのだ。

第一章まとめ

国家とは、ある階級がある階級を支配するための抑圧装置である。ゆえに人間の自由のためには国家そのものを廃止しなければならない。そのためにはまずブルジョワ国家を暴力革命によって「廃絶」し、プロレタリア独裁を作り、それから国家一般が「死滅」するという行程を経る。そのときには一緒に民主主義も死滅する。


第二章 国家と革命 1848ー1851年の経験[7]

第一節 革命前夜

マルクスの著作『哲学の貧困』と『共産党宣言』から私たちはプロレタリア独裁という重要概念を見いだすことができる。プロレタリア独裁とはプロレタリアがブルジョワの権力を奪取したのちの国家形態である。プロレタリアによる国家とはいえ、国家である以上はそれも階級闘争の道具であり、いずれ死滅に至る必要があることは前提なのだが、プロレタリア国家が抑圧するのはかつて搾取者であったブルジョワである。ブルジョワは私欲による搾取を行うために国家を必要とするが、プロレタリアが国家を必要とするのは搾取を撲滅するためである。

社会主義の実現にはブルジョワ国家を暴力革命によって打破し、プロレタリア独裁国家を打ち立てるという階級闘争は必須である。しかし日和見主義者やプチブル民主主義者は階級闘争ではなく階級和解を夢見る。彼らの計画は、多数派のプロレタリアが選挙によって勝利し、少数派である搾取者を従わせるというものだ。しかし、彼らは抑圧装置であるブルジョワ国家の存続を容認する。彼らは二つの階級が対立しながらも統一され、発展するというマルクス的な弁証法を、二つの階級が妥協しながら融合するるという非マルクス的折衷主義に置き換え、マルクスの思想を歪めているのである。

ブルジョワは農村を破壊し、都市にプロレタリアを増やしこれを搾取する。しかしそれはプロレタリアの増加と団結を促進させる側面もある。プロレタリアートは経済的な側面から見ても、常に革命側でブルジョワと戦うことのできる唯一の階級である。来るべき革命の際に、中央集権的な公権力や暴力組織を行使して、プチブル(小市民)、農民、半プロレタリアートを率いてその先頭に立つのはプロレタリアなのだ。故に、社会主義革命実現のためには労働者党を通じてプロレタリアの育成をすることが肝要である。しかし日和見主義者は労働者党をプロレタリアから遊離させ、高給取りのサラリーマンを代表する集団にしようとしている。彼らはブルジョワに対抗するためのプロレタリア独裁を放棄してしまっているのである。

第二節 革命の総括

1848年革命の勃発以前に著された『共産党宣言』でもブルジョワ国家を打破し、プロレタリア独裁国家を作ること、そしてまたその国家もやがて死滅することは指摘されていた。しかし『宣言』では「社会主義革命」と「プロレタリア国家」の具体像については答えが出ていなかった。そこでマルクスは1848−1852年の革命を、哲学と歴史学の観点から研究し、その具体像を模索したのだ。そうして出版されたのが、革命の総括的な意義を持つマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』である。そこではマルクスの具体的かつ発展した革命論を読み取ることができる。以下それを見ていこう。

ブルジョワ国家が他階級を抑圧する機構であることは何度も述べた。そんなブルジョワ国家には官僚常備軍という二つの必要不可欠な要素があることは重要である。官僚組織と常備軍はブルジョワの手によって国家と結びつけられる。ヨーロッパでは(フランス革命などの)ブルジョワ革命が起きるたびに官僚制と常備軍が強化されていったことがその証拠だろう。官僚と常備軍は国家と同じく階級対立から生まれ、人民の生活を妨害する。にも関わらず、カウツキー主義者や日和見主義者は「官僚と常備軍は私たちの生活に必要なものであり、それを排除するのは無政府主義だ」と言うのである。彼らは官僚と常備軍を容認し、帝国主義を美化する。それは明らかなマルクス社会主義の歪曲である。

第三節 1852年におけるマルクスの問題設定

マルクスの国家論の本質は階級闘争にある。だがそれだけでは不正確なのだ。そもそも「階級闘争」というものはマルクス以前のブルジョワによって生み出された概念であり、実は階級闘争とはブルジョワにとってその存在を容認できるものなのである。よってマルクスの学説を階級闘争に限定する者はマルクス主義者ではなく日和見主義者である。真のマルクス主義者であるならば、階級闘争をプロレタリア独裁の承認にまで拡大しなければならないのである。

プロレタリア独裁は、ブルジョワ政権中、何一つ政治参加ができなかったプロレタリアが政治に参画できるという意味で民主的な機構である。一方で、それまで政治を支配していたブルジョワを弾圧するという意味で非民主的かつ独裁的な機構である。再三繰り返している通りマルクス主義では、国家とはある一つの階級が他の階級を抑圧するための支配機構である。それはブルジョワ国家でもプロレタリア国家でも同じである。私たちは階級を廃止しなければいけない。そのためには国家を死滅させることが必要である。しかし、その過程において、それまでの支配者であってブルジョワを抑圧するためにプロレタリア独裁を経ることもまた必要なのである。

第二章まとめ

プロレタリアは暴力革命によってブルジョワ国家を破壊しなければならない。選挙による改革なんて無意味だ。抑圧者であったブルジョワを、今度はプロレタリアが抑圧するのである。とりわけ排除しなければならないのは官僚と常備軍である。


