今回はpiano-treeさんのブログ『piano-treeの日記』からご寄稿いただきました。
「縁起かつぎ」は理にかなっている、という般若心境の教え。(piano-treeの日記)
私が仏教に興味を持つようになったのは、二十代前半の頃に奈良の薬師寺を観光で訪れたことがきっかけでした。当時の私は西洋文化に傾倒しており、好きな画家の故郷を訪ねベルギー辺境の港町を訪れたり、有名な建築物を見るためにスペインの紛争地に赴いたりしていたくらいなのですが、日本の建築や美術は歴史の授業で学ぶような退屈なもの、見ようと思えばいつでも見られるあまり価値の高くないもの、と誤解して考えていました。なので、その時薬師寺を訪れ、一年のうち限られた期間しか公開されない平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」を見るに至ったのはまったくの偶然、今考えると僥倖でした。
観光客の流れに身を任せるまま、何とはなしにたどり着いた大唐西域壁画殿で、私はその壁画に出会いました。第二画である「嘉峪関を行く・中国」を壁面に見上げながら、私はつまらない絵だな、と感じていました。この絵が描かれた50年前にはもう、ジャクソン・ポロック(絵の具をキャンパスに撒き散らすアクションペインティングで有名)のような人が出てきたような西洋の絵画と比べ、現代においてもこのような写実的な風景画を描いている日本画には、なんとなく進化がないように感じられたのです。
そのようなことを実際当時の彼女、今の妻に話していたら、おそらく近くでその話を聞いていたお坊さんが近づいてきて、「この絵が気に入りましたか?」と尋ねてきました。私はつまらないと思っている旨を正直に伝えました。すると、そのお坊さんはそうですか、と穏やかに微笑み、その壁画の説明を始めました。この大唐西域壁画は、平山郁夫画伯が20年の歳月をかけて完成させた彼の人生そのものであること。その間200回現地を訪れ文献を読み漁り文字通り全身全霊を捧げて描き上げた作品であること。空の青一つとっても、絵の具を使わず、現地で採掘したラピスラズリの鉱石を砕いて顔料にしていたり、絵画というよりある種の造形物であること。そしてかの日本画の大家を駆り立てた、玄奘法師(いわゆる三蔵法師)への強い思い。そんな話を聞いてから改めて見てみると、その壁画はまるで魔法がかかったように、今度はとても素晴らしいものに思われました。
その旨を伝えると、想像していなかった答えが返ってきました。そうですか、でもそれは間違っているんじゃないでしょうか。耳を疑いました。お坊さんは続けます。あなたが最初に感じたつまらない、という気持ち。そして今感じた素晴らしい、という気持ち。どちらも間違っているんじゃないかなと思います。あっけにとられる私に、お坊さんはさらにこんな例え話をしてくれました。小学生の坊ちゃんが、朝校庭でボール遊びをしていました。その子はなんて小さい校庭なんだ、もっともっと広ければ良かったのに、と思うんです。放課後になって、授業中に悪さをした坊ちゃんは、一人で校庭の掃除をするように命じられます。すると今度は、なんて広い校庭なんだ、もっと狭ければよかったのに、と思います。どちらも真実ではないですよね。校庭は変わってないんです。校庭をただ校庭として見るこころ、かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころを、仏教では空(くう)のこころと言って大事にしているんです。
前置きがかなり長くなりましたが、お坊さんのこの説教に完全にノックアウトされ、爾来私は仏教に強い興味を持つに至りました。色々と書籍をあたり勉強していくうちに、薬師寺でお坊さんが語ってくれた「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ」というあの印象深いフレーズは、薬師寺元管主で高名な法相宗の僧であった高田好胤さんの言葉だと知りました。仏教の真理はシンプルで、般若心境というわずか276文字の経典にその教えが集約されていますが、高田好胤さんの言葉はさらにそれを短い一文に集約しています。かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空の心なり。これで全文です。仏教で一番大事なのはここでいう「空(くう)」の概念なのですが、同じ絵が一瞬で素晴らしくも、つまらなくもなるのであれば、そもそも絵や校庭のように「実態があるように見えるもの」はすべてその実は「空」、つまりからっぽなんじゃないか、ということです。これを理解するにはちょっとだけ補足が必要で、まずは「縁起」という考え方を理解する必要があります。
