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ビジネスに役に立たないヘーゲルの弁証法 

2020/06/07 20:34 投稿

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弁証法とは哲学的思考法の一つ。

古代ギリシャ語の「ディアレクティケー(対話)」が語源であり、原義は「一方的に決めつけないで、2人で対話して色々な側面から柔軟に対応する」という意味。弁証法を用いた古代ギリシャ哲学者では「万物は流転する」と述べたヘラクレイトスや、問答法のソクラテスが有名。

18世紀にドイツ観念論者のカントが弁証法を学問的に取り上げ、ヘーゲルがそれを批判的に継承して観念弁証法を完成させた。その後マルクスがヘーゲル哲学を「逆立ち」させて、精神でなく物質に基礎を置いた唯物弁証法と呼ばれる体系を作る。

一般に弁証法といえばヘーゲルとマルクスのものを指すが、弁証法の射程はこの二人にとどまらず多義的である。キュルケゴール、サルトル、アドルノなど有名哲学者も弁証法を論じており、近代西洋思想と弁証法は切っても切れない縁にあるといえよう。

弁証法の最も基礎的な考えは「対立、矛盾する二つのものAとBが両者を保存しつつ、より高次のCになる」というものだが、あくまで基礎は基礎。このだけをもって弁証法と言ってしまうのはかなり無理があることに気をつけよう。

正反合の弁証法、いわゆるヘーゲルの弁証法

これは「二つの矛盾するものが、対立を経て、新たな一つのものになる」という思考法である。一般的に「ヘーゲルの弁証法」と呼ばれ、おそらく一番有名な弁証法の公式である。

この弁証法はある一つの命題(テーゼ、正命題)が、それと矛盾する命題(アンチテーゼ、反命題)と出会った場合、両者はアウフヘーベン(止揚、揚棄)して統合した新しい命題(ジンテーゼ、合命題)になるという思考をたどる。

命題とは「正しいか正しくないかはっきりしている文章」のこと。テーゼとは「残酷な天使のテーゼ」のテーゼである。アンチテーゼまでは聞いたことがあるだろう。アウフヘーベンとは「捨てて持ち上げる、高める」という意味。

テーゼとアンチテーゼはどちらか一方が正しいという訳ではなく対等なものである。テーゼはアンチテーゼに否定され、アンチテーゼはテーゼによって否定の否定がなされる。アンチテーゼはテーゼを完全に否定しないし、テーゼはアンチテーゼを完全に否定しない。両者はそれぞれを保存しつつ統合して(相互媒介)、より昇華された命題を生み出すのである。

図にするとこんな感じ。

     テーゼ⇄アンチテーゼ   

ジンテーゼ

まずテーゼとアンチテーゼがお互いを否定しあう。そうするとアウフヘーベンが起きて二つが合体。ジンテーゼの出来上がり。そしてジンテーゼは再び新しいテーゼとなり新しいアンチテーゼに否定し合う。「正→反→合→正→反→・・・」これを繰り返すことによって真理に近づいていく。

分かりやすい例

A太郎「昼飯何にする? おれはカツが食べたい」←テーゼ
B助「そうだなぁ・・・俺はカレーが食べたいぞ」←アンチテーゼ
A太郎「そっか、じゃあカツカレーを食べにいこうぜ」←ジンテーゼ

最初のテーゼがアンチテーゼに否定されつつ保存され、両者が統合された最終結果がでている。このような両者を折衷して思考を発展させる弁証法は議論の場やビジネスや日常の人間関係でも応用されている。


正反合の弁証法についての誤解

「ヘーゲルの弁証法」というと上のものが広く人口に膾炙している。だが、実を言うとヘーゲルは著作においてこのような説明は一切おこなっていない

もちろん弁証法そのものはヘーゲル哲学の最重要概念である。主要著作の『大論理学』では無と有による弁証法があり、『精神現象学』にはガイスト(精神)が弁証法的に発展し絶対知に至る旅路があり、『歴史哲学講義』でも歴史の弁証法的発展が解説されている。若いフランクフルト時代の著作『愛』や『キリスト教の精神』には生と死と再生が統一、分離、再構築と三段階の弁証法的発展がある。