第三章 国家と革命 パリ・コミューン(1871年)の経験[ 8]マルクスの分析

第一節 いかなる点でコミューン闘士の企画は勇壮なのか

マルクスはパリ・コミューンに対して警告を発しながらもその勇姿を讃えた。マルクスによればパリ・コミューンは結果失敗したものの、共産主義社会の実現のための極めて重要な歴史的経験である。そのためにパリ・コミューンの研究は社会主義理論の発展において非常に深い意味を持つのだ。

マルクスはパリ・コミューンを総括した著作『フランスの内乱』の中で『共産党宣言』から革命理論を発展させて「既存の国家機構を労働者階級が自分の目的のために発動させることは不可能だ」という命題を引き出す。だがこの「国家機構を労働者が利用不可能だ」という命題を、日和見主義者がいうような「ゆえに政府を改良していく方針を執るべきである」という解釈をしていけない。正解は真逆である。労働者階級は既存の(ブルジョワ)国家を奪取するだけでなく、それを粉砕しなければならないのだ。

プロレタリアは革命に際して、官僚と軍事国家機構を粉砕する任務を帯びている。官僚と軍事という国家機構を粉砕することはあらゆる正真正銘の人民革命の前提条件なのだ。

ところでこの人民革命とは妙な言葉である。[「人民」とはプロレタリアだけでなく農民や小市民などの階級を含んだ包括的な概念である。マルクスのいう革命とはプロレタリアがブルジョワを打破するプロレタリア革命ではなかったのだろうか。しかしその指摘はマルクス主義の曲解である。1871年のヨーロッパ大陸においてはプロレタリアートが人民の中で多数派になった国はなかった。ゆえにプロレタリア階級だけで革命を起こすのではなく、プロレタリアが、農民や他の市民と団結し人民革命をなすほうが現実的だろう。官僚、軍事の国家機構を粉砕することはプロレタリアと農民が団結するための前提状態でもある。他ならぬパリ・コミューンはこの同盟に至る道を切り拓こうとしたのだ。マルクスはプロレタリアと農民達の相互の利益を守るために国家機構という寄生生物を駆除し、新たなるものをそこに置かなければならないという。その新たなるものとは一体なんなのか。それを以下に見ていこう。

第二節 粉砕された国家機構は何に置き換えられるべきか

マルクスは『フランスの内乱』の中で「プロレタリアはいかにして団結し、具体的にどんな形ととるのか?」という問いに答える。

マルクスの目指したプロレタリア社会主義共和制では、パリ・コミューンと同じく、全ての公職を選挙でえらび、なおかつ全ての公職を国民の手によって解任できるようにする。これでは一見するとただの民主主義国家のようにも思われる。しかしその国家はブルジョワ民主主義ではなく、プロレタリア民主主義なのだ。プロレタリア民主主義は、ある階級を抑圧する公権力という国家ではない。その意味でこれはもう国家とは言えないだろう。というと、それでは「国家とは階級的抑圧装置である」というマルクスの国家論と矛盾するように見えるがそうではない。プロレタリア民主主義国家がブルジョワを抑圧することは重要である(パリ・コミューンはこの点が甘く失敗したのだから)。しかしプロレタリア民主主義国家では抑圧する者が国家の大多数であり、少数派であるブルジョワを抑圧するためには警察のような公の権力は必要ないのである。公権力を不要とするという意味でも、プロレタリア独裁において国家は既に死滅し始めているのが理解できるだろう。

プロレタリア独裁では、議員や官僚をはじめてとした全ての公職者の賃金をプロレタリアと同じ水準に引き下げる。この政策はともすれば粗野な平等主義に見える。社会民主主義者のベルンシュタインはこれを原始的民主主義といった。だが資本主義から社会主義へと移行するためには一度この原始的民主主義に退化する必要があるのである。というのは、 社会主義国家では国民が全員参加で官僚機構を担っていくことになる。プロレタリア独裁では官僚は特権的地位ではないのだ。そうなれば賃金も国民のものと等しいことは不可思議なことではあるまい。後期資本主義においては大規模な工業化、分業化の結果、官僚の仕事も誰でもできるくらいに簡略化された。誰でもできる仕事であるならば高給を与える必要もないし、また資本主義時代の名残を取り除くためにもそれは必要な政策なのである。「全公職を選挙で選び、全公職を解任の対象にする」「官僚の給料を労働者並みにする」それが終わった後は「生産手段を私有から公有への移転」が行われる。

第三節 議会制の廃止

マルクスは議会制を批判する。支配階級の内から誰が議会において人民を抑圧するかを数年に一度決める。これこそがブルジョワ議会制の偽らざる本質である。議会制を脱却するというのは、代議制や公選挙を廃止することではなく、議会を駄弁の場所ではなく実働的、つまり行政的な機構にすることである。

ブルジョワ国家における議会は庶民を騙す場所であった。彼らは目立つことはするが、実際に政治を行っているのは官房と参謀であったのだ。これに対してパリ・コミューンは代議士が選挙民に責任を負うために、自らの目と手と足で政策を行う代議機関をたてた。そこには特権的な代議士は存在しない。この意味で、社会主義国家には議会は廃止されているのである。また官僚機構についてもプロレタリア独裁は資本主義的官僚は粉砕するものの、官僚そのものは根絶せず、むしろ資本主義的官僚を母体に新しい官僚機構を生み出すことになる。上述したように資本主義によって社会が発展した結果、官僚業は誰でも遂行可能なまでに簡略化された。そのため国家という上からの支配を受けることもない。プロレタリア組織は、社会全体を代表して「労働者」「労働者の監督者」「会計係」を雇用し、社会主義的な官僚制を打ち立てる。無政府主義者はこれらの官僚制そのものを拒否するが、マルクス主義は空想主義ではない。現在の生活を維持するためにも官僚制自体は必要であるのだ。しかしそれを指揮するのはプロレタリアートでなければならない。