仏教における縁起・縁とは通常使われている意味とは異なり、「すべてものが持っている、他のものに影響を与える力」というようなニュアンスの概念です。ここでいうすべてのものとは、人間以外の生物、あるいは無機物までふくめ、また行為や思いもふくめたすべてのものを示し、仏教ではそれを色・受・想・行・識の五蘊(ごうん)といいます。例えば私が心の中で「あの人ムカつく」と思ったとします。その思いは、微妙に私の血圧や血流を変化させ、例えば表情をわずかに変えるかもしれません。その表情の変化を誰かが感じとり、今度はその人の心を微妙に動かすかもしれません。そんな風にして、五蘊はすべて他のものに影響を与える、時に大きな、時に誰も知覚できないほど微妙な力を持っていて、それが連鎖し、混じり合い重なり合うことで、まるでマッチ棒がお互い微妙なバランスで支えあってカタチを作り自立するように、世界は成り立っている。なので、何か存在を存在たらしめる根元のようなものはなく、そんなマッチ棒の城郭が何かの拍子にむごくも崩れ去ったら残るものはただ「空」なのです。
お布施というのは、本来は他人のためにする「いいこと全て」を示し、お寺にお金を寄贈することだけを言うものではありません。たとえば、夜寝る前に誰かの幸せを祈るだけでも、それはその人に対するお布施です。「頑張って」と声をかけるだけでもお布施です。なぜなら、仏教では思いや言葉はすべてある種の影響力を持つと考えるからです。この事は言霊信仰(言葉にしたことは、言葉の魔力により実現する、という考え方)とも関連が深く、キリスト教の祈りは意味が大事なのに対して、仏教の念仏は意味がわからなくてもありがたい、と考えられることにも通じています。余談ながら、私は幼い頃教会に通っていたのですが、当時賛美歌や「主の祈り」は文語で、「テンニイマシマス(天に在します)」や「シュワキマセーリ(主は来ませり)」と言った文句を、日本語ではなく意味のないおまじないのようなものだと思っていました。幼い子供に「在す」などという単語が理解できるわけもないのですが(今でもよく解りません)、それをある意味闇雲に、呪文のごとく暗唱させるわけで、日本ではこうしてキリスト教信仰の中にさえ仏教信仰の片鱗を見るものです。
願をかける、縁起をかつぐという行為は、その意味でとても論理的・合理的(科学的ではないにせよ)です。思いが言葉に、言葉が行為に、行為が他者に影響し、それが社会に連鎖していくという理屈は、宗教としてではなくある種の教訓として素直に理解できないでしょうか。仏教には神様もいなければ奇跡もありません。古来現代に至るまで数学を得意とするインドの方々が考え、育んできただけあって、仏教は非常に論路的な思想体系です。そして仏教は「この世は不幸である」という認識をスタート地点としていますし、空という考え方は時にニヒルな態度、受け身・消極的とも解釈されがちですが、よい行い、よい思いは何であれ(微力ながらでも)力を持ち、連鎖すると考えるところはとても前向きで自発的・能動的です。一方、どんなに良いことをしようが悪いことをしようが、その事には全く関係なく、マッチ棒の城郭はいつ知れず突然形なく崩れ去ってしまうかもしれません。そのときはくよくよせずに諦めよう、マッチ棒の城郭はかりそめのものだったのだから、もともとは空だったのだから、と仏教は教えます。それが「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ」ということだと思っています。
五郎丸ポーズで有名になったスポーツ選手のいわゆる「ルーティーン」は、単なる願かけではなく、精神集中やリラックスなど様々な具体的効用があることが広く知られていますが、小さな行為の持つ力の連鎖という意味で、縁起という考え方に通じるものがあります。そしてこのことは縁起という概念の合理性を裏打ちします。つまりルーティーンだってやはりある意味で縁起担ぎである、あるいは、あらゆる縁起担ぎはある意味で今でいうルーティーンである、ということです。五郎丸ポーズがあれだけ人気を博したのも、日本人が古来から親しむ縁起担ぎに通じるところがあるからというのはそうだと思いますが、ルーティーンが合理的だと広く知られるようになった今、我々日本人はもっと堂々と縁起を担ぎ、お布施をしてもいいのではないでしょうか。夢をノートにしたためること。遠くの被災者のために祈ること。それらは合理的なルーティーンであり、立派なお布施です。そう考えると、両手を合わせ天を拝む五郎丸選手が、仏の教えを広める菩薩か天にも見えてきます。
執筆: この記事はpiano-treeさんのブログ『piano-treeの日記』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2016年2月24日時点のものです。
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