この世には、ろくでもない人間がいる。
表では人当たりよく、しかし裏では舌を出して嘲笑い、権力に取り入り、事を偽り、人を騙し、或いは操り、火のないところに煙を立たせ、己は矢面に立つことなく、他人を使い潰し、用無しとみれば切り捨てる。そんな人間が。
降魔戦役終結から五年。
私は……帝国聖騎士団は、そんな手合いを腐るほど見てきた。
ルヴァーナ・ルーティアと名乗る女に感じたのは、同様の腐臭だった。それを覆い隠すように振られた香水は、くどいほどの甘さと咽るような粉臭を伴い、湿り気を孕む乱れた風に掻きまわされてなお、私の鼻腔にまとわりついてくる。当の本人はその異様な香気に気付いているのか、いないのか。鼻梁に戴く細い眼鏡の奥には、瞳の色も視線の先も見えないほどの、貼り付けたような笑みがあった。
横風に乱れた黒髪を搔き上げながら、女はまた粘りつくような声を発した。
「立ち話もなんですしぃ……どうぞ中へ?」
豊満な腕が指し示す、妙に豪奢な天幕。わざとらしく傾げた首、相変わらずの冷たい笑み。そうした一つ一つが鼻につくのは、絡みつく香気によるものだけではない。
昨今、外交部に対する内部調査を進める中で、この女の名は度々耳に入っていた。外交部高官エルドレイの秘書。表向きは柔和で、調整役としての評判も悪くない。だが、なにか話が揉め、その経緯を知る者たちが揃って口を閉ざすような場には、得てしてこの名が潜んでいる──そんな報告を、私は一度ならず目にしていた。
中には、聖騎士団も含め他者の名を勝手に用いた強引な調停もあったと聞く。そんな稚拙なやり口がバレないとでも思っているのか、バレても大したことはないとタカを括っているのか。いずれにせよ、ろくでもない人間ほど他者を舐め切った真似に躊躇がないものだ。
そうした内なる思考の巡りが、外へ向ける判断を数瞬遅らせた。天幕へと歩き出したルヴァーナが、陣内の兵士全員に聞こえるように声を張り上げる。
「皆さ~ん! 聖騎士団から不落さまのご到着で~す、粗相の無いよう願いま~す!」
しまったと思った。いま私が合同調査隊の陣営に現れるのは、この女と外交部にとっておそらく想定外だったはずだ。それは、最初に探りを入れた兵の反応で推測できた。あとはそれを確たるものとする裏付けと、その理由が欲しかった。だが、私の存在が兵士間に共有された以上、彼らを問い詰めたところで返ってくるのは、前もって用意された言葉だけだろう。
もちろん、相手が賊徒の類であれば情報を吐かせる手段が無いわけではないが、聖騎士団の体裁もある。無茶はできない。「そうでしょう?」とでも言いたげな視線をこちらに向けながら、ルヴァーナは天幕へと姿を消してゆく。
自然と舌打ちが漏れた。即座にそれを悔いる程度には自制が利いているつもりだが、あまり良い兆候とは言えない。遠巻きにこちらをうかがう兵士たちへ気取られぬよう一呼吸を済ませると、努めて無表情に徹しながら、ルヴァーナの後を追った。
天幕の垂れをくぐった途端、耳に響いていた風鳴りは幕一枚隔てられ、幾分鈍った。絶えぬ風に帆布は細かく震え、継ぎ目のあちこちが軋んでいる。中央に吊られたランプは、その度に内部の輪郭を曖昧に照らしていた。身分や権威を誇示するためとしか思えぬ調度品の数々は、一見して誰の趣味かおおよそ察しがつくとともに、それを隠す気もない甘ったるい香気が、天幕内に充満している。
「狭いところですけれど、ご遠慮なくぅ」
黒い裾を引き、天幕の奥へと進むルヴァーナの足元には、臨戦の野営には似つかわしくない敷物まで敷かれていた。地の湿りを避けるためというには織りも細かく、端にあしらわれた模様も無駄に手が込んでいる。小卓も椅子も同様に、縁や脚に施された装飾は、実用よりも見栄を優先したものに違いなかった。
ルヴァーナは小卓の奥、最も奥まった位置へ回り込み、豪奢な椅子に身を預けて言う。
「どうぞぉ、お掛けになって?」
示された対面の椅子へ視線を落とす。置かれていたのは、見目ばかり整えた華奢な椅子だった。重装鎧を着込む私の重量を受ければ、即座に崩壊するであろうことは想像に難くない。
本来こうした場では、丁重に辞して座らずというのが、目上の者に対する重武装者の素養とされる。それを承知の上か、ルヴァーナは薄ら笑いを浮かべたまま、また首を傾げて見せた。
安い挑発か、或いはこちらの出方を探っているのか。
私は椅子を引きながら防護魔法を流し込むとともに、自身の軽量化術式を組み替える。そのまま何事もなかったように腰を下ろすと、ルヴァーナの笑みがほんの僅かに揺れたのを見た。
「期待外れ、だったか?」
「いいえぇ、不落さまが椅子ごときで難儀されるわけもなく……」
「そうじゃない。私の到着が想定より早過ぎたのか、と聞いている」
「まさかぁ、不落さまに限って刻限に遅れるようなことは……」
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