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マルクスの共産主義革命について

2016/05/17 16:49 投稿

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カール・マルクスといえば科学的社会主義の祖として共産主義を世界に広めた人物として有名である。しかし20世紀をすぎた現代では、マルクスの思想にはイデオロギー的な手垢がこれでもかというくらいについていて、その著作から直接理解しようという人はほとんどいなくなってしまった。それでは実際にマルクスが考えていた共産主義というのはどういうものなのだろうか?

マルクスは生涯を通じて社会変革運動に思想的にも実践的にも取り組んでいた。インターナショナルを組織し、共産主義革命を起こそうとあれこれ画策していたのは世界史をちょっとでも知っている人なら周知の事実だろう。マルクスの共産主義革命というのは「労働者は搾取されてる。寄生階級であるブルジョワをぶち殺せ」とか、ちょっと前にバラエティで紹介されたような「格差社会をなくそう」というものではない。もちろん結果として暴力革命の行使や、相対的的貧困の根絶というのも現実的に発生しうるのだろうが、マルクスの革命論にはその根底に哲学的背骨があることを見過ごしてはならない。マルクスの目指した革命とは、疎外の止揚された社会の実現である。疎外概念についてはここのブログでも何度も紹介したのでそちらを読んでもらいたい。

僕は小さい頃、共産主義というのは「働かないで毎日のんびりと暮らすことのできる地上の楽園」というイメージを持っていた。もちろんそれはプロパガンダなのだけれど、高校生になってもマルクス共産主義=労働のない社会という先入観は変わらず持ち続けていた。しかし、実際にマルクスの著作、例えば経済学・哲学草稿などを読むと、それはむしろ逆で、労働こそが人間の本質であるとマルクスが考えていたことが分かった。

労働のない人間社会は絶対にありえないというのは誰しもが経験的に分かることだろう。labor(労苦)のない社会はもしかしたらありうるのかもしれないが、workも含めた労働一般が廃止された社会なんてものは、映画のマトリックスのようなSFの世界にしかありえない。人間は非有機的身体である自然に働きかけ、生きるために、或いは社会を持続させるために必ず働く必要がある。人間社会の主体は労働にあるのだ。そして労働の生産力や利便性を高めるために、人は色々なシステムや物を発明した。それが貨幣、金融システム、分業なのである。

労働が第一の主体であり、それを支えるための客体として貨幣、金融、分業が誕生した。つまり、労働が主であり、貨幣などは従概念なのだ。しかし、私たちの生きている資本主義社会ではここに逆転現象が起きてしまっている。私たちの実際生活は、労働は貨幣に支配されているし、株価や外貨取引など金融の動きによって私たちの日常生活は嵐の中の小舟のように翻弄される。また分業によって労働は専門化され、酷く退屈なものになっている。主客の転倒。外化したものが本質に対して敵対し始める。これがつまりマルクスが疎外と呼んだものである。

労働のための貨幣から、貨幣のための労働へ。何かの目的のための利潤獲得が、利潤獲得のための利潤獲得へ。このように、労働という本質から生まれたにも関わらず、人間の労働を逆に支配し貶めるようになってしまった価値形態をマルクスは資本と呼ぶのである。資本とは貨幣や債券など何らかの物ではなく、本来の目的を見失った生産関係のことを言う。資本は交換価値のみを求めて人間労働を搾取吸収し、自己増殖する。資本主義とはつまり疎外された資本が地球を覆い尽くすような社会のことである。

社会は常に生産を行うことによって持続、拡大している。そして生産の源泉となるのは常に労働である。本来であれば生産過程(作る人)と、労働過程(働く人)は一致しているはずなのだが、資本主義においては生産過程は資本に取って変わられてしまっている。TOYOTAの車を作っているのはTOYOTA(の資本)であり、実際に働いているライン工のおじさんは労働者ではあっても車の生産者とは見なされない。つまり生産過程と労働過程がズレしてしまっているのだ。

また、資本主義というものは経済が無限に成長することを前提とした社会でもある。しかし常識的に考えて無限の成長なんてものはありえない。地球の資源が有限である以上、いつか物質的な限界がくる。そしてその前に、資本が自然環境を破壊し尽くした結果、人類滅亡というシナリオも決して夢物語ではない。資本にとっては利潤こそが唯一であり、その後に現れる環境問題などは大して問題ではない。「洪水よ、我が後に来れ」が資本の価値規準である。疎外された労働は環境問題という観点からも矛盾した概念なのである。