資本主義時代の生産手段を受け継ぎ、大規模生産を行うのは資本家ではなく労働者自身である。武装労働者組織に支えられた慣習的な労働規則に則って、私たちは簡略化された官僚業を営み、細やかな俸給を得る。仕事は更に簡略化され監督業と労働は、労働者の間でローテーションされるだけのものになる。そこにおいて特権階級としての官僚制は既に死滅している。この仕組みを国民経済全体に行き渡らせたとき、代議機関を残したまま、議会制を廃止する経済基盤ができる。それこそが社会主義における新秩序なのだ。

第四節 国民の統一を図ること

社会民主主義者のベルンシュタインは、マルクスの国家の廃絶とプルードン[9]の連邦制を混合するという過ちを犯している。確かに両者は「国家を廃絶する」という点では一致している。しかし、マルクスの国家論とは労働者による中央集権主義であり、それに対抗するための地方分権的な連邦制とはまったく違うものである。マルクスは「国民の統一を図る」といい、自分の構想するプロレタリア中央集権がブルジョワのそれとは別物であることを強調する。

第五節 国家という寄生生物の廃絶

マルクスはパリ・コミューンを分析し、増殖する寄生生物であるブルジョワ国家権力の廃絶を主張する。1851年にはブルジョワ国家機構の破壊に近づいていることを予感しつつも、マルクスはその後の国家形態について具体的な姿を提示することができなかった。1872年のコミューンはプロレタリア革命によってようやく発見された政治形態なのである。後の章では1907年、1917年のロシア革命がコミューンをどのように引きついだかを考察していく[10]

第三章まとめ

中央集権化されたプロレタリア独裁では、全ての公職を選挙でえらび、なおかつ全ての公職を国民の手によって解任できるようにする。また公職者の賃金は労働者と同程度にする。官僚の仕事は国民全員でローテーションでまわし、立法議会は単なる行政機関にする。くわえて生産手段を国有化することによって搾取をなくす。


第四章 つづき エンゲルスの補足的注釈

第一節 『住宅問題』

この章ではマルクスの国家革命論に関するエンゲルスの補足を見ていく。第一節でエンゲルスは著作『住宅問題』を通じて、ブルジョワ国家とプロレタリア国家の共通する特徴とその差異。また国家の破壊に至る道のりを説明する。

住宅問題というのは、住む家が見つからずホームレスが増えてしまうという問題である。実をいうと社会には住宅の数自体は十分にあるのだが、それを市場に任せておいては解決は難しいだろう。そこでプロレタリア国家では公共の福祉のために住宅を現所有者から徴収し、ホームレスに無償で住まわせることである。これはブルジョワ国家が国民から財を徴収するのと等しい行為である。しかし従来の行政はブルジョワと結びついたものであり、このような住宅問題解決方法はできるものではない。とはいえ少なくともプロレタリア独裁の過渡期においては無償での住宅提供は現実的ではない。最初は住民を基準に基づいて選抜し、なおかつ家賃をとる必要がある。これらの作業を行うためには一定の国家が必要である。逆にいえば、住宅を無償で提供できる状況になれば、それは国家の死滅を意味するはずだ。

ところで「国家の死滅」はその文字だけを一見すると無政府主義のように思われるだろう。ブルジョワ学者は「マルクス主義は国家の死滅を標榜しながら無政府主義を批判する。それは矛盾である」などと宣う。この点について次節で詳しく見ていこう。

第二節 無政府主義との論争

マルクスは無政府主義者のいう「国家の廃止」を嘲笑する。しつこいくらいに繰り返すがマルクスの主張は「階級の死滅と共に国家が死滅する」ということだ。確かにこれは矛盾のように見れるがそうではない。マルクスが反対しているのは、労働者が武器をとることを諦め、ブルジョワ国家を粉砕するための国家を作ることを断念してしまうこと。つまり「無政府主義者がプロレタリア国家を認めないこと」をマルクスは批難しているのである。マルクス主義と無政府主義は「国家を廃止する」という目標自体は一致している。しかしその過程が違うのだ。プルードン主義者は反権威を旗に掲げ、権力や武器といったものをおしなべて否定した。しかし、例えば海に浮かぶ船を見てみても指揮がなければ全体は迷走するだけだ。プルードンが反対する中央集権的権威や、彼が賛同する分権的自治といったものは相対的な概念であり、言葉だけ取り上げてそれを絶対視するのは間違いなのだ。プロレタリア国家においても権威は存続を容認される。しかしその権威はブルジョワ国家における政治的権威ではなく、単に社会の利益を監督するだけの行政的な権威である。そしてそれは社会に必要不可欠なものでもある。しかし無政府主義者は反権威主義の名の下に両者を混合して権威そのものを廃止せよと言う。そもそも革命とは銃や大砲をもって自らの権威を知らしめ、反動勢力を威圧する極めて権威的な事象である。パリ・コミューンが武装人民の権威を持たなければ、成立のその翌日にでも崩壊していたことだろう。だが自称マルクス主義者の社会民主主義者は「私たちは国家を容認するが、無政府主義者は政府を否定する」と、とんちんかんな批判をするのみである。マルクス主義は国家を容認しないのだから。

