そんなことよりアイマスの話をしようぜ

【今更】『マッドマックス 怒りのデス・ロード』観てきたのでその感想と、なぜ劇場版アイマスは駄作なのかについて

2015/07/16 22:16 投稿

コメント:46

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 ものすごく今更だけど、2年ぶりくらいに映画館に行って『マッドマックス 怒りのデス・ロード』観てきたよ!
 いや、すごい映画だった。結論から言うと、劇場版アイマスと同じくらい感動した


○これは自由を求め生きる人間のための賛歌
 いや、前評判で「とんでもないバカ映画」「全編にわたって常に何かが爆発している」みたいに聞いていたので期待していたけど、想像以上にまっとうな人間ドラマだったので驚いた。爆発は期待より3割ほど少なかったけど物語は期待より5割以上素晴らしかった

 とにかく、自由を求め走り、闘う者たちの激しく美しい人間賛歌だった。とにかく走り、とにかく戦い、とにかく何かが壊れ爆発し、とにかく生きる
 あの荒廃した世界で、イモータン・ジョーの砦の中は、歪みながらもある種の理想的な世界として描かれる。曲がりなりにも秩序があり、身体に障害を持つ者も役目を持って働き、何より水とガソリンとV8エンジンがある。しかし、そんなこと関係ねえや! 私たちゃ自由がほしいんだ! つってフュリオサ達はとにかく走り、とにかく戦い、とにかく生きる。『子産み女』として「生かされる」のではなく、自らの意思で「生きる」。『守られるべき存在/救い出すべき存在』としてのか細く頼りなさ気な女性たちも主人公たちと一緒になって戦い、最終的にジョーを殺すのはフュリオサ自身だ。そうだ、何処からかやって来たヒーローじゃなく、抑圧されていた者自身が抑圧者を殺さなきゃな! これは行きて帰る物語、逃げるのではなく立ち向かう物語だ、フュリオサ自身の叛逆の物語だ。その激しさ、美しさ。
 主人公マックスもそうだ。『輸血袋』として「生かされる」のではなく、荒廃した世界で、自分と自分以外の誰かのためにとにかく走り、とにかく戦い、とにかく生きる。誰かに与えられた『役割』じゃねえ、人は一人、人として生きる。その激しさ、美しさ。
 その自由こそが人間なのだ、自由を求め戦う姿こそが人間らしさなのだと、実にハリウッド文化から生まれた作品らしい、激しく美しい人間の物語だった。
 
○これはとにかく生きる人間のための賛歌
 そして『自由』というわかりやすいテーマとともに、もっとわかりやすい「生きるということのエネルギッシュさ」も圧倒的な迫力で描かれていた。
 イモータン・ジョーは麻薬と暴力であの砦を支配しているカリスマ的存在だけど、ヤクをキメまくったウォーボーイズがヒャッハーーーーー!!!!!しまくる度にやっぱワクワクしてくるわけよ! というか、あの映画の印象の7割くらいはウォーボーイズで占められるだろ! 「あの映画の誰になりたいか」って訊かれればたぶん殆どの人は「ウォーボーイズになってヒャッハーしたい」って答えるだろ!
 あの荒廃しまくった世界の中で太鼓をドンドコドンドコやってギターをギャーン!と弾いてV8車やギターから意味もなく炎がブォー!と吹き出してるのを見て思うのは「うわやっぱ暴力的支配よくないわ」でも「うわぁおクスリおっかねえ」でもなく「何だコイツらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! 最っ高!!!!」なわけよ。一々どんな小物にもこれぞ世紀末!って感じのドクロの装飾が施されていて、もうコイツラ本当に死にかけの世界で生きてるのかって気持ちになる。
 それはあの荒野で必死に生きる人間……いや、全力全開で生きる人間の命のエネルギッシュさに対する賛歌だ。生きるパワーは素晴らしい。生きる命は素晴らしい。生きるエネルギーは素晴らしい! ウォータンクの周辺でかき鳴らされるギターとV8サウンドとそれらの爆発は、そのエネルギーの迸りだ。最終的には、戦いと逃避行の中で半ば『ホーム』と化していたウォータンクも爆発し捨てられる。『場』じゃないんだ。とにかく生きる人間のための映画だった。