しかし、ヘーゲル哲学で弁証法が用いられていることと、ヘーゲル哲学が正反合の弁証法を確立させたことは全く別問題である。通常、正反合の弁証法はヘーゲル哲学を定式化したものと言われるが、ヘーゲルの観念論的議論を一切取っ払って、道徳の授業にでも出てきそうな分かりやすい訓戒を「ヘーゲルの弁証法」と呼ぶのはかなり問題がある。仰々しく哲学の衣装を纏っているが、正反合の弁証法とは「対立してるものがあったら折衷案でいきましょう」「両方のいいとこ取りをしましょう」と言ってるだけの話なのだから。

バーレー大学教授のSchnitkerは「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼのモデルは普通ヘーゲルの弁証法として言及されるが、実際にはヘーゲルはこの専門用語をイマヌエル・カントに帰していた。また多くの学者は弁証法はフィヒテ[この人もドイツ観念論者]に代表されると主張している」と述べている。またヘーゲル研究者のMuellerは「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの三段階の弁証法をヘーゲルのものとするのは間違っており、この三段階の弁証法がヘーゲルの理論と信じられるようになったのは、難解すぎる彼の著作の拙い読み方と翻訳が原因である」と言っている。

カール・マルクスは『哲学の貧困』の中でヘーゲル弁証法としてこのテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼをとりあげている。そのためマルクスの知名度が広まるにつれてこの本は「ヘーゲル弁証法=正反合の弁証法」という常識を作る一因になった。しかし『哲学の貧困』の該当箇所は、フランスの哲学者プルードンのヘーゲルへの理解の至らなさを揶揄するレトリックであり、マルクスはテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ云々をヘーゲル弁証法を戯画化する目的で用いていたのだ。にも関わらず、正反合がマルクスの方法論の精髄とみなされるようになったのは、歴史の奇妙の一つである。

誤解のないように言っておきたいが、カントとフィヒテの用いた観念弁証法を完成させたのはヘーゲルであり、また彼の弁証法の中に正反合の弁証法を当てはめるということは可能である。上で否定されているのはあくまで「ヘーゲル弁証法=正反合の弁証法」という等式だけである。ただし重要なのは、ヘーゲルが弁証法を彼の研究対象であった精神の発展に方程式のように当てはめたのではなく、精神の発展を内容に即して考えた時に自ずから弁証法的プロセスを取らなければならなかったことである。恣意的に弁証法の方程式をなんでもかんでも押し付ける行為はヘーゲルの思想とは真逆の行為といえよう。またヘーゲルの弁証法における対立、矛盾は自己の中で生まれるものであり、勝手に外から対立するものをもってくることも本義とずれる。

もとより弁証法の本来は、会話の中で妥協点を見つける手法であり、正反合の弁証法のように物事を折衷的に考える方式を日常生活や仕事で役立たせるということも無為ではないかもしれない。しかしヘーゲル研究者の高山岩男は「弁証法というものは本来哲学的なものであったが、今日では常識化し無造作に用いられるようになった。しかしこのような弁証法は浅い理解と誤解を伴っており、弁証法と言葉で言っていても内容がまるで弁証法的ではないということが多くある。弁証法を数学の公式のように何にでも応用のできる定式のごとく考えるに至っては、もはや弁証法というものではない」とし、日常での雑な弁証法の利用を批判している。

実際のところ「ビジネスに使える哲学」などの専門家以外が使う「ヘーゲルの弁証法」という慣用句は、大哲学者ヘーゲルの名を援用した、ファッションや権威づけという場合がほとんどなのだ。

ヘーゲルの弁証法、観念弁証法

それでは実際のヘーゲルの弁証法とはどういうものかというと、皆さんの想像通りに難解の極みである。弁証法はヘーゲル哲学の基礎なので主要著作の『精神現象学』『大論理学』『法の哲学』『エンチクロペディ』はじめ、ヘーゲルのどの著作も弁証法的に書かれている。ここではその中の『精神現象学』を取り上げてみる。

弁証法論理学と形式論理学

その前にまずヘーゲルの用いる「論理学」と私たちが普段使っている「論理的」が別物であることを押さえておきたい。ヘーゲルの論理学は弁証法論理学なのだ。

「A=B、B=C、よってA=C」の三段論法に代表されるように、一切の矛盾がないことを目指す論理学を「形式論理学」と呼ぶ。形式論理学においては「A=BかつA≠B」は矛盾しているため成立することはない。これに対して、矛盾を前提とし、対立した物事の統一による発展こそを基礎とする論理学のことを弁証法論理学と言う。弁証法論理学においては、形式論理学では許されない「A=BかつA≠B」は逆に最も核心的な命題になる