第三節 ベーベル宛書簡

エンゲルスの重要な国家論に『ベーベル宛書簡』の一節がある。エンゲルスはその中で、ブルジョワを抑圧するためのプロレタリア国家の必要性を主張し、またその国家は本来の意味において国家とは言えないことから、共同体(コミューン)と言い換えることを提案している。なぜエンゲルスはコミューンが本来の意味で国家ではないと言ったのか。それは国の多数派が少数派を抑圧する逆転現象。今まで抑圧してきた権力に代わり、住民そのものが表舞台に登場したからである。これは従来の国家からは明らかに逸脱している。

コミューンにおいて国家は自然と死滅するし、また国家の各組織は手を下さずとも果たすべき任務を失い活動を停止する。だが社会民主主義者は「人民国家」等という言葉を用いて、人民が支配する国家を提唱する。それは国家の容認に他ならないことは言うまでもない。

第四節 エルフント綱領批判

エンゲルスの著作『エルフント綱領批判』もまたマルクス主義国家論研究の重要文献だ。エンゲルスは『綱領』内で、資本主義には「経済的な計画性」が欠如していると指摘する。資本主義は市場によるレッセフェール(自由放任)の立場を取り、社会を一貫する計画経済は存在しない。ブルジョワ改良主義者の中には「後期資本主義において巨大資本が国家と結びつき社会を支配するという、擬似的な社会主義国家。いわば国家社会主義国ができあがる」と主張する者もいる。確かに国家が経済を支配する国家社会主義国というものは存在するかもしれない。しかしそこに計画経済があったことはないし、今もない。また仮に計画経済を持つ国家社会主義国があったとしても、その国はブルジョワ国家であり、労働者が搾取されることには変わりはない(ただ擬似的な社会主義国という意味では革命はやりやすいかもしれない)。

エンゲルスはさらに『綱領』において第二インターナショナルの日和見主義を徹底的に批判しながら、国家論において①共和制[4]の問題②国家と民族の問題③地方自治の問題に関して重要な指摘を行っている。これを順に見ていこう。

エンゲルスは第一にドイツの例を出して共和制に関する分析を行う。ドイツでは「革命に反動的な憲法の存在」「共和制と自由の欠如(君主制の存在)」「社会主義者鎮圧法の存在」という要素から、非暴力革命の選択肢は一切ないと断じる(逆にいえば共和制を敷き、政治的に自由度の高い国では非暴力的発展を「想像」することができるとエンゲルスは言う。しかしそれでもただ、「想像」するだけだ)。だがドイツ社会民主党はエンゲルスの忠告を無視して、社会主義への非暴力的発展を目指しているのである。彼らは真摯であるが間違っている。ところでプロレタリア独裁に至るのに最も適した政治形態は民主共和制である。それはなぜかというと、民主共和制は資本家にとっても大衆を抑圧するのに都合が良い政治形態であり、その結果階級闘争が激化し革命の土壌が整うからである。

第二に、国家と民族の問題。そしてそれに絡めて第三の、地方自治に関する問題も見ていく。エンゲルスによればプロレタリアにとって有用なのは統一された共和制のみである。その観点からすると、それぞれの民族コミュニティが自治をしながら一つの国家を形作る連邦共和制は不都合なものにも見える。プロレタリア独裁が理想とする統一共和制は中央集権的であり、民族的な連邦共和制は地方分権的であるからだ。マルクスは民族問題によって国家が革命から反動化することを許さないものの、かといって民族問題を無視することはなかった。マルクス主義では連邦共和制は、統一共和制に至るまでの過渡期と位置づける。

そもそも統一共和制による民主主義的中央集権は、本格的な地方自治を否定するものではなかった。本格的な自治というのは、コミューンや地方の州が自発的に国家の統一を望み、官僚や政府からの「命令」が撤廃された自治のことである。その自治区では中央の、(公権力によってではなく)普通選挙によって選出された官吏と通じて地方自治を行うことはできる。エンゲルスは「地方自治的連邦共和制は、中央集権的統一共和制よりも自由度が高い」という偏見に論駁する。その実例としてエンゲルスは、1792年から1798年にかけての中央集権的フランス共和制と連邦制スイスの比較を挙げる。真に自由度が高いのは実は民主主義的中央集権の方なのだ。

第五節 マルクス著『フランスの内乱』に寄せられた1891年の序文

エンゲルスはパリ・コミューンという歴史的経験を20年研究し、国家崇拝を打破するためのマルクス主義国家論の最終結論を『フランスの内乱』(マルクス著)の1891年の序文にしたためた。

それによれば、国家論の最重要観点は「抑圧された階級は武器を持っているか?」ということなのである。例えばフランスではいずれの革命の後でも労働者は武装した状態にあった。そのためブルジョワは彼らを武装解除しようと階級闘争を起こし、大抵は労働者はそれに屈してきた。ブルジョワにとってやはり暴力は最も脅威なのだしかしブルジョワ主義者はこれをいとも簡単に無視する。

