【1章】
夢を、見ていた。
壁まで視界が通らぬほどの暗い部屋。小窓を抜ける月明かりはそっと闇に溶け、その中央、樹木が自らその姿形を望んだかのようなテーブルを挟み、二人のエルフが座っていた。少し手を伸ばせば相手に触れることができそうな距離、その間に、一対の小さな魔法の灯を漂わせて。一つは揺らめく炎のように、一つは輝く宝玉のように、それらはまるで踊るように振る舞い、明滅し、二人の幸せそうな微笑みをおぼろげに浮かび上がらせている。
私は、光が届かぬ壁際でそれを見ていた。
声をかけたい、今すぐ駆け寄りたいと思った。そうすれば、きっと二人はその笑顔を私に見せて、こっちにおいでと言ってくれる。そんなことはわかっている。しかし、二人の微笑みがどうしようもなく遠く感じた私は、ただじっとその様子を見つめていた。それだけで私は幸せなのだと、自分に言い聞かせながら。
この瞬間が永遠に続くことを、静かに願った刹那。
舞い踊っていた魔法の灯が狂ったように捻じれ、混ざり、かと思えば音もなく掻き消えた。闇に包まれる室内。気が付くと月明かりは血のような赤みを帯び、瞬く間に、暴力的で鋭い輝きへと変貌していく。私の身体を、血が逆流するかのような感覚が支配していった。それは耳障りなほどの心音となって、内側から静寂を突き破ろうとしている。それでも私は、動くことも、声を出すこともできなかった。そうだ、私は、これから起こることを、知って、いる。
不意に、二回のドアノックが響いた。今この空間にべったりとへばり付いている不快感などまるで意に介さず、軽やかなドアノックがさらに二度、三度と続く。やがて、わざとらしく軋むドアの音が響くと、暗闇に深紅の光が差し込み、恐怖に身を寄せ合う二人の影を明確なものにしていく。
その、向こう側。迸るような紅光を背に何者かが立っている。人らしき輪郭を伴っているが、蟲の甲殻を思わせるような歪な姿だった。その頭部にあたる箇所には、鋭角に捻じれた二本の角が光を切り裂くように突き出ている。鳴り止まぬ心音は痛みを感じるほどに激しさを増し、次第に聴覚が失せていく一方で、耳の中で羽蟲が暴れるような感覚を鼓膜が捉え始めていた。身体中から汗が噴き出る。まばたきもできない。呼吸すらもままならなくなっている。それでもなお私は、その影を直視することしかできなかった。
そして、まるでそこに穴が開いたかのように。
音もなく、影が嗤った。
その真っ赤な眼光に見据えられた瞬間、私の中で一つの感情が発火した。怒り。こいつだけは絶対に許してはならないという、確固たる怒り。今この瞬間に怯え続けるだけのこの身体にすら腹が立った。それを断ずるようにありったけの力で肺を膨らませると、絞り上げるようにそれを吐き出しながら、喉が裂けるほどの怒号を上げた……と思う。もうそれすらも自分の耳には聴こえていなかった。だがそんなことは最早どうでもいい。すくみ上がる肉体、そのすべての箇所に意志をねじ込む。
足を踏み出せ。
身体を前に。
手を伸ばせ。
もっと前に。
二人のエルフがこちらに振り返った。
その端麗な顔が、より恐怖に歪んでいく。
ああ、そうか。
きっと私は今、あいつと同じ顔をして──。
──そんな夢を、私は見ていた。
それが夢であったと確証を得る頃には、陽光差し込む視界は天地が逆転し、いつもそこにあるはずの重厚な執務机の代わりに、座り慣れた椅子が横倒しになっているのが見えた。床には書きかけの報告書やインク瓶が無残に散らかっている。大きく仰け反った我が身の背を支えているのは、どうやら行方不明の執務机であるらしい。昨夜から身にまとったままの全身鎧が机を圧迫し、ギシギシと嫌な音を立てている。なおも暴れ続けている心臓をなだめるべく、大きく息を吸い吐き出そうという時、不意にドアが開いた。
「……おいおいおいおいィ、こいつは何事だ、フラァ~ク?」
呆れたような声とともに部屋を覗き込む一人の男と目が合った。飄々とした態度とは裏腹にその眼光は刃物のように鋭く、帝国内においても下手に目を合わせると碌な目に遭わないと評判のこの男、名はユーリィ・ワイズバーン。それが真名ではないことが暗黙のうちに知られる、我が親愛なる帝国聖騎士団長さま、その人だ。
「お取り込み中?」
「いえ、べつに。ちょっと妙な『蟲』がいたもので」
