『龍が如く』と言えば、アクションアドベンチャーゲームの人気シリーズとして有名だ。現実に存在する歓楽街、新宿・歌舞伎町をベースにした街が舞台ということもあり、これまでに様々な実在店舗とコラボレーションしている。本作においても「富士そば」や「養老乃瀧」など、様々な実在店舗が登場。このため、たとえプレイしたことはなくとも、『龍が如く』の名前は聞いたことがあるのではないだろうか。
そんな人気シリーズの最新作がとうとう発売されたわけだが、今作はこれまでと幾分勝手が違っている。主人公も舞台も、さらにはゲームジャンルさえも、既存シリーズから変化しているのだ。
熱い人情を武器にどん底から這い上がる新主人公! 春日一番
「龍が如く」シリーズは前作『龍が如く6 命の詩。』において、これまでの主人公だった桐生一馬の物語が完結した。このため、本作『龍が如く7』は新たな主人公、春日一番の物語なのだ。彼は年齢が40歳。年齢に何か関係があるのかというと、筆者は大いに関係があると思う。というのも、40歳といえば、人生に挫折感を覚えるような出来事のひとつやふたつ、確実に経験している年齢だからだ。
この記事を読んでいるあなたが40代だとしたら、ちょっと自分の人生を振り返ってほしい。子どものころ想像した人生のとおりだろうか? あの時思い描いた大人になれているだろうか? 残念ながら多分、たいていの人は「NO」と答えるのでは。
なぜなら、今40代だというなら、バブル崩壊や就職氷河期、インターネットや携帯電話、スマートフォンの急速な普及といった時代の激変を何度も味わっている。この変化を子どものころに想像しろという方が無理。ちなみに筆者もそんな40代の一人だ。
そして本作の主人公も例外ではない。春日一番は新宿・歌舞伎町のソープランドで産み落とされ、ソープの店長やソープ嬢たちに育てられた。順調に育ち、やがてヤクザとなった彼は、自分が憧れていた親っさん=荒川組組長・荒川真澄に裏切られ、金も住む家も仕事もない、完全に無一文な状態で横浜・伊勢佐木異人町へと流れ落ちる。まさしく、挫折。どん底の状況だ。
これまでのシリーズの主人公「桐生一馬」も順風満帆とはいえない人生を送ってきた人間だ。しかし桐生は「堂島の龍」と呼ばれる伝説のヤクザであり、その名に恥じぬ器量を持ち合わせている。このため、見る目を持った人間からは一目置かれていた。
これに対し今作の主人公・春日一番は、熱い人情は持ち合わせているものの、ゲーム開始時点では下っ端ヤクザ。自分一人の力で難局を乗り切れるほどの力を持ち合わせた男じゃない。しかも異人町へと流れ着いた時には荒川組と絶縁状態。下っ端ヤクザですらない。なので、本当に「どん底」感がある。
弱者と「共に」社会問題を解決!どん底から成り上がる物語
ところで、あなたは現在の日本についてどう感じているだろう? 希望を持てているだろうか? それとも、希望が持てない、いわば「どん底」のように感じているだろうか? 現在の日本は、格差問題や少子化に高齢化など多くの問題を抱えている。なので、希望を感じられずとも無理はない。そしてそれは、本作の舞台、横浜・伊勢佐木異人町も同様だ。
「龍が如く」シリーズの持つ「極道もの」という観点から横浜・伊勢佐木異人町を見ると、3つの反社会勢力が冷戦状態で危ういバランスを保っている一触即発の街だ。日本人ヤクザ・横浜星龍会、韓国マフィア・コミジュル、中華マフィア・横浜流氓という国籍の異なる三大勢力が睨み合う様子は「異人三」と呼ばれている。
本作が「龍が如く」シリーズである以上、当然こうした反社会勢力の絡む事件に関わっていくことになるのだが、本作が描こうとしているものは別のところにある。それは、横浜・伊勢佐木異人町で暮らす弱者たちの抱える問題だ。たとえばそれはチンピラに搾取されるホームレス。違法風俗で働かざるを得ない女性たち。あるいは家族に疎まれ、押し付けられるように施設に入れられた高齢者……つまり、横浜・伊勢佐木異人町は、現在日本の縮図のような街なのだ。
もし、本作の主人公が桐生一馬だったなら、弱者を守って“あげる”という描き方になっただろう。何せ彼は伝説のヤクザであり、たとえどん底な状況だったとしてもそこには「ヒーロー性」がある。しかし本作の春日一番は違う。彼は横浜に着いた時点では無一文のホームレス。他人の心配をする前に、まずは自分の食い扶持を稼がなければならない状態だ。なので彼は、「共に」あろうとする。ヒーローが解決するのではない。「共に」問題を解決していくのだ。この描き方のためには、確かに春日一番のような人物が必要になる。
「共に」解決することで、春日一番は、自分の居場所を徐々に作り上げていく。自動販売機の下に落ちている小銭を探したり、空き缶拾いをしたりしながらまずはお金を獲得する。やがてハローワークでバイト仕事を得て小さいながらも住む家を手に入れ、ソープランドの社員になる。そして、話が進めば、倒産寸前ではあるものの会社の社長にも……。これらは話の展開だけでなく、ミニゲームという形でプレイヤーも体験できる。なので、プレイヤーは主人公と「共に」問題を解決し、どん底から成り上がっていくことになるのだ。
本作は社会問題について味付け程度ではなく、正面からしっかり描こうとしていることが分かる。しかし本作は社会派のドキュメンタリーではなく、あくまでエンターテインメント。なので、ストーリーの後味は基本的に痛快。それでいて社会問題をベースにしているだけあって、どこかほろ苦い後味が心に残る。これは絶妙なバランスだと感じた。
本作ではこれがベスト!? 賛否両論あったバトルシステムの内容は
今40代だという人は、人生がゲームの歴史とともにあったといっても過言ではない。というのも、ほぼ小学生時代にファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売され、以降、PCエンジン、メガドライブ、スーパーファミコン、プレイステーション……と、成長と共に進化していくゲームハードを体験することができた世代。
