転寝しながら見る世界

論理言語と非言語真相

2014/02/16 03:53 投稿

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如何なるかな本質、と言う命題で暫く私の思考は様々な方向に徘徊した。

だが、単なる思考でしかない。

所詮思考は言語に束縛されるのである。なので私の知らない言語については語り様も無いと言えば無い。それを自らの言語に置き換える作業が論理である。


とか思いつつ、ウィトゲンシュタインの

「語りえない事柄について人は沈黙しなければいけない」と言う言葉を想起した。

ここでウィトゲンシュタインを持ち出すことには躊躇いを感じるが、実際言語と言うやつは厄介なものでしかないのだ。


それは例えばこう言う命題を私が提出した時自覚される…曰く

「日本には日本人などいない。日本人とは日本列島にある時期から定住した人間の総称でしかない」。

どうであろう?多分私を単なる保守思想者だと了解している人にとっては衝撃だろうか?それともそれは当然の論理であり、事実でしかない、と取るのか?あるいはもっと深層の日本人とは何か?までを意識の範囲で探る起点になるだろうか?


正直言って、最後の日本人とは何か?までの思考の拡張を持つ人は少数者なのだと残念ながら感じている。保守思想の浅さはそうした所にある。ここでは保守思想における論理のメルクマールをあえて挑発的に提示したが、会話の限界もそこにあり、書いている文章を受け取る側との意思疎通においても限界が生じているであろう事をあえて指摘したのだ。


非言語領域においては、そこに論理的解、などは必要とされない。

論理的に言語化出来なくても日本に祖先から定住し、日本と言う国家に属する自分は日本人なのだ、と自覚してしまえば何の問題も無い。

ただ、そこから先、あるいはそれ以前の民族やそれに属する自分と言うアイデンティティーを問うなら、そこまでの意識の拡張こそが求められる。


あるいは自己とは何か?

それを問う事がある種の無意識層にまで拡張されて認知されるのか?と言う問いだ。

ユングは元型と言う考え方をした。ユングの領域で言えば、それは民族的集団の無意識層に共有されるイマージュの源泉である。

しかし私はそこに留まりたくは無い。そのより深い層、そしてそれよりもっと、もっと深く、へと私は問いを拡張していく。


それが私にとっての仏道の実践なのだ。

するとそこに有る瞬間、突然上記したウィトゲンシュタインの言葉がのしかかってくる。

そしてそれを良とする自分がいる。

それを神秘や、スピリチュアル的なファンタジーに書き換えてまで語るべきでないのだと知る。

相変わらず私はそれを継続して飽く事もない。私は非言語的真相こそに本質を見出すのだ。





それら全ての先駆者であり覚智し、実践した善逝に帰依します。

合唱


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