○これはフェミニズムのための映画だったか
 これは「子供を産むための機械」としてだけ生かされる女性を抑圧的な男から救い最終的にその男をぶっ殺す物語、外した貞操帯を蹴り飛ばし最終的に男の口をもぎ取る物語、であるわけだけど、じゃあこれが「フェミニズムを目的とした映画だったか」といえば、たぶん答えは『ノー』なんだと思う。
 『男女同権』とかそういう耳障りの良いお話じゃなく、多分この映画にとってPCやフェミニズムは手段・過程であって目的ではない。この映画で描かれる、自由を求め闘う姿の激しさと美しさ、あの荒野でとにかく生きる姿の激しさと美しさ(そして辛さ)は、『人間』のものであって『男』のものでも『女』のものでもない。ウォータンクの周りで、男も女も生き、殺し合い、生命を迸らせる。
 この映画でフェミ的描写があるとすれば『救い』ではなく『継ぐ』ことだとおもうのよね。中盤で表れる、どう考えても詰んでる社会に生きる老婆連合の中で、一人の老婆が一人のウォータンクガールに種籾を託すというのがまた象徴的。「命を繋ぐ」という女性性の素晴らしさを描いたわけだけど、それも『子供』ではなくあくまで一個の生命としての『種籾』という点で、完全にフェミ的というわけでもない。『北斗の拳』でそれを行ったのはミスミ爺さんだったけど、生命を運び次代へ繋ぐのはあくまでも『人間』であるということだろう。時代に生命を託して永遠の眠りにつく婆さんの満足そうな笑顔には心底感動した。
 赤毛の女性とニュークス君の触れ合いもそうだと思うんだよね。あれ、ニュークスが抱いているのは『恋愛感情』じゃなくて『母への親愛』だと思うのよ。夜のタンクで慰められている時のあの表情、そして最期の表情は、好きな女の子へのそれではなく、母を想う表情に見えた。あの砦の中で生まれたニュークスは『母』とか『恋愛』とかの感情を知らずに育ってる。「存在は知っているけど受けたことがない」とかではなく、そういうものがあるということすら、彼は多分知らない。そんな彼でも、自分を慰めてくれるあの仕草の中に母性の片鱗を感じ、それまでの価値観を逆転させることが出来た。一人の独善的な英雄から承認されるのではなく、己に慈愛を見せてくれた人、真に気にかけてくれた人、『母性』を見せてくれた人への情愛を持つことが出来た。彼はその感情になんという名前が付いているか知らなかったろうけど。

○マックスは英雄ではない。だがヒーローだ。
 で、そんな中で闘う男が、開始3分で酷い目に遭う主人公マックスなわけだ。かつて守るべき者を守れず、その幻影に苦しめられる「精神に失調をきたした(マッド)」マックス。タンクガールズからの避けられっぷりというか、彼の対人コミュニケーション下手っぷりはすごいよね。冒頭で出てきた時は森の奥の賢者かと思ったもん。基本的に彼は世捨て人なわけだ。 
 そんな彼が、ほんのちょっとずつガールズを受け容れ、逆に受け容れられ、彼女たちのために闘うという、ちょっぴりずつの克己と決意が熱く美しい。そして、行きて・帰る、ジョー達から逃げるのではなく立ち向かうべきだと、フュリオサ達を導くまでになる。かつて守れなかった自分に克つために、守り、導き、戦う、まさにヒーローだ。
 逆に、あの幻影はマックスにとっては『乗り越えるべきもの』ではなかったんだよね。マックスを所々で苦しめながらも、あの幻影は偶にマックスを矢から守ったりするし、戻って砦を乗っ取るべき、ジョー一味に立ち向かうべきという決意をもたらしたのもあの幻影だ。
 あの幻影を抱えたまま、マックスは何処からかやってきて、何処かへと旅立っていく。フュリオサと恋に落ちるわけでもなく、爆発をバックに誰かとキスをするわけでもなく、群衆の中に溶け、おそらくあの荒野へ旅立っていく。マックスはあの砦に残って『英雄』としてもてはやされる未来は選ばなかった。ヒーローが英雄にならず、スッと来て、スッと帰っていく。タンクも行きて帰り、マックスも行きて帰る。その物語の終え方、マックスの発ち方がどこか爽やかでね。とても良かった。




 というわけで良い映画でしたよマッドマックス。俺のための映画だったよ。というか世の中のすべての映画は俺のための映画だよ。俺があの映画で受け取ったものはコレだったという話だよ。
 
 