またエンゲルスは、宗教と国家の関係に対するドイツ民主主義者の曲解も批判する。彼らは「宗教は個人の問題とする」という有名な公式を、正しくは「(国家との関係において)宗教は個人の問題とする」とすべきところを「(プロレタリア党との関係において)宗教は個人の問題とする」という解釈をしてしまった。その結果、革命プロレタリア党は堕落し、卑俗な自由思想に染まった。彼らはは小市民的に無信仰を許容しながらも、人民を痴呆にするアヘンのような宗教の撲滅を目指すという党の課題には無関心になる。

エンゲルスは専制君主国だろうが民主共和制だろうが、国家は国家であり、公権力が支配者になることは免れ得ないと何度も強調する。コミューンにおいては、これを防ぐために行政、司法、教育に関する全てのポストに普通選挙を用い、また選挙民の決定でいつでも解任できるようにした。そして公職者の賃金は地位に関係なく労働者並みに抑える。国家一般を廃絶するために国家行政の仕事を単純化し、誰でも就任できる監督と会計という作業に変える。そこでは民主主義に求められて社会主義が登場するのだ。

誤ったマルクス主義者は「資本主義では民族自決は不可能であり、社会主義では民族自決は余計なものである」と主張する。だがこれは誤っている。彼らは「徹底した民主主義は資本主義では不可能であり、社会主義では民主主義は死滅する」と考えてしまっているのだ。「民主主義を徹底的に発展させ」「民主主義の発展形態を見つけ」「その発展形態を実際に試すこと」いずれも一つだけでは社会主義をもたらさない。だが複合的にとりあげられたとき、民主主義は経済改革を促し、一方で民主主義は経済発展の影響を受けることになる(これは歴史の弁証法の良い例だろう)。

ブルジョワ・イデオロギーに染まった子ども達は「国家」を神のように崇拝する。人々は官吏や国家に頼らなければ社会は維持できないという迷信を心から信じ込んでいる。しかし、実際に国家とはある階級に対する抑圧装置であり階級闘争の道具である。これは君主制だろうと民主共和制だろうとプロレタリア独裁だろうと同じことだ。ゆえに国家はやはり廃絶しなければいけないのである。

第六節 民主制の克服に関するエンゲルスの見解

ではなぜプロレタリア国家は国家一般を廃絶できるのだろうか。この問題は民主主義の克服という問題に関連している。いままで散々批判してきた自称マルクス主義者が掲げる「社会民主主義」という思想であるが、そもそもこれは名称からして正しくない。マルクス主義は民主主義の克服を目指しているからである。国家の廃絶は民主制の廃絶でもあり、国家の死滅は民主制の死滅でもあるからだ。この意見は一見奇異に見える。「少数派が多数派に従うという原則が民主主義なのではないか」という声が聞こえてきそうだが、そうではない。民主制は少数派が多数派に服従するシステムではない。民主制とはその真逆、実は少数派が多数派に服従を強制するシステムなのである。ある階級が他の階級に対して、あるいは一部の住民が他の住民に暴力をくわえるシステムこそが民主制なのだ。

私たちの最終目標は国家一般の廃絶である。すなわち人間一般に向けられる組織的な暴力の全廃である。国家が死滅した共産主義社会では、あらゆる利害対立もなく、よって服従関係が存在しない。ゆえに共産主義は暴力を必要としないのである。民主主義が暴力システムである以上、それも不要になることは当然だ。

第四章まとめ

プロレタリア国家はブルジョワ国家と違い行政的な権威であり、その意味では国家というよりコミューン(共同体)と言った方が正しいだろう。中央集権化したコミューンでは計画経済制をとり、また民主主義の克服を目指す。


第五章 国家死滅の経済上の原理

第一節 マルクスによる問題設定

マルクスとエンゲルスの書簡を比較すると、両者の国家論には大きな差があるように見えるかもしれない。しかしそれは両者の取り上げるテーマの違いがあるだけで、実は二人の見解は一致している。

マルクスの課題は、共産主義社会の発展にあった。『ゴータ綱領批判』においてマルクスは、あらゆる人民国家論を一笑のもとに捨て去る。というのは、現実には国とは十人十色であり、それを一緒くたにする「現代の国家」などというものは存在しないからだ。だが、「しかし」とマルクスはそれに続ける。様々な文明、多様性を持った国家でも資本主義的に現代ブルジョワ社会に立脚しているという点で共通している。したがって「現代国家機構」一般について、ブルジョワ社会が崩壊した後の社会と比較して論ずることは可能である。日和見主義者が忘れている資本主義から共産主義の過渡期に存在する移行段階とはどんなものだろうか。

第二節 資本主義から共産主義への移行

マルクスは、資本主義と共産主義の間にはプロレタリア独裁が存在すると断言する。プロレタリア独裁では民主主義は拡大の一途をたどる。資本主義社会では民主主義は有産者階級が奴隷から搾取するためのシステムであることは既に述べた。雇用奴隷は貧困によって政治参加するどころではなく、せいぜい数年に一度自分たちの支配者を決める程度である。これを打ち破るにはプロレタリア独裁以外の方法では不可能なのだ。プロレタリア独裁はそれまで抑圧者であったブルジョワを逆に抑圧するための前衛を組織する。プロレタリア独裁が成立すると、民主制は拡大するだけでなく、その質的変化も起こる。そこで民主主義は初めて金持ちのためではなく貧民や人民のためのものになるのだ。これこそが過渡期の民主制の形態なのである。