矛盾を基礎とする弁証法論理学において「A=BかつA≠B」はアリ

矛盾を許さない形式論理学において「A=BかつA≠B」はナシ

精神現象学は要約不可能な哲学書と呼ばれるが、その難しさの要因の一つにこの大著が弁証法論理学に基づいていることが挙げられる。普通の論文というものはどれだけ難しくても形式論理学に則って「私はこう思います(主張)。なぜならこういう理由(根拠)だからです。よってこうです(結論)」という「主張、根拠、結論」の構成で執筆されている。

だが弁証法論理学に基づいている精神現象学はこの全てが存在しない。精神現象学の冒頭でヘーゲルは「著作というものには普通、作者がその著作で企てた目的について語る序文があるが、哲学的な著作の場合はそれは余計なものであり、不適切だ」と述べている。よって読者は「結局、何が言いたいの?」とポカンとなってしまうのだ。

形式論理学に従っている通常の論文は自分の主張と矛盾しない根拠を示し、結論という真理に到達することを目指す。しかし「真理とは矛盾し、常に変化するものである」とする精神現象学では、主張は常に対立し、矛盾を続け、どこかにたどり着いたと思ったらまたその中に矛盾が発見される。矛盾を経るにつれてより高次に段階に移っていくも、最終的な結論に至ることはない。ヘーゲルにとって大事なのは、実体ではなく作用性。つまり高次に向かって歩む過程の中にこそあった。ヘーゲルは真理とは固定した結果ではなく、常に生成していくプロセスにのみ成り立つと考えていたのである。

精神現象学の弁証法

精神現象学は、「意識」が様々な経験を得ながら「絶対知」に向かって歩んでいくプロセスを叙述する哲学書である。あまりに物語的な書籍であり、ある哲学者は「小説みたいで面白い」という感想を残している。遥かなる旅路の中で「意識」は常に自己を懐疑しながら感覚的確信→知覚→悟性→理性と発展していく。

この本で問題とされているのは認識論である。真理を追い求める哲学という学問にとって「真に存在するものをどう認識するか」は非常に重要な問題であった。私たちが目の前にあるりんごを見て「ここにりんごがある」と考えてみたところで、その考えに至るまでにはりんごを目で知覚し、脳で認知するという過程があるが、果たしてこの知覚と認知は無条件に信じて良いものなのだろうか。カントは認識(主観)と対象(客観)の間には超えがたい溝があるとした。

ヘーゲルは「対象は認識できるのか?」という問題が生まれる原因を、この「認識対象(りんご)」と「認識主体(自分)」を対立させるからだとし、カントのように対象と主体を全くの別物とする立場。つまり矛盾を許さず(二律背反)、真理を固定したものとする認識を悟性的だとして批判した。認識主体に対して全く異なった認識対象という客体があったときに、ヘーゲルはその対立、矛盾する主体客体を綜合する。絶対的な他在のうちに自己を見ることを絶対知と言う。すなわち、主体と客体の統一を自覚することこそが絶対知であり、ヘーゲルが「学問」と呼ぶ真理の極致である。しかし絶対知への道のりは高い山に登るようなもので、段階を踏まなければ踏破することは叶わない。そこで道案内役になるのがこの精神現象学の役割である。

精神現象学の中にでてくる数々の懐疑と経験の過程こそがヘーゲルの観念弁証法である。精神現象学で一番最初に取り上げられるものは意識の中でも、ただ「これ」だけを直接無媒介に受け止めている「感覚的確信」である。この出発点は、何ものにも媒介されていない直接態でなければならない。この主体と客体は統一された最初の状態は、それ自体で独立して存在しているため即自的存在と呼ばれる。次に、最初の存在に反省作用を加え最初の統一を否定するならば、主体は統一から分裂し、自己を対象化し二重化する。この主体は自己に対して存在するため対自的存在と呼ぶ。それ自体で在るだけの「可能性」でしかなかった自覚なき即自は、対自によって批判を受けることによって自覚を得る(自覚化)。

批判を受けて、客体のあり方が自己自身と同じ存在だと自覚し、主体と客体の統一の否定を更に否定する(否定の否定)。こうして主体は自己自身へ回帰し、より高度な統一へと帰っていき、即自かつ対自的段階にいたる。このように直接態が媒介を通じて自己を反省し、第二の直接態へと螺旋的に発展する。この運動をヘーゲルは「他在において自己自身へ帰る反省」と呼んだ。その媒介の働きに現れるのが思惟(思考)である。