以上のような資本主義社会の下に存在する疎外された労働は本質的な矛盾を内包している。そのためそれは弁証法的に止揚、すなわち改善されるだろうし、また規範的にも改善されなければならない。つまりマルクスの目指す共産主義世界とは疎外のない社会のことなのだ。よって共産主義革命が目指すものも疎外の止揚ということになる。ゴータ綱領批判において、まず社会主義という疎外がいまだ残存する過渡期を経て、最終的に完全に疎外のない共産主義に至るとされている。


疎外という概念は元はヘーゲルが用い、フォイエルバッハがそれを唯物論的に宗教批判の道具として使用したものであった。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』によればキリスト教におけるGODとは本来は人間が生み出したものである。まず人間があって次に神があるのであって、その逆ではない。つまり人間が主体であり神が客体であるはずなのだ。だがキリスト教の教義では神は人を作りたもうたことになっている。そして人間は自分が作ったはずの神に支配されている。ここに主客の逆転、疎外が発生している。

フォイエルバッハはこのように疎外を唯物論的に考察したが、その解決策を人間的哲学の普及、人間意識の変革という観念論に求めてしまったため、やがて限界に突き当たってしまった。人間が真に解放されるために必要なのは意識の改革ではない。安い給料で一日15時間労働を強制される労働者に必要なのは意識を変えることではなく、物質的改善であるマルクスは喝破する。

フォイエルバッハより前のヘーゲルにおいて、疎外された労働は人間本質と疎外された労働が弁証法的に止揚され進歩を生むという、どちらかといえば肯定的な結論を与えられていた。しかしマルクスは疎外された労働は、国民経済学的な、つまり資本主義社会という、歴史の中でも特殊な状況のみで発生するものとして認識していた。

疎外された労働というものはけして克服できないものではない。そのためにマルクスは社会主義という青写真を掲げ、誰しもが朝には釣りを、昼には獣を追い、夜には筆をとって批評家になれる。つまり漁師や猟師、批評家といった社会的分業の下で専門に縛られることなく、誰しもが漁師であり猟師でありまた批評家でもあることができる未来未来を想像した。

社会主義というと真っ先に思い浮かべるのは現実社会主義であるソヴィエトだろう。よってマルクスの社会主義の目指すのは結局ソ連のような地獄なのではないか? というのが一般的な認識かもしれない。しかしマルクスの目指した共産革命が疎外の止揚であるとするならば、ソ連社会は果たしてマルクスの目指したものだったのか。当然これは否である。

ソヴィエトをはじめ東欧や中国においても労働者は資本主義の頃と同じように疎外されていた。資本主義社会では資本の擬人化である資本家が彼らを支配した。ソヴィエトにおいては官僚と、特権階級であるノーメンクラトゥーラが彼らを支配する。労働生産物は労働者のものにはならず、疎外は止揚できていなかった。官僚やノーメンクラトゥーラが利潤ではなく権力欲に突き動かされていたという動機の違いはあっても、ソヴィエトはやはり資本主義の亜種の社会であり、マルクスの目指した労働を自己管理するアソシエーションとはかけ離れたものであった。

ではマルクスが考えた社会主義とは具体的にはどういうものなのか? という疑問が当然湧いてくるだろうが、マルクスは社会主義に対して具体的な描写をすることを避けていた。共産党宣言やゴータ綱領批判などでその構想の一端を垣間みることはできるが、マルクスのアソシエーションの全体像となると体系的にそれを記述した著作は存在しない。

しかしそれは無責任なのではない。過去のいかなる天才社会主義者が集まったところで、未来社会の具体的な描写は不可能なのだ。今の進んだ社会科学ですら「百年後の未来を具体的に想像しろ」と言われて可能な社会学者は存在しない。仮に提示できた社会学者がいたとしたら、それはキリスト教における救済後の世界と似たり寄ったりなものだろう。具体的な未来社会の提示はむしろマルクス主義を疑似宗教にしかねないものだ。

かの有名な唯物史観ですらマルクスにとっては一つの仮説にすぎない。共産革命やアソシエーションというのは必ずしも歴史の必然ではない。マルクスが提示するのは一つの可能性、選択肢のみである。しかしだからこそマルクス主義は科学として批判の対象になり、その限界と共に現代においてもいまだアクチュアリティを失っていないのである。

参考文献
『マルクス疎外論の視座』田上孝一


コメント

名無し
No.1 (2017/09/07 12:33)
面白い記事でした。かねがね共産党はマルクスの言葉を捉え違えていたのではないかと思っていたのですが、やはりそうなのかもしれないと思いました。
現代ではベーシックインカムの思想もありますし、どちらかというと、より高度な機械化により人間が労働から解放される社会の方が近道なのではないかと思います。
奇しくも、資本主義は産業や科学技術を発展させてそれを可能なものに近づけていますね。省エネ技術も資本主義国家の方が強いように思います。
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