共産主義社会では生産手段が公有化されて社会の構成員の間に格差がなくなる。人々は暴力と抑圧から解放され、自由と真の民主主義を得る。そして完全な民主主義が達成されたとき、やがて民主主義も国家とともに死滅する。というのは、人々が資本主義的奴隷や搾取の悪徳から解き放たれて、人間本来の慣習法に基づく社会のルールに慣れているからである。それは公権力による強制によってではない。国家が「死滅」するというのは人為的ではなく、自然な現象なのである。

資本主義から共産主義への過渡期では、ブルジョワを抑圧するためにいまだ国家は存在する。しかし、その抑圧は多数派(かつての雇用奴隷)が少数派(かつての雇用者)を抑圧するという点で遥かに容易なものである。暴力革命は血の海を渡るものであるが、ブルジョワがプロレタリアを弾圧するよりは血の量は少なくて済むであろう。多をもって寡を制するので、複雑な抑圧機構は不要であり、労働者・兵士代表評議会(ソヴィエト)のような簡単な武装大衆の組織だけで十分だ。そしてやがて抑圧対象も存在しなくなる。もちろんここでいう抑圧対象というのは階級的な意味である。新秩序においても個々人の犯罪はなくならないであろうし、それを個々に抑圧することは必要だ。しかしそのための特別な抑圧機構は必要ではない。武装した人民がそれは簡単にやってのけることだろう。

「国家が死滅に至るまでの期間はどれほどだろうか?」という質問もあるだろうが、それに答えるための根拠は乏しく誰も予想がつかない

第三節 共産主義社会の第一段階

マルクスは革命直度の第一段階の共産主義社会では、人々の生活は具体的にどうなるのかを考察する。そこは、プロレタリア独裁国家とはいえ、資本主義の名残が強く受け継がれている社会である。

一番人々の関心が強いのはやはり、自分の賃金についてだろう。社会の生産手段が公有化され搾取がなくなった第一段階の共産主義では労働者の賃金はどうなるのだろうか。例えばラッサール[11]なぞは、労働者は労働の利益をそのまま受け取れると考えていたが、これは明らかに楽観的すぎる。実際には設備投資費や減価償却費、さらに公共施設の運営費用を差し引かれることは間違いないだろう。

具体的には労働者の賃金は以下のように決められる。労働者は社会に必要な仕事を決められた量だけこなし、その仕事量の証明書を受け取る。そしてその証明書に基づいて、消費財を保管している公共の倉庫から、しかるべき量の生産物を受け取るのである。従って各労働者は上記の控除を除き、社会にもたらしたのと同じ分だけ社会から給付される。これは一見すると「平等」に思える。しかしマルクスはこの平等はブルジョワ的であるという。ブルジョワの権利というのは人々の性質や特性に関わらず均質に与えられる。個性を無視して一律に与えられた平等の権利は、結果を見れば不平等であろう。社会には力の強弱や配偶者の有無など多種多様な人々がいる。とすれば労働の成果で報酬が決まるとすれば貧富の差ができてしまう。それを避けるために、与えられる権利は不平等なものでなければいけない。マルクスが最終目標とする共産主義社会は「能力に応じて働き、必要に応じて報酬を受け取る」であった。これこそが真の平等と公平であるとすれば、共産主義の第一段階では公平と平等はまだもたらされていないことになる。第一段階ではまだ「能力に応じて働き、労働(量)に応じて報酬を受け取って」いるからだ。

このように初期の共産主義では生産手段の公有化以外の至る所にブルジョワ的権利は残り、社会構成員の労働と分配の割合を決定し続ける。「働かざる者くうべからず」は既に実現された。「等量の労働に対して等量の報酬を」という原則も実現された。しかし共産主義はそれぞれの力量に応じた労働量に対して、等しい給付をしなければならない。革命が起きたからといって人々がいきなり共産主義的に働くことは空想である。そのため、過渡期に「労働(量)に応じて受け取る」ような「欠陥」も耐えなければいけない。

第四節 共産主義社会の高度の段階

レーニンは前節の第一段階を社会主義といい、それが高度化したものを共産主義と定義した。共産主義が高度化すると徐々に資本主義的価値観も払拭されていく。肉体労働と頭脳労働の対立もなくなるし、労働は生活するための手段ではなくなり、それ自体が楽しみに溢れた生活上の欲求となる。人々はみな仕事をするのが大好きになり、それにつれて、社会の生産力も向上し、社会の富は溢れんばかりになる。そこでようやくブルジョワ的価値観を克服し、社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ようになる。人々が「他人は自分より楽していまいか」「自分より多く受け取ってはいまいか」というブルジョワ的視野狭窄を克服するのだ。

共産主義の高度な段階がやってくるまで、社会主義は労働と消費の基準を社会と国家の側から極めて厳格に管理する。武装した労働者は資本家から支配権と生産手段を接収し、全市民を一つの巨大シンジケート[12]に変える。プロレタリア独裁はブルジョワ的な形だけの民主主義を放棄して、拡張された民主主義を敷く。武装された労働者は革命後には義勇軍に移行し、常備軍に取って代わることになる。共産主義の第一段階では全労働者が武装労働者に雇用されて働くことになる。生産と分配の仕事は読み書きの教育を受けた労働者によって行われ、余人をもって代え難い専門家はそのままその仕事を続けてもらう。その意味でプロレタリア独裁国家は抑圧装置という意味での国家ではなく、単なる行政機構であろう。そのシステムがあまねく国家に広がれば、社会全体が労働も賃金も平等な一つの会社、工場になる。全員が自分で生産をし、全員がそれを監視することにより、ブルジョワ的価値観は崩壊する。そうして住民がその生活に慣れたとき、共産主義は高度化し、国家は死滅し始めるのである。