  1. 主体と客体が統一された実体(即自)←自覚がない
  2. 否定による主体の二重化と分裂(対自)←分裂した主体から批判を受けることで自覚が生まれる
  3. 否定の否定による統一(即自かつ対自)←批判を経て自己肯定し、自覚は深化する
  4. 1に戻って繰り返し。自覚は深化し続ける

さて左の2本の線は平行だろうか?感性的に考えれば、平行の記号はついているものの線はガタガタだし感覚的に平行ではない。しかしここで思惟という媒介を通してみると、普遍的な世界にある完璧な平行が取り出され「パッと見で平行ではない」という感覚を否定する。自己反省したことによって左の二線は個別性を失い、平行線という一般性を捉える。

この例のように思惟による媒介は感性による個別性に対して常に否定的である。また思惟の媒介を通した第二の直接態は、思惟の否定的媒介をも否定しているので、ここから否定の否定と言われる。更に、否定との対決を経ることによって、直接態は自覚的な肯定を得る。自己批判と自己肯定を繰り返すことによって、自覚はより深化していく。

常識的に考えれば、私たちが実際に感覚、経験したものは具体的で、思考の中で生まれたものは抽象的であろう。だが上の例を見ればわかるように、ヘーゲルは実際に感知したものは「抽象的」で、媒介の中にある思惟こそが実を伴った「具体的」なものと考えてた。意識はまず「知」る(上の例でいえば雑な線の2線を見ること)。その後、思惟によって「真」(完璧な平行線を思考する)を得て「知」を否定する。だがこの「真」も絶対的真理ではなく、単なる高次の「知」にすぎないとすぐに気づかれ、さらなる「真」によって否定される。「知」→「真」による「知」の否定→高次の「知」→さらに「真」による否定→……こうして主体と客体の否定、統一を繰り返すこと(これを「経験」と呼ぶ)が観念論弁証法の特徴の一つである。


マルクスの弁証法、唯物弁証法

ヘーゲルの死後に、彼の継承者たちはヘーゲル哲学を保守的に受け継ぐ右派(老ヘーゲル派)と、批判的に受け継ぐ左派(青年ヘーゲル派)の二派に別れた。カール・マルクスは青年ヘーゲル派に属する。マルクスはヘーゲル弁証法を「逆立ち」させ、経済に基礎を置く唯物弁証法を唱えた。経済諸関係の矛盾が歴史を発展させていくという唯物史観が有名。

唯物史観とは「歴史とは経済をきっかけに動いていく」という歴史観である。以下の文章は「唯物史観公式」と呼ばれており、数学公式みたいなもんでなので長ったらしいけれども全て引用した。もちろん丸暗記する必要はないし、流し読み推奨である。唯物史観とは以下のような歴史観のことを言う。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間社会的存在がその意識を規定するのである

社会の物質的生産諸は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急にせよ、くつがえる。

このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律政治宗教芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾社会的生産諸社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。経済学批判序文)

専門用を用いて一行で述べるならば「経済の発展が既存の経済諸関係に対して矛盾が起きたときアウフヘーベンが発生し新たな社会体制が生まれるという歴史観」となる。

相変わらず駄に難しい表現であるが、要するに上に書いたように「歴史ってのは経済をきっかけにして動いていくのだ」という考え方が唯物史観である。

いつの時代も世の中が進歩して商品の生産経済)が発展すると、既存の社会政治法律)に適合しなくなってきて矛盾を持ち始めるようになる。そうなった時には政治経済に応じて変わっていき、それが連続することによって歴史を作っていく、というのが唯物史観である。経済矛盾を正すために政治が動き、歴史が変わるのだ。

マルクスはこの理論における経済「下部構造」政治などを「上部構造」と呼んだ。すなわち下部構造が上部構造を規定することになる。政治法律は人の意思や感情で決まるが、反対に経済は人の意思や感情から独立して決定しているからこのような構造を取るのだ。

先述した通りこの唯物史観には「弁証法」が用いられている。「古い時代の社会制度」と、経済発展によって生まれた「その経済に合わせた社会制度への欲求」との間に「矛盾」が起きる。この結果、二つの社会制度の間でアウフヘーベン止揚)が起きて「新しい社会」が生まれていくのである。

マルクスはこの考えを根拠に、歴史は原始共産制→奴隷制→封建制を辿り資本主義を経て必然的に社会主義になり、共産主義へ移行することを論じた。

原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義共産主義

「→」のところでアウフヘーベンが発生している。

なのでマルクスは他の社会主義者と違って具体的な共産主義社会がどのようなものかを説明しなかった。マルクスが示したのは、そこへ至るまでのプロセスであり、そこから先の未来社会はその時の社会経済状態が決めるものであるとして人智では予想しえないと考えていたのである。