その返答に対し彼は、目を伏せ、察したように数回頷いて見せてから、部屋へと入ってきた。平時においても礼装軍服を好まず、特別設えとはいえ革の軽鎧を基調とした各種装備は、知らぬ者にその立場を連想させるものではない。だが、高官支給品である深緑の外套を肩から流し纏い、その上を翻る幻獣の尾のような結い上げた銀髪は、かろうじて彼を聖騎士団長たらしめていた。
「日頃お疲れなお前に、良い知らせを持ってきてやったんだ」
不敵な笑みを浮かべるその傍らには、紐で巻かれた書状が見える。気怠さの残る身体をようやく起こすと、差し出されたそれを手に取った……が、団長は書状を手放そうとしない。そのまま、こう続けた。
「最近のお前は働きすぎではないかという報告が入ってな、我が聖騎士団としては団員の健康管理も重視しなければならないわけであるからして、今日一日お前に特別休暇を出すことに決まった、良かったじゃないか、今しがたも寝ぼけていたんだろう、この機会にしっかり休息を取ると良い、それに休暇手当として少しばかりのカネも用意してある、城下町にでも繰り出してパーっと使ってくると良い、おぉそうだそれから……」
過分な労働はなはだしい聖騎士団には到底考えられぬ、まるで夢のような文言が矢継ぎ早に繰り出される。もしかして私はまだ夢を見ているのだろうか。夢の中なら団長の顔を一発ブン殴っても良いのではないか。そう思い始めた時、相変わらず耳障りの良い言葉を並べ続ける団長が、書状の影に隠れた私の右手甲を指でコツコツと叩くのが伝わってきた。
二回、三回、一回。
二回、三回、一回。
二回、三回、一回……。
全身が総毛立ち、寝惚けた頭が一気に覚醒すると、団長の目が私をまったく見据えていないことにも気が付いた。顔は正面を向いたまま、眼球だけが団長の背後を捉えようとしている。私の視界の端には開け放たれたままのドアが確認できるが、そちらには決して視線を送らぬよう努めながら、こちらも同様に団長の手甲を叩いた。
「……よし。じゃあこれが休暇申請書な、休暇手当はこっち」
ようやく手放された書状に加えて、革袋の中には銀貨二枚、銅貨三枚、金貨一枚の念の入りよう。思わず溜息が漏れそうになる。どうせなら金貨を三枚にしてくれても良かったのに。
「くれぐれも土産を忘れんなよ」
「なにをご所望で」
「例の店で、出どころ不明な霊酒が売ってただろ?」
「バレても知りませんよ」
「呑んじまえば証拠は残らんさ、んじゃ後よろしく!」
そう言うと団長は、上機嫌に部屋を出ていった。
「まったく、ドアくらい閉めていけば良いのに……」
敢えて誰かに聞こえるかどうかという声量で不満をこぼしながら、廊下側へと大きく開かれたドアに手を掛け、引く。その一瞬の動作のうちに、意識だけを廊下に集中させる。視線は向けない。そのままごく自然に、ドアを閉める。
……いる、な。
それなりに高度な透明化術式を纏っているようだが、気配消しは今ひとつだ。
倒れていた椅子を起こし、書状とカネをひとまずそこに置いた。振り返った先、散らかったままの書類や執務机を前に、今日もまた、抑えていた溜息が一気に漏れていく。
部屋の片付けは帰ってからやろう。少なくとも今は、そんな気分にはなれなかった。
◆
【2章】 七年を戦い、五年の復興を経てなお、手にした勝利と癒えぬ傷跡が共存する『帝国』。
魔族侵略の標的とされつつも、複数国家の連携結託が間に合った数少ない連合体である『帝国』は、だが急造ゆえに名を持つこともできぬまま、属した国々の思惑と解体、責任転嫁と再統合を経て、その枠組みだけが今も辛うじて残されていた。
名を冠するには、あまりにも継ぎはぎで、あまりにも脆く、あまりにも曖昧なまま、しかしここにしか拠り所を持たぬ人々はそれを『帝国』と呼び、今日を生き明日を求めている。私も、そんな一人だ。
戦時下、各国混成兵士大隊が駆け抜けていった城下町は、今やそれ以上の民衆や荷車が行き交っている。舗装し直された石畳には屋台や店が所狭しと並び、当時を知らぬ子どもの笑い声も増えた。守り切れなかったものも多いが、少なくとも終わらずには済んだ場所だ。偽りの休暇とはいえ、活気に満ちる町を眺めながら歩くのも悪くはないと思った。多くを望むなら、こんな赤々と目立つ全身重装鎧など脱ぎ捨てたいところではあるが、私にその自由はない。帝国聖騎士団とは、『不落』とは、そういうものだ。
もう少しだけこの賑わいを見ていたかったが、今日のところはそうはいかない。城門から延びる大通りを横目に、早々に人けのない裏路地へと歩みを進めながら、自室からずっと私を尾行し続けている何者かに思考を巡らせた。