第五章まとめ

ブルジョワ国家が廃絶されプロレタリア独裁になった第一段階を社会主義といい、それが高度化したものを共産主義という。社会主義では国民は「能力に応じて働き、労働(量)に応じて受け取る」。しかし搾取がなくなり資本主義的価値観が払拭されると、徐々にみんな働くのが楽しくなってくるので「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことになる。しかしそこに至るまでにかかる期間は分からない。


第六章 日和見主義によるマルクス主義の卑俗化

第一節 プレハーノフと無政府主義者の論争

以上の国家と労働者の関係性に対する議論を日和見主義者は無視または軽視してマルクス主義を卑俗化した。例えばプレハーノフは無政府主義者との論争で、国家と革命に関する議論を迂回してしまっている。「ブルジョワ国家は粉砕する必要がある」と「ブルジョワ国家の後にはプロレタリア独裁国家が誕生する」の二点を抑えなければ、彼の無政府主義との論争には意味がない。

第二節 カウツキーと日和見主義者の論争

カウツキーはロシアにマルクス主義を紹介し、ベルンシュタインの日和見主義と論争したことで有名な社会主義者である。しかしあろうことか彼の思想もまた日和見主義に傾倒しているのだ。ベルンシュタインの「マルクスによれば、労働者は国家を利用できない」という主張にカウツキー厳しい批判を加えた。だがその批判内容はおそまつである。彼の主張は「確かに労働者は既成国家は掌握できないかもしれないが、国家一般の掌握は可能である」というマルクス主義からかけ離れたものになっていた。ここでは「国家の死滅」というマルクス主義の本質が失われてしまっているのだ。またカウツキーはブルジョワ的な官僚と議会、民主制までも容認する。これでは彼も日和見主義者と変わらない。また彼の指導するドイツ社会民主党も同様に堕したと見なせるだろう。


第三節 カウツキーとパネクークの論争

急進左派マルクス主義者パネクークは、カウツキーをマルクス主義と日和見主義の間を行ったり来たりしていると批判した。パネクークは国家権力の破壊を望んでいた。この意味で彼はマルクス主義者である。しかしカウツキーはパネクークを無政府主義であると批難する。

マルクス主義と無政府主義はまったく違うものである。第一に、マルクス主義者は現実的な国家の死滅のために、社会主義→共産主義という二段階を経るが、無政府主義は一夜にして国家を死滅させることを目論み、その割にその条件については要領を得ない。第二に、マルクス主義は革命直後の社会を武装市民によるプロレタリア独裁という具体像で示しているが、無政府主義は抽象的なものしか提示できない。第三に、マルクス主義は資本主義社会が革命の準備をすると言うが、無政府主義者はそれを否定する。

カウツキーは「ブルジョワ国家を破壊する」という点で確かに、「ブルジョワ国家を修正する」というベルンシュタインのような修正主義、日和見主義とは違う。しかし、その後「国家一般を必要とする」という点でやはりマルクス主義とはかけ離れているのである。

第六章まとめ

修正主義者ベルンシュタインと社会民主主義者カウツキーはマルクス主義を歪めている。


全体まとめ

国家とは階級闘争の道具であり抑圧装置である。故に国家は死滅しなければならない。

そのためにはまずブルジョワ国家をプロレタリアの暴力革命によって廃絶し、プロレタリア独裁国家を起こす必要がある。とりわけ官僚と常備軍は根絶しなければならない。

プロレタリア独裁国家は以下の特徴を持つ。

・公職者は全て選挙で選び、いつでも解任できる

・議会や民主主義は克服され単なる行政機構とする

・官僚は国民全員でローテーションで行う

・生産手段を国有化し、計画経済をとる。

・武装労働者が全労働者を雇用し、国を一つの会社のようにする

多数派が少数派を抑圧するという意味でプロレタリア独裁国家は「国家」というより「コミューン(共同体)」と言った方が正しいだろう。

この第一段階では人々は「能力に応じて働き、労働(量)に応じて受け取る」が、やがて資本主義的価値観が社会から消えたとき、みんな働くのが楽しいので「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる」ことになる。その時期には社会主義は高度化し、共産主義社会が到来する。そうなれば抑圧装置である国家は階級社会と共に、そのものが自然と「死滅」する。

以上のマルクス主義の本質的国家観を日和見主義者は歪めて人々に広めているのだ。

評価

以上、レーニンの『国家と革命』をみてきた。しかしここまで読んである程度の歴史の知識のある人ならば、レーニンのこの国家構想が後に完全に破綻したことをご存知だろう。1917年の10月革命でロマノフ朝を倒し、1922年に念願のプロレタリア独裁国家、ソヴィエト連邦を打ち立てたレーニンであったが、その国家体制は『国家と革命』で表されたような理想社会とはかけ離れていた。それまで文字すらみたことのない農民が官僚業をこなせるわけもなく、官僚は廃絶どころかその数も賃金も膨張の一途を辿る。それどころかレーニンの指揮する労働者党ボリシェヴィキも官僚化、権威化し、赤い貴族(ノーメンクラトゥーラ)と呼ばれる特権階級になってしまった。そもそも本当に公職者を選挙で選ぶことになったら、ボリシェヴィキが指導者の地位に留まれる保証はないのである。