また彼の主著『資本論』にも弁証法は見出される。日常的な『意識』から出発したヘーゲルに対して、資本論の出発地点は資本主義社会を構成する最小単位である『商品』であった。市場において交換される商品はやがて貨幣という特殊な商品に行き当たる。人々は貨幣を交換するうちに、本来は商品と交換するために集めていた『貨幣』それ自体を求め出す。こうして貨幣は資本へと転化される。

資本は人間の労働(剰余価値)を搾取し、自己増殖する。こうして人々は自分たちが生み出した資本によって支配を受ける。資本主義が発展するとともに、資本を擬人化した資本家(ブルジョワ)と、資本を持たない賃金労働者(プロレタリア)の格差は大きくなり、やがて資本主義を倒す革命を引き起こす。このような分析には常に対立と矛盾、そしてその統一が見出される。ヘーゲルの場合と同じく、マルクスは経済を弁証法的に分析したのではなく、経済を分析したときに自然と弁証法の動きが発見されるのである。

エンゲルスの『自然の弁証法』

マルクスは社会科学を弁証法的に論じたが、物理学、生物学、化学など自然科学の分野でも弁証法が見出されると考えていた。例えばダーウィンの『種の起源』を読んだマルクスは、進化論が弁証法的であると感銘を受けている。マルクスは生前に弁証法についてまとまった本を出すことはなかったが、彼の友人のエンゲルスが『反デューリング論』と草稿集『自然の弁証法』の中でより広範囲の分野での弁証法についての考察を深めた。

エンゲルスによれば弁証法とは「自然、社会、思考の発展法則に関する科学」と述べている。エンゲルスもまたヘーゲルと同じく、弁証法とは自然科学の中に恣意的に弁証法の方式を当てはめるとことではなく、逆に自然を観察する中で自ずと見出される科学的一般法則であると考えていたのだ。

エンゲルスによれば弁証法には3つの特徴がある。

  • 量から質の転化(量が増えるとやがて質的にも変化する)
  • 対立物の相互浸透
  • 否定の否定

量から質の転化はわかりやすいだろう。一例をあげると、水は水温が増していくと100℃を超えた時点で質的に変化、つまり気体になる。対立物の相互浸透とは、自然の中で対立矛盾するものがあっても、どちらかが一方的に否定されるのではなく、両者が統合されるという今までよく見てきた弁証法の特徴を指している。

三つ目は形式論理学においては否定を否定することはただの肯定になってしまうが、弁証法では否定を否定することによって、より高次のものへと発展することをエンゲルスは言っている。エンゲルスは1例として虫の成長をあげている。まず蝶は卵を否定することによって生まれ(第一の否定)、成長し変態しやがて卵を産んで死ぬ(第二の否定)。

科学的弁証法

マルクス、エンゲルスらの弁証法はソビエト連邦の隆盛期にさらに発展し、科学的思考法として流行した。この弁証法も矛盾と統一を基礎とするが、ここでは更に特徴を2つあげて紹介する。

キーワードは「点ではなく全体」、「静ではなく動」である。この二つの考え方はヘーゲル、マルクスの弁証法にも共通することなのだが、より日常に即した表現になっている。

科学としての弁証法

普通、私たちは物事を考えるとき「個」と「静」で考える。例えば「空は青い」「砂糖は甘い」などの「AはBである」という思考は、Aという個のみを対象とし、また「A=B」を固定された一つの真理とみなす。しかし弁証法においては「個」と「静」ではなく「全体」的、「動」的に考える。

「全体的に考える」とはどういうことか。「砂糖は甘い」の例をあげて考えてみる。まず「砂糖が甘い」のは砂糖という個のみの性質によって生まれる現象ではない。砂糖が舌に触れとけて、その刺激が脳に「甘い」と認識されることによって初めて引き起こされるのである。もっと踏み込んでみれば砂糖を甘いと認識した脳は、たんぱく質の塊でありその細胞を作るまでには多くの化学現象、物理現象の工程を経ている。さらに脳細胞を作るための食材の摂取にも多くの過程があり、こうして「砂糖が甘い」という単純な現象が世界全体に至っていく。弁証法では砂糖という個のみを見ず、全体の中で個が他の事物とどう連関して存在するかを考えるのである。ヘーゲルは精神現象学の序文で「真理は全体にあり」と述べている。

