かぼちゃ丸のブロマガ

マルクスの疎外論について

2014/10/05 00:50 投稿

コメント:6

  • タグ:
  • 哲学
  • 共産主義
  • 社会主義
  • マルクス
  • 疎外
  • オール

疎外という言葉があります。これは日常的にも結構使う言葉で、仲間はずれをされた時などに「疎外感を感じる」なんて言ったりもしますね。今回は哲学用語としての疎外。特にマルクス哲学における疎外というものを解説します。

疎外は初期マルクスの重要な概念で、一般的な哲学における疎外は、簡単に言えば「本来、自分のものであるはずのものが、自分から離れてよそよそしくなる」という現象を指します。この哲学用語はマルクス独自のもとではなく、元々は独哲学者ヘーゲルの哲学でよく用いられている哲学用語です。

ヘーゲル哲学において、「本質から離れたものが一度外に出て、再び戻ってくる」という現象を外化、あるいは対象化といいます。しかし戻ってくるはずのものが外に出たまま戻らない。ヘーゲルは、これを特に疎外と呼びました。

ヘーゲルの疎外論は、その後、弟子のフォイエルバッハによって唯物論的にアレンジされ、さらにそのフォイエルバッハの著作を読んだマルクスによって継承・発展させられ、彼独自の労働疎外論が誕生しました。
マルクスの疎外論を学ぶ上で最も重要な著作は、『経済学・哲学草稿』です。その中でも第一草稿の4節『疎外された労働』において、疎外論のエッセンスが最も現れています。この節でマルクスは「資本主義における賃金労働では疎外が発生している」と主張しています。経済学・哲学草稿の中でマルクスは4つの疎外を指摘しています。
1つ目は、労働生産物からの疎外。賃金労働性では労働者が自分で作った商品は、全て資本家のものになってしまいます。こうして労働者は頑張って労働してもその成果は全て資本家の価値を高めるだけで、労働者は頑張れば頑張るほどに自らの価値が相対的に下がっていってしまうのです。本来自分で作った労働の成果は自分のものであるはずなのに、それが自分から離れて、逆に自分を縛り、貶める。つまりここに疎外が発生しているのです。
2つ目は労働に対するやりがいからの疎外。労働中の労働者はたいていの場合、苦痛や退屈さを覚え、自由が抑圧された状態にあります。アダム・スミスをはじめとした古典派経済学者は「労働は退屈で人間にとってさけるべきもの」という考えに疑いをもつことはありませんでした。しかしマルクスはこれとは逆に。「労働(lavor)というのは本来、人間にとって創造的な活動(work)である」と考え、これが賃金労働制によってゆがめられていると言ったのでした。人間は労働をしている間、自己を感じることができず、労役から解き放たれてはじめて独立した自分となることが出来るようになる。これは労働からの疎外が起きているからこそなのです。
そして上記の二つの疎外が行き着く先が、3つ目の類的疎外になります。これはちょっと言葉だけではピンとこないかもしれません。この「類」という単語も元々はヘーゲルやフォイエルバッハが用いていた言葉です。類的疎外とは、人間は類的存在であるというのがまず前提にあります。マルクスにおける、類的存在とは、人間が動物とは違い労働を通じて自己を表現することが出来る生き物であるということです。にも関わらず、現在の我々の労働はただただ苦しいだけ。これは私たちが類として疎外されているからなのです。(2020/5/23日追記:類的
疎外についてもうちょい詳しい解説を最後につけました)
4つめは人間(他人)からの疎外。資本主義では労働者は労働者として振る舞うことを強制されます。疎外が起きていなかったのなら、人間は自分の労働によって生まれた生産物を他人に与えることにより幸福を感じ、またそこに自己実現を覚えます。しかし社会的分業が極地に達している資本主義社会では、市場に並ぶのは一人の人間が作った労働生産物としての意味はなくなり、単なる貨幣で価値を量るだけの商品になります。こうなると人間の興味はどれだけ短い労働で、どれだけ安く商品を買えるかだけになり、それぞれの人間が利益を対立させるのです。こうして対立した人間達は、お互いに疎外された存在となります。

以上をまとめると「資本主義社会では労働の疎外を発生させる」というのがマルクスの主張です。

マルクスは経済学・哲学草稿や、その後の著作、『聖家族』や『ドイツイデオロギー』の中で、外を解消するには賃金労働制の廃止、私的所有の廃止=生産手段の国有化。端的にいえば「プロレタリアートによる共産主義社会の設立」を提案したのです。

ところで、マルクスの書いた本の中で最も知名度のあるものはなんでしょうか? ある人は『共産党宣言』というかもしれませんが、あれはエンゲルスとの共著ですし、内容も時事的すぎて今日的な意義は薄れています。マルクスの代表作といえば何と言っても『資本論』です。さて、ここで問題になるのが、「マルクスの思想の集大成である資本論において、疎外論は論じられているのか?」というテーマです。実をいうとこの問題は、マルクスの死後120年以上経った今でも議論が続いているのです。

疎外論は資本論以前に既に捨て去られている」とする立場のことを疎外論超克説といいます。主な支持者は新スターリン主義、フランスの著名な哲学者ルイ・アルチュセールのアルチュセール学派物象化派、などです。日本の有名なマルクス哲学者、廣松渉もこちらの立場です。

一方で「疎外論は資本論においても残っている」とする立場が疎外論貫徹説です。
僕もこの議論に関連する論文を深く読みこんだ訳ではないのですが、現在では後者の方がやや主流なようです。