また、レーニンの予想では、社会主義化では労働者同士の利害対立は存在しないということになっているので、議会も民主主義もいらないというわけであるが、人間そんな簡単に和解できるはずもなく、結果、ソヴィエトは民主主義の拡張どころか、上からの命令をただ下が服従するだけのただの一党独裁国家になってしまう。

計画経済は破綻し、人々は長い行列を作って配給を待つも、食べるものにすら事欠き餓死者が続出する始末。資本家による搾取はなくなっても労働は退屈なままで、それでいて頑張っても賃金が一緒であれば皆やる気はでない。自然と国家の生産力は落ちていく。その欠如をソ連は戦争によって埋めようとして、西へ東へと戦線を拡大させていく。

今日、マルクス思想に対するネガティブなイメージは本書において凝縮されていると言って良い。「前衛党」、「給料の平等(結果の平等、悪平等)」、「宗教の否定」、「暴力革命」、「プロレタリア独裁」、「議会・民主主義の否定」、「国家の否定」などなど。確かにいずれもマルクス思想の一端ではあるものの、レーニンはそれを極端化し、全世界に広めてしまった。マルクス思想を学ぶのであれば、マルクスの著作に触れなければ誤解を招くのは当然だろう。

以上のような大失敗の原因はなんだったのだろうか。それはレーニンのマルクス主義に対する認識不足(レーニンは、エンゲルスですらいやいやながらも認めた国家の共益的な側面を一切認めていなかった)、ロシアという国家の特異性など様々な説がある。いずれにせよ、ソ連が崩壊した21世紀の今、『国家と革命』は現代的な意味を失い、歴史の残滓となったとみて良いだろう。

とはいえ、レーニンが問題にした資本による抑圧関係自体は、解決するどころかソ連の崩壊をきっかけにむしろ強まっている。確かにソヴィエトは地上の楽園ではなかったが、ソヴィエトが存在するというだけで、西側諸国は革命を起こされないように労働者に配慮しなければならないという事情があった(無論、その西側諸国には我が国も含められる)。労働者の負担が高まり、格差が広がり続けるこの現代社会で、レーニンの悩み抜いた問題意識はいまだ私たちを悩ませ続けている。


[1]日和見主義者。社会主義者を名乗りながらもブルジョワに利する者たち。多くの主義を含み、修正主義、社会民主主義、無政府主義などと重複した意味で使われることも多い。

[2]修正主義者。革命を否定し、資本主義社会を改善(修正)して社会の変革を目指す者たち。例えば、選挙を通じて労働者党による政権奪取を狙う。ブルジョワ国家を肯定し、根底的な革命を否定する点でマルクス主義とは相容れない。代表的な人物にベルンシュタイン。

[3]社会民主主義者。革命を肯定するものの、その後、社会主義的民主主義国家の樹立を狙う者。「国家を容認する」という点で「国家の死滅」を標榜するマルクス主義とは相容れない。代表人物にカウツキー。

[4]民主共和制。共和制とは国家元首を国民から選ぶ政治システムのこと。対義語は君主制。共和制+民主主義が民主共和制である。日本の場合は民主主義であるが、天皇陛下がいるので立憲君主制民主主義である(首相は国家元首ではない)。

[5]プチブルジョワ民主主義。プチブルジョワとは中産階級。中流層のこと。土地や債券などを持っているが、同時に被雇用者としても働いている人達。プチブルジョワ民主主義とは、そんな中産階級に座した民主主義のこと。

[6]「国家の廃絶」と「国家の死滅」は似ているようで異なる概念なのでちゃんと区別しよう。「国家の廃絶」とは、ある一つの国家の消滅。いってしまえばブルジョワ国家の消滅のことである。一方で、「国家の死滅」とはあらゆる意味での国家一般の消滅のことであり、それはブルジョワ国家もプロレタリア国家も存在しない社会の到来を意味する。

[7] 1848ー1851年の経験。フランス二月革命を発端にヨーロッパの広範囲で発生した革命のこと。諸国民の春とも言う。ドイツでも三月革命が発生しメッテルニヒが失脚。これによってナポレオン以来のウィーン体勢は崩壊した。社会主義的な色を帯びており、マルクスはその推移を興奮まじりに見守っていたが1851年に急速に反動化し、革命は失敗に終わった。

[8]パリ・コミューン。1871年の普仏戦争後にパリで成立した世界で初めての労働者による自治政府。後に臨時政府に制圧されたがマルクスはこのパリ・コミューンを高く評価し、その研究に務めた。詳しくは『フランスの内乱』の項目で。

[9]プルードン。フランスの社会主義。あらゆる国家と権威を批判する無政府主義を提唱する。国家を否定する点ではマルクス主義と同じであるが、プロレタリア国家を認めない点でマルクス主義とは相容れない。

[10]ロシア革命とコミューンの関連についての章は未完に終わっている。

[11]ラッサール。プロイセンの社会主義者。既存の国家を修正し、国家主導による社会改革を唱える、国家社会主義を提唱した(ナチスの国家社会主義とは別物)。ブルジョワ国家を容認する点でマルクス主義とは相容れない。

[12]シンジケート。共同販売を行う企業連合。また、その中央機関のこと。レーニンはソヴィエトを一つのシンジケートにしようとした。


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