「あのコメディアンだけは一緒にやりたくなかったの」萩本欽一は、後に『サワコの朝』で、こう語っている。ここで言う「あのコメディアン」とは坂上二郎のことである。言うまでもなくコント55号としてともに「土8」で戦った相方である。
2人が出会ったのは浅草のフランス座だった。1959年、高校を卒業した萩本は、東洋劇場にコメディアン見習いとして入社した。東八郎などに指導を受け、力をつけた萩本は、3年目、当時「安藤ロール」と名乗っていたフランス座のリーダー格・坂上二郎に出会った。
東洋劇場とフランス座は同じ建物にあり、萩本はそこに"出向"したのだ。フランス座のほうが「格上」。そこに突然、若造が主役待遇で来たとあっては、周りの芸人は面白く無い。だから、萩本は"いじめ"の恰好の標的だった。
もちろんいじめといっても舞台の上で、だ。萩本に対して無茶な振りをしたり、萩本のボケを無視したりというのは当たり前だった。それが一番ひどかったのが坂上二郎だったのだ。「涙がでるほどくやしかった」という。
萩本はムキになってやり返した。坂上のムチャぶりに萩本は絶対に引き下がらず、しつこくからんでいった。すると坂上も「このやろう!」と返した。すると、観客にはバカ受けだった。それはそうだ。コントの演技ではなく真剣にやりあっているのだ。緊張感がある迫真のやりとりに引きこまれたのだ。だが、お互いに2人は「ぜったい一緒にやりたくない」と思う「最大のライバル」という関係だったのだ。しかし、それが皮肉にもコント55号の原型になった。
テレビで失敗し、逃げるように熱海で専属コメディアンとして舞台に立った後、コントのネタを思いつき浅草に戻った萩本欽一。「マージャンでもやらない?」坂上二郎は、たまたま萩本が帰宅したその日に、電話を寄越したのだ。
萩本は坂上のもとに行くと、熱海で思いついたコントのアイディアを話してみた。すると坂上は「そのネタなら二人でやったほうがいい」と言うのだ。確かにそうだった。こうして、コント55号が誕生した。
萩本は冒頭の言葉に続いて、「一緒にやりたくなかった」という真の理由を語っている。「理由は今だから言えるけど(坂上二郎が)"優れもの"だったのよ。その"優れもの"とやると自分が悲しくなるから嫌だなって」萩本は坂上の実力を誰よりも分かっていたのだ。その坂上と組んだら自分が霞んでしまうのではないか。そんな不安があったのだ。
だが、まったく逆だった。坂上は萩本がテレビを自分よりもよく理解していると分かっていた。だから、コント55号の舵取りをすべて萩本に一任したのだ。「(二郎さんは)まるで文句を言わない人。こんなに僕が年下なのに『好きなように欽ちゃんやれ』って。テレビ局の打ち合わせでも、『僕は邪魔だから帰る』って。全部僕にやらせてくれたの。だからどれだけ僕を信用してくれてたか。二郎さんは『欽ちゃんが考えれば良い』って」と。嫌だと思っていた坂上二郎と組んだことで道が拓けたのだ。だから萩本は言うのだ。
「運って前からこない。真裏からくるね」
(参考)『なんでそーなるの!』萩本欽一:著/TBS『サワコの朝』2015年8月8日
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萩本欽一 プロフィール
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