転寝しながら見る世界

原初的問題・宗教

2014/05/02 04:40 投稿

  • タグ:
  • 仏陀
  • 宗教
  • 論理
  • 哲学
  • 実践

宗教って何か?
全ての宗教は結局生死と言うどうしようもない問題に対する探求から生じる。

生は生きている状態の全て。全ての状態に生じる疑問。疑問に対する考察。
その考察が神を生み、哲学を生んだ。

死はどうしても解決出来ない消失。この消失に対する生の側の理由付け。それも宗教。
死と言う現象を受容出来ない恐怖が宗教のもう一つの側面。これも宗教の一つの要素。

この生死と言う問題の全てに対して生じる問と答えを設定するものが組織的宗教の骨子だ。

では仏教はどうか?
そもそも仏教は仏教と呼ぶべきではない、と思う。

例えば仏教は生と死の問題について他の断定を許容しない(原初的仏教)。
地獄の閻魔は実際は自分の善心であり、天に生まれ変わるのはこれまた自分の善心の判断なのだと、原初仏典を読む時理解出来る。
全ては自らに帰する=自燈明
その自らの決定の指向性=法灯明
として仏は説く。

だから、仏教は教ではあり得ない。宗教、つまり他の判断、神や裁定者の存在を認めない。仏はその真理、及び心理作用を解き明かし、人を導いた。当然、それは他者に救いを求める、神に、仏に求める教えではない。自分が実践し、自分で見出し、自分で達成する物としての教えだ。

しかし、宗教心は存在する。
仏教にも存在する。それは仏の教えを判断し、それを真であると受容し、そこに信を得て初めて仏の教えに従って実践出来る=帰依
しかしこれも強制ではない。あくまでも救い、理解、実践は自らに委ねられる。
仏に直接教えを受けても悟れないと言う説話が存在するのは仏の教えの基本が自力であるからだ。

これは他の宗教と呼ばれるものとは異なった宗教と言える。
極楽に行くのも地獄に行くのも自力の結果なのだから。仏を信じれば極楽に行けるわけではない。

この論理において私は仏に信を置く。絶対的な信頼を持つ。沸き起こる疑すら、教えを思惟し、自ら理解する事を説く仏の論理を真だと諒受する。
その教えを実践する内に疑は無い。ひたすら自らを島とし、教えを島とする実践に疑を持たない。今は理解出来なくても、実践の内にそれは理解されていく。

合掌


コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事