そもそも、なぜ疎外論超克説が誕生したかというと、マルクス死後にその一番の親友であったエンゲルスが発表した『フォイエルバッハ論』という著作の中で「マルクスはフォイエルバッハ的な疎外を捨て去った」みたいなことを書いていたからでして、エンゲルスがいうことならまぁ間違いはないだろうというのが、その発端であったようです。しかし疎外論超克説を世に広めたのは何と言ってもソビエトの力が大きいでしょう。

マルクスの理論によれば、「賃金労働制がない共産主義社会であれば労働の疎外は発生しない。各自が自由意志に基づいた創造的な労働だけ」になるはずです。しかし現実には共産主義国家ソ連において労働者は相変わらず苦痛で退屈な労働を強いられていたのです。これではマルクスの理論は間違っていたのではないかという疑惑が湧いてしまいます。そこでソ連……というかスターリンはエンゲルスの文章を採用(悪用?)し、「疎外論は、資本論におけるマルクス理論の途上にある未熟な思想」という考えを宣伝したのです。

その後、スターリン批判をきっかけにスターリン主義は失脚しますが、それを受けついた新スターリン主義では疎外論に対する批判を継承し、また一方で構造主義的マルクス主義者のルイ・アルチュセールが「マルクスの思想はドイツ・イデオロギーを境に分断されている」とする認識論的切断説を唱え、これもまた世界中に受け入れられ、広められることとなったのです。

現 在ではソ連も崩壊し、またアルチュセールの影響力も衰退しました。当たり前の話ですが、エンゲルスが言ったからといって必ずしも正しいとは言えないので す。哲学は史学とは違います。そもそも疎外論軽視が世界の潮流であった20世紀の中盤では、疎外論についてもっとも詳細に説明されている『経済学・哲学草 稿』の研究があまり行われていませんでした。そのため、疎外論の再考という研究も数に限りがあったのです。今でこそ資本論、共産党宣言につぐマルクスの重 要著作である『経済学・哲学草稿』ですが、昔は疎外論とともに研究の対象になりづらかったんですね。

さ て、21世紀における疎外ですが、正直僕にもどうなるか分かりません。実感としては今の日本でも間違いなく労働の疎外は発生しています。退屈でつまらない 苦痛のような仕事に私たちは毎日耐えています。けれど、マルクスが提示した共産主義という劇薬にも似た処方箋は歴史の中で間違っていたことが証明されてしまいました。今後の私たちの社会における疎外からの人間解放はありうるのでしょうか?


2020/5/23加筆

類的疎外についてもうちょい詳しく

類的疎外には2つの前提があります。

①人間は類的存在である。
②人間の類的生活の基本は自然環境に依存している。

一つ目の類的存在とは、人間が動物とは違い「類」を意識の対象にすることができる存在であるという意味です。「類」とは人類の「類」のこと。動物は自分と、せいぜい自分の目に見える群れの範囲しか思考の対象にすることができない。一方で人間は、目に見えない遠くの人間や、遥か未来の人間のことまで考えることができます。動物とは違って人間は類的存在であるがゆえに、群れを越えた集団や社会(類)を想像することができる。これこそが人間と動物を分つ重要なポイントなのです。

二つ目の前提は、土や植物をはじめとした自然環境がなければ人間は生きていくことはできないということを意味しています。当たり前といえば当たり前の話ですが、マルクスはこの前提を突き詰めて、自然環境を人間の体の一部とみなし非有機的身体と呼びました。私たちの内蔵や脳みそは血や神経が通っているので有機的身体というのに対して、自然は血や神経が通っていないので非有機的というわけです。

疎外された労働においては、類としての生活を、個としての生活に変化させてしまいます。その過程ではまず第一に人間の本質である自然を疎外し、第二に人間特有の自由な生命活動(類的生活)を疎外する。疎外された労働は自由な類的活動を疎外し、類における人間同士を疎遠にさせる。これこそが第三の疎外、類的疎外なのです。類的に疎外された労働では、まず私たちは普遍的な人類ではなく、ただの1人の個人に成り果てる。そして次に、その個人としての存在を、人類の普遍的な目的としてしまいます。

類的存在である人間は、本来は労働を通じて自己を表現することが出来る生き物であるにも関わらず、現在の我々の労働は生活の糧を得るための手段になりただただ苦しいだけで、人間が動物化してしまっている。これは私たちが類として疎外されているからなのです。類的疎外とは人間が人間らしくいられない、つまりは人間の本質の疎外のことなのです。


コメント

まる (著者)
No.4 (2015/09/23 01:00)
>>3
ご参考にしていただいてありがたいです。こんなブログですが、この記事をもとに是非マルクスの経済学・哲学草稿を読んでみてください。
ゲスト
No.5 (2018/03/01 14:51)
マルクス本人は共産社会になったところで、「まあ、俺は単純労働はする気しないけど」でしょうね。でも、マルクスの発想はすごいです。
ホリデー
No.6 (2018/11/07 08:21)
思想家の東浩紀さんも「疎外」について最近言及していました。
DIYが大事、分業主義は主従関係を逆転させてしまう、等。
クリエイター(ものつくってるやつ)が主導権握るのがだいじなんだと。
自分のやっている会社(ゲンロン)は「運動」なんだとおっしゃっていた。
https://www.youtube.com/watch?v=zJZH3M_TKqY

疎外を意識し乗り越え、オルタナティブなビジネスモデルを確立することが、資本主義に対する「抵抗」のラインをひくことになる。
マルクスの直観について考えることが今の時代においても重要なのだとかんじました。
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事