相応に高度な透明化術式。その一方で十分とは言い難い気配消し。いくらか漏れ出るそれに威圧感や殺意までは感じられず、むしろ貧弱なまでの敵意はまるで、怯えながらも威嚇する小動物のようでもあった。加えて、その尾行術は稚拙に過ぎる。私の歩調に合わせ足音を誤魔化そうとする頭はあるようだが、こちらが拍をずらした際に対応ができていない。つい今しがたなどは、曲がり角を行く私の背後を小刻みな足音が追いかけてくる始末だ。挙句、少し乱れた鼻息と咳払いまで聞こえてきた時は思わずその頭を引っ叩いてやろうかと思ったほどだが、おそらく追跡者が男であろうことは、それで分かった。
今すぐにでも制圧、捕縛するのは容易だろうが、ユーリィ団長はそれを望んでいない。私が成すべきは、温情を装い名目上の休暇を申し付けようなどという介入者どもの、その意図や背後関係を『外』で掴むこと。『内』は、ユーリィ団長の管轄だ。
城下町の裏側を縫うように走る路地は、大通りの喧騒もさほど届かず、淀んだ空気と埃が交じる別世界だ。その片隅、壊れかけの木箱に背を預け、一人の男がだらしなく寝転がっていた。片脚は伸ばし、もう一方は意味もなく膝を立て、顔を覆うボロ布からは毛髪の一切が剃りあがった頭頂部が覗いている。首元のヨレた上着はボロ布と同様に薄汚れてはいたが、粗末な衣服越しにも分かる筋張った腕や胸元、腰に帯びる短剣からは、不用意に他者を近付かせまいとする荒々しさが見て取れた。
その男に聞こえるよう雑に足音を立てながら歩み寄り、二呼吸ほど傍らに立つ。すると、唸るような濁った声が返ってきた。
「……今日はもう店じまいだ、他を当たんな」
「ほう、そんな羽振りの良さをどこで拾った?」
数瞬の間をおいて飛び起きる男。その勢いのまま立ち上がろうとしたようだが、踏み抜いた木箱に足を取られ、無様に背中からひっくり返った。剥がれ落ちたボロ布の下からは、口まわりに蓄えた髭と人相に似付かわしくない、情けない表情が見て取れる。
「ふ、『不落』!? ……の姐さん、な、なにか御用で!?」
「以前の貸しを返してもらおうと思ったんだが、そうか店じまいか」
「あ、いや、その、違うんですよ姐さん!」
「なにがだ?」
「そろそろ依頼人が来るってんで、そいつ待ってたってだけで!」
「ほーうこんな場所でか? お前また良からぬ仕事を」
「や、いやいやまさかそんな、俺ァもう心を入れ替えて……!」
「よーしわかった信じよう、ただし条件がある」
ようやく立ち上がった男の眼前に銀貨一枚を突き出し、こう続けた。
「私を『例の店』まで案内しろ」
「へ? だってあの店は姐さんも知って……」
「つべこべ言わないのも条件の内だ、嫌なら別に構わんが」
「ちょっ、やります、やらせてくださいってば!」
「なんだか私が無理強いしているように聞こえるな?」
「あー、やりたい! やりたいなぁ、すごく自発的に!」
「そうか良かった、じゃあついでにもう一つ」
「今度はなんです!?」
当初の威圧感はどこへやら、くねくねと身悶えるように返答を重ねる男に、さらに続ける。
「なにを聞いてもこの銀貨を見ていろ。……私を尾行している者がいる、そいつに見せるための茶番に付き合ってくれればそれで良い」
「あぁー……そういうことですかい」
「念のため、案内後はここに戻らずしばらく身を隠せ」
「そ、そりゃ困りますって、次の依頼人が……!」
「親切心で言ってるだけだ、お前の好きにしろ」
男はまだ何か言おうとしていたが、うつむきながら眉間に指先を伸ばすと、しばしの後その脂ぎった指で銀貨を摘まんだ。
「頼んだぞ。あぁそれと」
「まだなにか!?」
「迷惑料と口止め料」
銀貨を摘まむ男の手の甲に、それとはべつの銀貨をもう一枚乗せた。さすがにここまで来ると男の顔にも緊張感が戻り、私に目を向けることなく小銭入れへと銀貨をしまい込む。そのまま何も言わず歩き出す男の後を追いながら、私は背後へと意識を向けた。
追跡者は相変わらず、気配を漏らしながらそこにいる。奴の目に今の私はどう映っただろうか。聖騎士団の堕落、良からぬ繋がりを持つ団員、裏取引の気配──。どう捉えようが勝手だが、それで弱みを握ったとでも思ってくれればまずはそれで良し。なにも知らぬまま己に都合の良い情報だけを得ようとする阿呆者の行動は、滑稽なほどに御しやすいものだ。
ありもしない尻尾を掴むべく、せいぜい気張って後ろを付いてくると良い。
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