 で、見たそのままの勢いで劇場版アイマスを思い出したんだけど。




○アイマス賛歌であり、プロデューサー賛歌であった劇場版アイマス
 あの映画のクライマックスって、春香(を依代にした『アイマス』という概念的存在)がアリーナで「皆のおかげでここまで来られた、そして皆のおかげでここから未来へ進んでいく」とこちらに向かって語りかけてくるシーンと、その後の765AS全員で川面の輝きの向こう側を眺めるシーンだと思うのよね。あれはアイマス8年間の物語であり、視聴者としてのプロデューサーの物語だったから。
 いや、なんでこんな話をするかというと、劇場版アイマスを駄作と評する人の意見を見てみると、殆どが「あれは可奈の物語だった」と言ってるんだよね。


 劇場版アイマスのテーマって大体3つあって、

1.「今までありがとう、今からもよろしく」
2.「私達はこんなにも成長したよ」
3.「可奈が辞めるのを止めたよ団結オーイェー!」 なんだけど、

「2」は基本千早や真たちの言動や表情で描写されるのみで、テーマが物語に表れず「3」に吸収される。で、「3」をストーリーの主軸と捉えてしまうとクライマックスが「アイドル続けたい!」と「やっぱり春香ちゃんみたいになりたい」と「ふええ衣装入ったよ~」 になってしまうので、まったく盛り上がらないことこの上ない。春香(の姿をした『アイマス』)が言った事を汲み取れなければそりゃ駄作だろって思うわけです。
 ただ、映画の尺、演出の重さ、あと11話の対比としての「2」と、23話24話の対比としての「3」ってことを考えると、可奈の物語をあの映画のメインとして捉えてしまうのもむべなるかなとも言えるわけで、そのへんは仕方ないことかなとも思う。
 勿論、「輝きの向こう側へ」というタイトルと、バーベキュー後に春香へ語りかけるPの言葉を考えれば、あの映画のメインテーマは「1」となるだろう。だからクライマックスは春香の演説と、その後の皆で川面を眺めるシーンになる。さらに言えば、「3」の結論としての「可奈も含めて『今』なんだ」「団結」というキーワードはそのまま「1」のクライマックスに繋がるんだけど、その繋がりが実は見えづらい。だから「可奈がデブって痩せてオーイェー」をあの映画のメインとしてしまう人も多いんじゃないかな。視聴者がクライマックスを何処に設定するかで、「クライマックスへ丁寧に持って行っている」となるか「クライマックスまでの持って行き方と結論の付け方が雑」となるかが分かれる。

 じゃあ「1」をメインに見ればオールオッケーかというとそうじゃなくて。
 「今までありがとう、これからもよろしく」は映画の中で完結しないんだよね。有り体に言えば「メタすぎる」。さらに言えばそれはあくまでも『765プロと我々P達のストーリー』であって、『映画のストーリー』と言えるかは難しい。だから映画の評価にいれられるかは微妙。
 もっと突き詰めれば、「あれは誰の物語だったのか」という問題にもなるんだけど、あれを彼女たちの成長の物語とするなら、あれは春香=可奈の物語になる。そうした上で「春香以外がおざなりになってるじゃねえか」という問題はやっぱりある。そりゃあある。
 でもあれを「今までありがとうこれからもよろしく」の映画だとすると、あれは春香の物語ですらない。春香の姿をとった『アイマス』という概念が語りかけてくる映画だ。神を降ろした巫女。そこに巫女の人格は残ってるのか。いわゆる春香女神化問題、ソレを受け容れられないと劇場版アイマスはきっついかも。実際、そういう方面から批判している人も見かけるし。

 ただ、自分にとっては、その薄ら寒さも含めて心打たれるとも言えるし、それも含めて「天海春香だから」だとも思うけど。あれはアイマス賛歌であり、その中には当然のようにプロデューサー賛歌も含まれていた。劇場版アイマスはそういう意味も込めて俺のための映画だったよ。

 

 というわけでマッドマックス面白かったよ。言うまでもないと思うけど「劇場版アイマスと同じくらい感動した」って俺的には最上級の褒め言葉だからね。DVD出たら買うかもね。


 それでは、佳きアイマスライフを。

コメント

ちゅうや
No.45 (2015/07/24 23:01)
俺は手放しに褒めるよ
批判は否定しないけど、批判も含めて、俺の中では最高の映画だ
また見たくなってきたからデレマス見たら劇場版を見るか
シュール
No.46 (2015/07/25 00:26)
読みにくい産業で
KAZ
No.47 (2015/07/27 16:10)
銀のスプレーを麻薬だと思ってんなら,あれはたんなる儀式なので違うと言っときたい
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