ドット絵のゲームが3Dポリゴンとなり、今では実在する俳優がほぼそのままの姿でゲームに登場するまでになった(本作も中井貴一氏や堤真一氏、安田顕氏といった俳優陣が出演している)。そんな進化と共に生きてきた世代なのだ。そんな世代の一人、春日一番もゲームから強い影響を受けている。そのゲームこそ『ドラゴンクエスト』だ。いや、春日一番という以前に、本作自体が『ドラゴンクエスト』から強い影響を受けている。
たとえばそのひとつが、RPGという本作のゲームジャンル。本作が発表された際、ゲームジャンルがこれまでのアクションアドベンチャーからRPGへと変わり、バトルがターン制のコマンド選択式になると聞いて、SNSではそれなりの数のユーザーが拒否反応を示した。「『龍が如く』はアクションでナンボのゲームだろ!」というわけだ。ちなみに筆者も、SNSに投稿するほどではなかったものの、ターン制・コマンド選択式と聞いて当初はがっかり感を覚えたのは事実。
しかし、プレイしてみると「本作の世界観にはこのシステムがいい」と感じた。というのも、まずアクションしている感がしっかり味わえるから。「極技」で攻撃を繰り出す際にボタン入力が求められたり、敵の攻撃を受ける際にタイミングよく×ボタンを押すことでダメージを軽減できたり…と、バトル中、結構な頻度でボタン入力が求められる。といってもアクション性はQTE(クイックタイムイベント)レベルで、難易度は決して高くない。しかしそれでも、アクションしている感はしっかりと味わえるのだ。
また、仲間のアクションをしっかり見られるのがいい。純粋なアクションゲームとして作った場合でも、AIを使って仲間と共に戦うバトルを実現することは可能だろう。しかし、アクション性が高いと、プレイ中どうしても攻略するために仲間の動きより自分の動き、あるいは敵の挙動に注目することになる。なので、仲間のアクションをしっかり描くためにはこのバトルシステムがベストだろう。「え? なんで仲間のアクションを見なきゃいけないのか」って? それは、春日一番が一人で戦っているのではないから。「共に」戦うのが春日一番というキャラクターなのだ。
『ドラゴンクエスト』の影響は、バトルシステム以外にも見られる。例えばそのひとつは職業だ。ここでいう職業とは、生活費を得るための手段ではない。いわゆるRPGな職業。つまり、バトル時の性能を決める職業だ。春日一番とその仲間は職業を持っており、職業はハローワークでの転職によって変更できる。つまりハローワーク=ダーマの神殿!なのだ。
職業が変わると、バトル時に見た目の服装が変化する。これは春日一番の「妄想」が影響している。本作はこの「妄想」を武器に、敵の姿まで変化させている。なので、『ドラゴンクエスト』のモンスターのような姿の敵も登場する。これはユーモアとして面白い上、「スジモン図鑑」を完成させるというミニゲームとも結びついている。「スジモン図鑑」は、街にいる危険な人間やその筋の人間…「スジモン」を集めるというルール。このネタは『ドラゴンクエスト』ではなく、明らかに『ポケットモンスター』のパロディだ。
お前ならできる! ゲームには希望を与えてくれるエールが込められている
筆者は現在までプレイ時間11時間ほど。第五章までプレイした段階でこの原稿を書いている。この時点で最も心に刺さったのは、住む家を手に入れた夜に、安田顕氏演じる仲間のナンバと酒を飲みながら話すシーン。住む家ができたことでホームレスという状況を脱することができた2人は、これから何をしようかと話す。しかし、人生の目標と言っていいほど憧れていた親っさんに裏切られ、やりたいことが見つからない。そこでナンバは問う。「子どもの頃…… 何になりたかった?」と……。
春日一番の答えは「勇者」。『ドラゴンクエスト』の勇者だ。この答えをナンバは笑うが、しかし笑った後で言い直す。「お前ならできる」と。ホームレスというどん底にあって、自分たちの問題に正面から向き合い、仲間たちと「共に」解決できた主人公なら、子どものころの憧れに再び向き合えるはずなのだ。また、同時にこの言葉はプレイヤーへも向けられているように思う。プレイヤーも主人公と「共に」どん底を体験し、脱したからだ。
人生は予測不能。なので、人間、40歳にもなれば挫折の一度や二度、味わっているはずだ。筆者だって例外ではないし、人によっては再び希望を持てないほどの挫折を経験した人もいるだろう。でも、希望に向かって歩き出すことはできる。
「お前ならできる」……春日一番は、そんな気持ちを抱かせてくれる主人公だ。それは彼が「弱者を守るヒーロー」ではなく、「共に」歩んでくれる人間だから。そして、彼が「理屈」ではなく、「情や心で考える人間」だからでもある。「希望」に溢れる人を見ているとわかるが、「希望」は、理屈を積み重ねたから生まれるものじゃない。理由や根拠がなくとも、心の底から湧いてくるのが「希望」なのだ。だからこそ、見出せなくなった時に取り戻すのは難しい。そして逆に、だからこそ再び「希望」を与えてくれる本作は、プレイする価値のある一作だと思う。
『龍が如く7 光と闇の行方』は年齢に関わらず楽しめる作品だと思うが、40代。かつて『ドラゴンクエスト』の勇者に憧れた人にこそプレイして欲しい。
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取材・文/田中一広
―― やわらかニュースサイト 『ガジェット通信(GetNews)』
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