次に動的に考えるとは、対象物Aを停止したものとせず、(例えば時間経過などの)変化をAに持ち込む考えを指す。上の例で言えば「空は青い」といっても時間が経って夕方になれば「空は赤く」なる。古代の哲学者が「万物は流転する」と述べたように、森羅万象のものはどこかの一点で静止することはない。「青かった空」という一点を静的に捉えて「空は青い」を真理とみなす行為は空虚な思考なのだ。そこで動的に考えれば「空は青く、また青くない」ということができる。矛盾を基礎とする弁証法ならではの発想法といえよう。

物事は、時間経過や量的変化によって自らの内に矛盾を生み、自らを否定し始める。自らを否定した個は、より深化した自己に至る。その深化した自己もまた自己矛盾によって再度深化していく。こうして物事は自己矛盾の連続によって螺旋的に発展し、個は全体の中で連関していく。

マルクス思想における応用例

ここでは、マルクス思想も「全体」の中で「動的」に考えていることを確認したい。

今の日本人が経済学部に入って普通最初に習うのは近代経済学である。これに対し、マルクスが『資本論』で独自に構築した経済学体系をマルクス経済学と呼ぶ。近経(キンケイ)、マル経(マルケイ)なんかとも言う。両者の違いは色々あるが、その一つとして近経は形式論理学に基づいており、マル経は弁証法論理学に基づいていることが挙げられる。つまりマルクス経済学は経済を人類史全体の中での連関で考えているのである。

もっと具体的に見てみよう。近代経済学のミクロ、マクロ経済学では様々な経済理論があるが、それらは全て「資本主義社会」という前提の上に成り立っている。しかし資本主義社会というのは長い人類の歴史の中の一幕に過ぎないはずである。要するに近経は経済を静的に捉えてしまっているのである。これに対してマルクスは経済を動的に捉え、資本主義を歴史の1つの過程に位置付けた。

資本主義社会において人々の格差は広まり、豊かなブルジョワと貧しいプロレタリアという対立、すなわち社会矛盾を生む。資本主義は発展するにつれてプロレタリアに階級意識を植え付け、資本主義は自己深化する。そうして先鋭化した後期資本主義社会はやがて自らが生み出したプロレタリアによって破壊され、共産主義という共産主義という新しい社会に到達するのである(プロレタリア革命)。マルクス自身は遠い未来すぎて言及しなかったが、弁証法に則れば共産主義もまた歴史の一幕であり、共産主義社会もいずれば自己深化し社会矛盾を生み更にその先の社会へと移り変わっていくはずである。



参考文献

  1. 『弁証法入門』柳田謙十郎
  2. wikipedia(英語版)『Thesis, antithesis, synthesis
  3. Encyclopedia of Sciences and Religions『Hegel's Thesis-Antithesis-Synthesis MOdel』
  4. 『辨證法入門』高山岩男
  5. 『「反デューリング論」を学ぶ』鯵坂真・福田泰久・浜林正夫
  6. 『自然の弁証法』F・エンゲルス
  7. 『マルクス ある十九世紀人の生涯』ジョナサン・スパーバー、小原淳 訳
  8. 『超読解!はじめてのヘーゲル「精神現象学」』武田青嗣、西研
  9. 『ヘーゲルの精神現象学』金子武蔵
  10. 『ヘーゲルとその時代』権左武志
  11. 『ヘーゲル』城塚登

コメント

mincan
No.1 (2020/06/09 12:56)
いつも大変興味深く思いながら拝読しております。ヘーゲルとマルクスの弁証法をわかりやすく解説していただいてありがたいのですが、一点気になったのは、主体や即自的の「何ものにも媒介されていない直接態でなければならない。」とはどのような状態なのであるかということです。たとえば「主観」のSubjektive(英語:subjective)はsub(下に)-ject(投げられた)からくる言葉であるように、英語でも被験者や服従を意味します。このような意味を避けるために即自的を用いたのだと思いますが、そうなるとヘーゲルは神のような超越的な存在者の作用を抹消ために、直接態なる概念を発明したのでしょうか?理解が誤っていたらすみません。
まる (著者)
No.2 (2020/06/10 00:24)
>>1
自分は専門家ではないので確実なことは言えないですけど、訳語通りに「媒介がなく直接の状態」って意味でいいんじゃないですかね ヘーゲル弁証法はキリスト教をモチーフにしていても超越者などを直接関与させることはないようですし
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